ピアノコンクール全国大会の会場となる劇場は思いのほか規模の大きいもので、大会の権威の大きさを目の当たりにした思いだった。

クラピカは黒いタイトなワンピース姿で、出場者たちの控室の入り口の壁沿いに、少し離れて立っていた。
手には、件のハンカチを握りしめていた。

制服で良いと言ったのに、両親も、そしてクロロも、婚約者然として隣を歩くパートナーが未成年の象徴のような制服を着ているのはまずかろうと、
母親がクロロと一緒になって見立てたこのワンピースを着るはめになったのだ。
制服以外のスカートなんて、精々小学校の入学式と卒業式くらいでしか着たことがないので心許ない。
母親は、こういうことでもないとワンピースやスカートを着てくれないから、と嬉々として選んでいたと後からクロロに聞いた。
似合うわけがないのに。その証拠に、先ほどから通りすがる関係者たちにちらちらと見られている気がする。
無論、この視線は気のせいではないわけだが、見られている理由としては、ブロンド美女がドレスアップしていれば言わずもがな、である。

この姿をパイロに見られるのは些か気恥ずかしいものがあるが、結婚のことは自分の口から伝えるべきだと思った。
というのは実は口実で、いい加減、仲直りして元の関係に戻りたかった。
距離ができてしまっても、一番の友達だと、思い続けていた。
これからもそう思い続けても良いという確信が欲しかった。

早く控室に行かなければ本番が始まってしまう。
なのに両の足は床に張り付いてしまったかのように動かない。
また、あの日のように突き放されてしまったら。
でも、このハンカチをまだ愛用していると知ったあの時のパイロは、とても嬉しそうに見えた、気がする。

などと逡巡をめぐらすうちに、控室の扉が開いた。
少しの雑談が隙間から漏れ出たことでそれに気付き、はっと顔を上げると、控室から出てきたのはパイロだった。


「あっ…」


クラピカに気付かず、逆方向に向かおうとする彼をクラピカは慌てて呼び止めようとしたが、上手く彼の名前が舌に乗らなかった。
しかし、パイロは彼女の声に気が付き、振り返った。
振り返った彼の表情は何とも形容しがたいものだったので、クラピカは再び言葉を失う。
彼は見たことのないベージュのスーツにブラックのワイシャツで、ガーネットのような色合いのネクタイを締めていた。
その所為か、全く知らない誰かに声をかけてしまったような錯覚に陥ってしまう。

クラピカがまごついていると、先にパイロが懐かしい柔和な笑みを見せ、口を開いた。


「……一瞬、誰だか分らなかったよ。…素敵なドレスだね」


ポケットに入れていた右手を上げて、クラピカの装いを指す仕草をした。
クラピカは思わず、慣れないヒールを履いた足元や、
肩から手首の袖までレースになった己のドレスを改めて見直してみる。


「あ…の」


変じゃない?おかしいだろ、昔から男みたいだったオレがこんな恰好してさ、笑っちゃうよな。
パイロこそキマッてるじゃん、絶対優勝しろよ、パイロなら絶対大丈夫だから。

親しかった頃なら簡単に言えたはずの言葉たちがどうしても出てこない。
突き放されるのが怖いから?それとも、結婚すると伝えたらもう二度と前のような関係には戻れなくなってしまう気がするから?


「……結婚おめでとう」


いや、婚約おめでとう、かな?
痛むヒールのつま先を見つめたまま視線を動かせずにいたが、、パイロのその言葉にはっと顔を上げた。
彼は張り付けたような、余所行きの笑みを湛えていた。クラピカの肩から力が抜ける。


「なん…だ。知ってたんだ」

「家庭教師のバイトの時、キルアから聞いて……もしかして、内緒の話だった?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」


そうか、パイロはキルアの家庭教師を。なら彼から聞いていても不思議はないが、
それなら、何か一言くらい言ってくれても良かったのに。
やはり本当に、以前のように戻るのは無理なのか。


「…もしかして、それを伝えに来てくれたの?わざわざ?」


そう気づかわし気に尋ねながら、パイロはクラピカに歩み寄った。
その様子にクラピカも少し緊張が解け、ハンカチを握りしめる力が緩んだ。


「あ…それもそうなんけど、もう一つ…」


また仲良くしたいよ、前みたいに。いや、まずは、演奏頑張れよ、かな?
ずっと距離ができてしまっていたものだから、本当ならば話したいことは一つや二つに収まりきらない。
それにしても、昔と変わらず極めて自然な態度の彼を目の前にして、以前の様に親しくしようなどというのは些か不自然な申し出のような気がした。
以前の関係に戻れるのであれば、とっくにそうなっていた筈だ。
いつだって強情な自分に、彼が折れてきてくれたではないか。

せめて、キルアの助言通りに、人生の局面となるであろう大会での演奏を控えた彼にエールを送ろうと口を開きかけた時、
彼が至近距離まで歩みよって来て腰をかがめたので、クラピカは口を噤んだ。

女にしては高いほうの自分の身長でも、彼はそうしないと口を耳元に寄せられないほど、背が高くなっていた。
そう、彼が耳元に口を寄せてきたのだ。
彼の右耳のピアスが眼前に煌めいていた。
そこに映る顔は紅く染まっていた。当然だ、その石はおそらくガーネットと思しき赤い宝石なのだから。


「もっと仲良くしなくて良かったよ」


囁かれた声は低くて意地が悪かった。
一瞬何のことか、と考えを巡らせたが、答えに辿り着くのにはそう時間がかからなかった。
何故なら、思わず彼の目を見た瞬間、彼がふっと笑いながら、

ね?

と言って確認するように、握りしめていたハンカチを指で弾いたからである。

あの日の彼の指の感触がまざまざと蘇り、クラピカは慄いた。
そんな彼女の様子が然も可笑しいとでもいうように、パイロは踵を返して笑いながら歩き去っていった。

そんな彼の背中を、クラピカは信じられない思いで睨みつける。
せっかく思い出さないようにしていたのに、何故この期に及んでわざわざ思い出させるようなことをするのか。
―――否、忘れることなどできないのだ。
あの日受け取ったこのハンカチを未練がましく持ち歩いている自分自身がその証だ。

―――私は本当は、彼と一体どうなりたいのだろう。
以前のように親しくしたい?あの頃の私はいつしかパイロと一緒になる将来を信じて疑っていなかったように思う。
無理だ。私もパイロもあの頃とは違う。私たちは、私たちの関係は変わってしまった。
私はクロロを愛している。



―――まあ、これくらいの意地悪は赦されるだろう。ねえ?神様。



パイロは大して信じてもいない神に向かってそう問いかけた。









運命

― 月光 全楽章 ―






― 第三楽章 ―









「あら、今までどこにいたのよ、はじまっちゃうわよ」


既に指定席に―――パイロのご両親に配慮してもらって特別良い席を用意してもらえた―――
着席して待っていた両親のうち、母親がそう言葉とは裏腹に呑気な声でそう言った。

その声の通り呑気な母親だが、娘の表情から何かを察したのかそれ以上は何も言わなかった。
何があったのかは母親は勿論知る由もないが、娘は相当御冠だった。

クラピカの席は母親とクロロの間だった。
婚約者が着席すると、クロロは彼女の様子に臆することなく、何かあったのか、と尋ねた。
だが婚約者は頑なな表情のまま首を横に振り、別に、と答えるだけであった。
こんな時の彼女はどんなに追求しても真実を語ることはない。
クロロは年上じみて笑い、呆れとも愛しさともつかぬ溜息をついて前に向き直った。
クラピカも壇上のグランドピアノを挑むように睨みつける。


―――せっかく、せっかく、仲直りしようって勇気を出したのに。パイロの馬鹿。


まさかあんな態度をとられるなんて、あんなことを言われるなんて。
校舎の外でこのハンカチを彼が拾ってくれた時、あの彼からあんな言葉が出てくるなんてとても想像ができなかった。
まるで、中等部最後の春休みの終わりに、彼の部屋でハンカチを交換し合ったあの日の彼に戻ってしまったかのようだった。
どうしてパイロは私をこんなに突き放すようになってしまったのだろう。
私が何か、彼の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。

やがて舞台の袖から彼が姿を現した。
グランドピアノの椅子の前から客席に向かって立ち、頭を下げる彼の顔は取り澄ましていて、クラピカの苛立ちを余計に煽った。
あらあ、スーツ姿が様になってるわねえ、ねえクラピカ?などと娘の心中も知らずに話しかけてくる母親の言葉も怒りに油をさす。
ただ隣のクロロだけが、尋常でない様子の婚約者に困惑したように眉根を寄せていた。

それでも、彼が椅子を引いて腰をかけ、鍵盤にあの長い指を添えたとき、大して信じてもいない神に祈りを捧げるようにハンカチを握りしめてしまう。
彼が、彼の全てを、この演奏で出し切れますように。


だがその祈りも杞憂となる。
遥か昔の音楽家たちが作曲したクラシック曲は現代においては演奏者の解釈に委ねらえる部分も多分にある。
殊にこのベートーヴェンのピアノソナタ第十四番『幻想曲風ソナタ』においては著名なピアニスト何十人何百人が弾いてきたであろう。
きっとその全てが素晴らしいものだったに違いない。そして彼が近い将来その中に加わるであろうことを予感させる。
冒頭での第一主題の疾走感、サスティニングペダルの解放、フェルマータ。
コードが単純なため、演奏者の表現力が求められる場面で彼はそれを見事に表現しきっていた。
だがこれは作曲者ベートーヴェンの悲しみでも、葛藤でも、怒りでもない。
全てパイロ自身のものだと、クラピカは気が付いた。


「……他の出場者と比べるべくもないな、なあ」


そう小声で隣のクラピカに囁いたクロロの唇の前に、クラピカは立てた人差し指を差し出し、
声に出さずに、喋るな、と言った。
その一連の仕草の間もクラピカは壇上のピアニストを見つめていた。
クロロは彼女の指示に従い、それ以上は何も言わず前に向き直り頬杖をついた。
そして、彼女に倣うように、壇上の男を静かに見据える。



―――パイロ、お前はいったい何を感じている?



第一主題から属調への滑らかな転調。
第二主題が表す彼の凄まじい悩みと悲しみと葛藤の渦。その渦に飲み込まれそうになる。
近しい者には分かってしまう。彼の音は彼の心を如実に表してしまう。喜びも怒りも悲しみも。
変調しながら繰り返される第二主題が、それだけ彼の苦しみが長く続いていることを表しているようだった。

おそらくこの観客席に足を運んでいる人間であればある程度クラシックには精通しているであろうが、
この月光第三楽章を全楽章通して理解している人間はどれほどいるのだろうか。

幼い頃、幾度となく聴いてきたパイロの月光ソナタの第一楽章から第二楽章。
彼は幼くして第三楽章すらも既に弾きこなしていた。だが彼は彼自身の演奏に納得できず、第三楽章は封印されたままだった。
パイロ自身にも、そして勿論クラピカにも、何が足りないのか分からなかった。だが今、その封印が解かれたのだ。
足りなかったのは、悲しみなのだ。
循環形式を用いた第三楽章では第一楽章のメロディが駆け巡る様に織り込まれている。
まるで彼があの頃を懐かしんでいるようにすら感じる。


―――パイロ、お前はいったい何がそんなに悲しいんだ?


淀みなく第二主題は繰り返されるがそれは彼の苦悩が繰り返されていることを意味している。
転調を繰り返しながら展開部のコデッタを経ても本当の終わりは未だ見えない。
ハンカチを握りしめる手に汗がにじむのを感じた。


当たり前のことだが、観客も審査員も全ての人間がパイロの演奏に耳を傾けている。
誰もが息を呑んでいるのがわかる。


―――幼少期、彼の家にあったアップライトピアノ。

暖かな昼下がりにはパッヘルベルの『カノン』を弾いてくれた。
幼い彼が彼のピアノ講師よりも圧倒的な技量でラフマニノフの『楽興の時』を披露した日、その講師は退職願を出した。
自己嫌悪に陥る彼の奏でるグリンカのノクターン『別れ』を聴きながら彼に寄り添った。
彼が立ち直る頃に私だけに特別に聴かせてくれた、メンデルスゾーンの『春の歌』
数えきれない。聴衆はいつも私一人だけだった―――私は彼の特別だった。


私がいちばん彼の近くにいた。
私がいちばん最初に彼の才能に気が付いた。
私が彼のいちばんの理解者だった―――はずなのに。

彼の苦しみに、葛藤に気が付かなかった。私の手を振り払った時、お前はいったい何を思っていたのだろう。
いつか取り戻せると思っていた距離はいつの間にかずっと離れてしまっていた。
もう『悲愴』も『熱情』も『英雄ポロネーズ』も『乙女の祈り』も『亡き王女のためのパヴァーヌ』も、私だけのものではない―――


クラピカは己の考えを振り払うように頭を振った。
彼はそもそも私のものだったことなど一度もない。
彼は彼自身のものであって、誰のものでもない。

私のものでなくても良い。でも誰のものにもなってほしくない。
私のものでなくても良い。でもこれ以上遠くに行ってほしくない。


そしてソナタは終結部に突入する。
不安定な曲層を経てカデンツァ、低音ソロ、転落するような低音へのアルペジオ。
完璧なまでのコーダ。
一つの物語とも言うべき、ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調・作品二十七の二 『幻想曲風ソナタ』第三楽章が終結した。


割れんばかりの拍手が鳴り響く。
誰もが賞賛を送るのに夢中になっているその隙にクラピカは席を立った。
彼女がそうしたのに気付いたのは、眼前をすり抜けるように足早に去っていくその姿を認めたクロロのみであった。
クロロは方眉を上げてその後ろ姿を見送り、やがて客席に向かって深く頭を下げている少年へと視線を戻し、緩慢な動きで拍手を送った。





「絶対にパイロ君が最優秀賞よね!会場のみんながそう思ってるわよ、ねえ!」


「しーっ!他の出場者やその親族も来てるんだから!…まあ、僕もそう思うけどね」


全ての出場者が演奏を終え、結果発表までの束の間の時、控室の外は出場者とその親族でごった返していた。
パイロを見つけるや否や彼に駆け寄り、クラピカの両親は二人揃ってそう興奮気味にまくし立てた。
まるで実の親子のように親し気な様子の彼らに、クロロはややあってから追いついた。
自身の両親とクラピカの両親に笑顔で対応していたパイロも、その気配に気が付いていた。
視線を合わせようとすると、演奏前以上の緊張が全身を襲った。初めて現世で彼を目にした時の吐き気と恐怖が蘇ったが、
月光ソナタの第三楽章を自身も納得ができる完璧な形で弾き終えた今、不思議な自信が心を強くしていた。

顔を上げる。ほんの一瞬だったが、彼と目があったその時間は数分に及んで感じた。
二年半前に感じた印象より、男は幼く、小柄に見えた。
決して背が低い類ではないと思うが、パイロ自身の成長がそう感じさせたのかもしれなかった。

クロロがやってきたのに気が付き、クラピカの母は慌てたように一歩下がって、彼にパイロの前に立つよう促した。


「…あ、パイロ君にはまだちゃんと紹介してなかったわよね!彼はクラピカの家庭教師で…」

「婚約者ですよね?」


パイロは穏やかな顔立ちに屈託のない笑みを浮かべてそう言い、クロロに向き直った。
クロロもつられたように笑い、ご存じなら話が早い、と言って左手を差し出し、パイロに握手を求めた。


「クロロ=ルシルフルです。見事な演奏でしたね」

「…ありがとうございます」


パイロも左手を差し出して彼の握手に応えた。

どことなく不穏な空気すら漂わせる二人に気づくことなく、クラピカの母はあたりをきょろきょろと見渡した。


「クラピカも一緒に改めて挨拶しなさいって言ったのに、あの子ったらパイロ君の演奏が終わった途端席を立っちゃったみたいで、それっきりよ。
 トイレかしら?パイロ君が無事に演奏し終えたから安心しちゃったのかしらね」

「今日までずっとそわそわしてたからねあの子は…」


呆れた様子でそう話す幼馴染の両親を、そんな改まらなくていいですよ、と窘める。


「だって演奏の前にわざわざ伝えに来てくれたし」


パイロの言葉に、クラピカの両親は、そしてクロロも、眉を上げた。


「あら、そうなの?あの子ったら何も言わないで」

「まあでも、ちょっと気になるから探しに行ってみようか?」

「大丈夫よ、もう子どもでもないんだから、スマホもあるし…
 あ、そろそろ時間かしら?席に戻りましょうか」

「俺はちょっと一服してから戻ります」

「そう?じゃあ私たちは先に失礼するわね」


ほとんどクラピカのお母さんが話していたな、と思いながらパイロは両親たちの背中を見送り、そして幼馴染の婚約者に向き直った。

一服なんてのは口実で、僕に話があるんでしょう?

そう言いたげなパイロの視線に、男は困ったように短い眉根を顰めて笑った。
たったそれだけの表情だが、パイロは男が自分より酷く大人びていると感じた。


「…本当に見事な演奏だった」

「……それは、どうも」


同じように褒められているのに、先ほどとは打って変わって威圧的とも言えるほどの声色で男はそう言う。
この男が―――クロロが、何を考えているのか分からず、そう素っ気ない返事になってしまう。
とはいえ、パイロにもこの男が親睦を深めたくてわざわざ嘘をついてまでここに残ったのではない、ということくらいは分かった。
前世で嫌というほど思い知らされた。この男は危険で、一枚も二枚も上手で、一歩二歩先を考えている男だと。

男はもったいつけたような仕草で黒いスラックスのポケットに手を入れ、笑みを絶やさぬまま再び口を開いた。


「…彼女が君の傍に存在して、初めて完成した演奏だろう?聴けば分かるさ。
 彼女を奪われて、それでも君は演奏者でいられるか?」


―――成程。そういう感じか。僕を動揺させ、要は牽制したいのだな。

意外と子どもっぽいところのある人なのだなと思うと、心に少し余裕が生まれたが、
それでも彼の挑発的な言動には反応せずにはいられない。
パイロも彼の仕草を真似るようにポケットに手を入れ、皮肉っぽく微笑んだ。


「…可笑しなことを言う方ですね。僕の才能も努力も僕自身のものであって彼女あってのものではない。
 そして、僕から彼女を奪ったつもりでいるのならそれこそ間違っている。
 彼女は彼女自身のものであって、僕のものであったことは一度もありません」


クロロは少し意外そうに眉を上げた後に、目を細めてみせた。


「成程、その考え方は良いね、好きだな。
  "我々は何も奪わない、だから我々から何も奪うな"―――か」


彼の科白はいちいちパイロの胸をむかむかさせ、吐き気を催させた。
パイロ自身の前世の記憶と、パイロが知るクラピカの前世の記憶がそうさせる。
これは憎しみであり、同時に恐怖でもある。認めざるを得なかった。


「…では、こう考えるのはどうだろう?俺が君から彼女を奪ったのではないのであれば―――」


クロロはパイロに歩み寄った。クロロから仄かに立ち昇る麝香の甘いような香り。
ごく品よく纏っているそれですらパイロには不快だった。演奏の前に自分を尋ねに来た彼女からも同じ匂いがしていた。
ああ、とにかく不快だ。この男の微笑みも立ち居振る舞いも何もかも。
黒鳥のように妖艶で魅力的なのだ。白鳥にはないもの。ジークフリート王子が愚かにも惑わされたのを責めることができない。
無理もないと、この男には敵わないと認めてしまう自分がいることを否定できない。



「彼女が、君ではなく、俺を"選んだ"……すまないな」



クロロは目を見開いたままでいるパイロに向かって、憐れむようにクスリと笑った。



殆ど初対面とは思えぬ男の不遜な物言いは、確実にパイロの苛立ちと嫉妬を煽った。
だが、先ほどまで強烈なほどだった彼への劣等感は突如として消え去った―――彼を、憐れだと思った。
この男に前世の記憶があるのかどうか知らないが、クラピカがただで手に入る女だとは思っていないのだろう。
婚約までこぎつけておきながら尚、幼馴染という存在を懸念材料と認識している。彼女を手に入れて尚不安なのだ。
高等部を修了し、春休みが終わるころに彼女は誕生日を迎える。それと同時に結婚したいなど、彼の焦りが手に取る様に分かる。
殆ど奪うようなやり方でなければ欲しいものを手に入れることができない。そういうやり口しか知らない。
クラピカの記憶だけでは知り得ない彼の前世の悲しさを垣間見た気がした―――寂しい男なのだ。


―――貴方にはきっと辿り着けない。
前世のクラピカにとって僕がどれだけ大きい存在だったか。
貴方はきっとそこまで辿り着けない。きっと貴方も、分かっているんだろうね―――






―――私は何も気付いてやれなかった。パイロの月光 第三楽章を聴く、今日の今日まで。


やっぱりこのままじゃ駄目だ、ちゃんと話をしなければ。
子どもの頃からずっと、きょうだいのように育って、高校に上がるまで、ずっと支え合ってきていたのに。
ちゃんと話さなければ、きっとずっと後悔する。


心の整理がつかず、ずっと手洗いの鏡台前にいたクラピカは、そう思い立つと慌ててパイロを探しに出た。
演奏前に彼と話した控室の前はどこだったかと歩き回っていると、
自身の通う高校の学園長と秘書の姿が角から現れたのを認め、何となく廊下の陰に身を潜めた。
学園長であるネテロは気の良い年齢不詳の老人であるが、声をかけられたら足止めを食らってしまうので今は隠れていたい。


「…では、最優秀賞に我が学園高等部の彼が輝くことは間違いなさそうですね」

「ほっほ、会場の誰もがそう思うとるじゃろうなあ。元々彼は数々のコンクールで入賞を果たしてきているから、
 全国ピアノ協会もずっと彼に目をつけてきていたからの。まあ出来レースと言えなくもないのじゃが、
 あれだけの演奏を聴いて文句を言うヤツもおらんじゃろうて」


豊かな顎髭を右手で扱きながら、どことなく嬉しそうにそう秘書のマーメンに返していた。
コンテストには学園からはパイロしか出場していないはずだった。
これだけ大きな大会であるから、学園長が彼の所属する学園の代表として鑑賞にやって来るのは自然なことだろう。
あの学園長のことであるから何か考えがありそうだとも思ったが、
とはいえ学園長からしてもそれだけの演奏だったのなら安心だな、とクラピカは胸を撫で下ろした。
しかし次の彼と彼の秘書の会話にクラピカは酷く動揺することとなる。


「では、彼のヨルビアンへの音楽留学の手筈を進めねばなりませんね。彼は了承済みなのでしょう?」

「うむ、話を持ち掛けた当初はあまり乗り気じゃなさそうだったのじゃが、
 大会目前に改めて再検討を打診したら二つ返事でオッケーじゃったよ。
 彼は向こうでの生活を学園に保証され、我が学園は世界的ピアニストを輩出するのに一役買って出たということになる。
 ウィンウィンじゃな」

「言い方がやらしいですが…お互いにとって良い話ですよね」

「そういうことじゃ」



―――留学。そんなの聞いてない。


なんでそんな大事なこと教えてくれなかったんだろう。
昔だったらオレに一番に話してくれた。いや、決める前に一言オレに相談してくれていたのに。


本当は分かっている。ずっと、そんなこと相談できる距離にいなかった。
パイロはオレを突き放したけれど、オレもパイロを避けていた。
何の理由もなくお前があんな態度を取るはずないのに。今日だって。
小さい頃から家族より近くにいて、オレは誰よりもあいつの理解者で、あいつもオレを分かっていて。


中等部の終わりからずっと、寂しかった。
パイロ、お前が月光の第三楽章を本当の意味で完成させるほど苦しんだのと同じように。





「……僕はクラピカとはただの幼馴染です。それに僕はおそらく高等部を卒業したら海外留学することになる。
 心配しなくても、貴方たちの……クラピカの元から離れます」


パイロの言葉に、クロロは眉を上げた。離れる、というと?


「……学園長から音楽留学の話を持ち掛けていただいているんです。承諾すれば留学費用全額負担していただけると。
 音楽留学は兼ねてから高等部修了後の進路として視野に入れていました。
 春には……そうですね。クラピカの誕生日の後には、向こうへ発つ予定です」


この大会での最優秀賞の副賞的なものとして留学費用免除を受けるという旨は伏せておいた。
結果発表前に自ら優勝を宣言するのは憚られたし、何より、仮に優勝できず学園からのバックアップが得られなかったとしても、
海外留学はするつもりでいた。クラピカを失えば、もう僕には音楽しか残っていない。

目の前の男にそう伝えると、男の背後に、廊下の陰から姿を現した金髪に黒いドレスの女性の姿を認め、パイロは彼から視線を外した。
クロロもつられて背後を振り返ると、そこには話題の的となっていた少女の姿があった。


「…二人とも、ここにいたのか」


彼女の表情は不安げに歪んでいた。探していた人物が思わぬ人と会話をしていた驚きも、そうさせているのかもしれなかった。
背後に現れた人物が婚約者だと分かると、クロロは打って変わって取って付けたような笑顔を見せ、
丁度良かった、と手を合わせた。


「今ね、彼に挙式の入退場のパイプオルガン演奏をお願いしていたんだ。
 記念すべき日に、クラピカの親友である彼の演奏を添えてもらえれば、こんなに素晴らしいことはないからね。
 あれだけの演奏ができるのなら、パイプオルガンだって問題なく弾けるだろう?なあ、パイロ君」


随分場を切り抜けるのが上手い男だと感心してしまう。
しかし、クラピカは婚約者の申し出に眉を顰め、彼の隣までつかつかと歩み寄った。
珍しくヒールを履いている彼女はクロロと並ぶと殆ど同じ目線の高さで、彼にきついくらいの口調で注意した。


「何を勝手なことを…パイロは学園から卒業式の演奏も依頼されていて、
 今までだって今日のこの大会のために根をつめて練習し通しだったんだ。
 そこに私たちの結婚式の演奏まで依頼するなど」

「いや、いいんだクラピカ、気遣ってくれてありがたいけど、教会のパイプオルガンなんてそうそう弾ける機会ないし、
 何より…僕から結婚祝いに君に贈れるものなんて、これくらいしかない」

「そんな…でも」


パイロを振り返ったクラピカの表情は打って変わって気づかわしげで、
それは優しさにも見えるし、他人行儀な表情にも見え、パイロはなんとも形容し難い気持ちになった。
それを誤魔化す様に頭を振り、微笑んだ。


「いいんだ。寧ろ僕からもお願いさせていただくよ」


そして幼馴染の隣に並ぶ男に視線をやり、


「引き受けます、挙式の演奏の件。喜んで」


パイロは再び口を結ぶようにして微笑むとやや視線を落とし、二人の隣をすり抜けるように去っていった。




ぼうっとして、彼が大分離れたところへいくまでその後ろ姿を見送った後に、


「…あっ!そろそろ結果発表!私たちも戻るぞ、クロロ!」


クラピカははっとして、慌ててパイロの後を追うように駆けだそうとする。
しかし、その腕をクロロがはっしと掴んで、それはならなかった。
不審そうにクラピカが振り返ると、クロロは気落ちしたように背を廊下の壁に預けるところだった。
クラピカは肩の力を抜き、彼のほうへと歩みを戻した。


「……どうしたんだ?」


彼に並んで壁に背中を預ける。
この男はクラピカより年嵩でありながら、時折こうやって物思いに耽ったり、何か思い悩んでいる様子を度々見せた。
どうした、と尋ねても納得がいくような回答を得られることはほぼ無い。だがこの日は違った。


「……彼は大人だな」

「彼?パイロのことか?」

「彼が大人びているからね。俺はつい大人げないことを」

「クロロ…?」


クロロの溜息が、会場のほうから聞こえてくるコンテストの第三位の発表と、歓声によりかき消された。
クラピカの意識が一瞬、そちらに引っ張られる。受賞者の発表が始まった。
行かなければ、と思ったが、これを聞いても動こうとしない婚約者を放っておくわけにはいかなかった。


「…クラピカ」

「…何だ」

「俺を愛しているか」


クラピカは一瞬の逡巡ののち、当然だろう、と答えた。
プロポーズを受けた時点の答えなど決まっている。何故今更、試すようにこんなことを確認するのか。


「…彼はきっと、俺が何故こんなに急くようにお前に結婚を迫ったのか、気付いているんだろうな」

「なに…?」

「彼の読み通りだ。お前が誰かのものになってしまう前に手に入れたかった。
 彼からすれば、俺は結局、お前の未来を奪う悪党なのかもしれないな」


少しの静寂の後に、司会者のもったいつけるような声で優秀賞の演奏曲と受賞者の名が呼ばれ、再び会場が湧いた。
発表に間に合わない。クラピカの心は急いたが、やはりクロロをこのままにしてはおけなかった。

一見すると完璧すぎるほど完璧な目の前のこの男は、何かが綻び始めると全てが崩れてしまいそうな脆弱さを感じさせる時がある。
彼の言うように、何かのきっかけで悪党にもなりかねない危うさがある。
だからずっと傍で支えて、見つめ続けなければならないと思う。彼が道を誤らぬよう、鎖で雁字搦めにしてでも―――



「それでも俺を愛せるか?」



"「最優秀賞―――ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調・作品二十七の二 『幻想曲風ソナタ』第三楽章 パイロ―――」"



答える代わりにクラピカはクロロに口づけた。



会場は大いに沸き、立ち上がり壇上へ向かうパイロにスポットライトが当たる。

今までのどんな大会で勝ち得たものより立派なトロフィーを受け取る。
フラッシュが焚かれた。地元の情報誌や地域新聞社くらいは撮影に来ているのだろうか。
トロフィーの重さに耐えながらパイロは辛うじて笑顔を保ち、大歓声と大喝采を一身に受けた。




「……会場に行かなくて良いのか?」



唇が離れると、クロロはクラピカにそう尋ねた。

自分が引き留めるような真似をしておきながら、良く言う。
そう思ったがクラピカは何も言わなかった。彼を不安にさせてしまっているのであれば、きっと私の態度にも問題があった。
クラピカは再びクロロに深く口づけた。


これでパイロの留学は決定的だ。
お互いに成長すれば環境も変わる。結婚すれば尚のこと。
いつまでも昔のままではいられない。昔に戻る必要もない。


「…っ、待て、クラピカ、舌は駄目だ」


顔を背けて深い口づけを避けたクロロに、
駄目だと言いながら自分こそ暫くそれに応えていたくせに、と思いながらも、クラピカはただ、何故、とだけ問うた。
クロロは困ったように眉尻を下げて笑ってみせた。


「これでも苦労してるんだ。お前が卒業するまではと色々と我慢しているからね。
 流石に起業してこれからって時に、トップが女子高生に手を出していたというのは外聞が悪いからな」

「…成程な。それで私の誕生日に式を挙げるというわけか。とはいえ、卒業直後ではあまり説得力がないと思うが」

「ちゃんと卒業まで待ったっていうのが大事なんだよ。
 それでもとやかく言ってくる奴らは放っておけ」


会場からの拍手は鳴りやまない。誰もが彼が優勝して然るべき人間だと認めている、その事実を表している。
―――パイロにはもう私は必要ない。こんなに沢山の人に認められている。
そう、彼のピアノは、大勢の人間を癒し感動させるためのもの。こんな狭い世界に閉じ込められていてはならない。

クラピカはクロロの耳殻を噛んで囁いた。


「……私はもう大人なのに」

「だから、そうやって煽るのもやめろって…」


クロロは窘めるようにそう言うやいなや、クラピカの耳裏の髪を梳くような仕草で手を差し入れると、
仕返しだとばかりに白い首筋に噛みついた。

クラピカの白い指が縋る様にクロロのスーツの裾を握りしめた。
歓声と拍手が遥か遠くに聞こえる。舌を吸われて、何も考えられなくなる。
苦しくて、鼻から抜けるような声が漏れる。全てを忘れてしまいそうになる。



いつまでも続く喝采と歓声。カメラのフラッシュ。スポットライト。家族や親しい人たちの笑顔。


どこを探しても、君はいない。



他の誰よりも。僕は君に認めてもらいたかったのに。





この日の写真は地元の情報誌、地域新聞、全国区の新聞、クラシック情報雑誌、全てに掲載され、パイロは学園や地域で時の人となった。









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陽が暮れはじめ、オレンジからエメラルドグリーン、藍色の空へとグラデーションが濃くなり、
空には星が白くちらちらと瞬き始める。

うず高く成長したオリーブの木に張られた蜘蛛の巣もまた、木から木へと張り巡らされた電飾に煌めき、
その巣に絡まった蝶はじたばたと藻掻いて鱗粉をまき散らす。その鱗粉もまた細かな光となり、霧散した。


「それでは、新郎新婦の入場でーす!」


司会の男の陽気な掛け声とともに、新郎新婦が屋内から姿を現した。
新郎はストライプのシャドーがかかったブラックのダブルボタンのタキシード、新婦はロイヤルブルーのベアドレスだった。
ガーデンウエディングであることを考慮してか、引きずらない程度の軽やかなドレスに、ブロンドのショートヘアをシルバーのヘッドドレスで纏め上げている。
彼女を初めて目にする新郎側の招待客も、新婦側の旧友たちも、思わず歓声を上げ溜息をつくほどの美しさだだった。
端正な顔立ちの新郎と並び、どこからどう見てもお似合いの、幸せそうな二人。
新郎はにこやかに周囲に会釈を繰り返していたが、新婦は緊張からかぎこちない笑顔を張り付けて頭を下げるのが精いっぱいのようだった。

教会に隣接するレストランの庭で行われる夜のガーデンウエディングはカジュアルで、
司会は式場のスタッフではなく、新郎の友人だというノブナガという男が務めていた。
披露宴を挙式より先に行うスタイルを取り入れ、各々が酒やスイーツビュッフェを愉しみながら自由に新郎と新婦に話しかけに行く。
そうしているうちに新郎は仕事関係の列席者に呼ばれそちらへ行き、新婦もまた学園の友人や恩師たちに声をかけられ、
いつの間にやらそれぞれで招待客たちと会話に花を咲かせていた。


「披露宴が先なんて、珍しいよね」


振舞われたスパークリングワインに口をつけながら、新郎側の招待客であるシズクは隣のマチにそう話を振った。
呆れたようにため息をついたマチの代わりに、パクノダが答える。


「遠方から参列する人は挙式が先だと間に合わないから、披露宴を先にして、途中からでも参加しやすいカジュアルなガーデンウエディングにしたらしいわね」

「これ、もう何度も説明してるはずだけどね…
 団ちょ…クロロが、どうしても新婦が十九になったその日に式を挙げたかったんだってさ。
 でも平日だから私たち社会人は日中仕事だし、学生の参列者も多いから堅苦しくないほうが良いだろうって」

「ナイトウエディングって初めてだけど雰囲気良いねー」


全く会話が成り立たないシズクの返事に、今度はパクノダも溜息をつき、肩を竦めた。



「相手は会社員だって」

「社長でしょ、独立してベンチャー企業立ち上げた」

「てことは結構年上?」

「てか婚約早くね?」

「結婚のために会社立ち上げたのかな?」

「運命ってやつ?」

「愛だよ、愛!」


新郎や新婦との会話から外れてグループを作っている者たちは、それぞれがあれこれと噂話に花を咲かせている。

そんな噂話を酒の肴に、陸上部顧問でクラピカの恩師であるイズナビはふと頭上を煽り、
オリーブの木に張られた蜘蛛の巣と、それにかかった艶やかな蝶が諦めて暴れるのを止めた瞬間を目にし、


「ありゃあもう、助けられねえなぁ…」


そう一人ごち、冷酒を煽った。


「もーっ!クロロさんをやっと紹介してくれるっていうから、
 どういう風の吹きまわしかと思ったら結婚式の招待状くれるんだもん!ひっどーい!ひどすぎー!」


そう言いながらネオンはクラピカの肩を掴んで揺さぶったが、彼女が本気で怒っているわけではないこと位はクラピカにも分かる。
困ったように笑いながら、すまなかったと言ってるだろう、とネオンを窘めた。

ネオンは淡いピンクのドレスを纏った腰に手を当て、もうっ、とふくれっ面を見せたが、すぐに顔を綻ばせ、


「それにしても、教会の隣でこんな披露宴を挙げられるところがあるなんてね」


ネオンの言葉に、クラピカはこの教会での挙式にこだわったクロロのお蔭で難航した準備を思い出し、溜息をついた。


「クロロがカトリック教式にこだわってな……平日の夜だし、仕事関係の方も多く招待するのだから
 プロテスタントにして披露宴も式も一か所で済ませられるほうが良いと言ったのだが…
 レストランウエディングをプロデュースしている会社がこの教会での挙式の多さに目をつけて、
 隣接した土地に披露宴向けのレストランをオープンさせたからと…全く、敬虔なことだ」

「あ!おーい、新婦さーん!」


少し離れたところからそう呼ばれ、振り返った。

彼が纏っているブラックフォーマルに違和感を覚えるほど、一見すると少年のような幼い顔立ちの男が近づいてくる。
童顔だが身体は筋肉隆々、スーツが窮屈そうだった。


「はじめまして、かな?俺はシャルナーク。クロロの仕事仲間だよ。よろしくね!」


極めて簡潔で分かりやすい自己紹介を述べた彼に、クラピカです、よろしくお願いします、と他人行儀な挨拶を返すと、
シャルナークと名乗った男は、笑顔のままクラピカを無遠慮にまじまじと見ると、更にくしゃっと破顔して、


「わっかいなー!可愛いねー!クロロをよろしくね!」


そう言い残して踵を返し、再びクロロのもとへと戻り談笑しはじめた。
シャルナーク。何故か彼の笑顔は底が見えず、怖いと感じた。
しかしそれは杞憂に過ぎなかったのか、隣にいたネオンはまるで警戒心を見せることもなく、
今の人もかっこいい!とはしゃいで、彼の後を追っていった。
一体なんなんだ。

クラピカが呆れてため息をつくと、シャルナークが去っていったほうから一人女性が歩み寄ってきた。
首元まで詰まった紫色のレースのドレスで、吊り上がった目尻がきつそうな印象を与えるが、美人だった。


「悪いね、あいつ…シャル、ちょっと感じ悪くて。本人は上手く隠せてるつもりなんだろうけど」


少し怖いと感じていたのが、この女性には気付かれていたのだ。勘の良い人だ。
それより、先ほどの青年がやはり少し敵意のようなものを持って接してきていたのは間違いないらしい。
この女性の言葉に戸惑っていると、女性は再び口を開いた。


「私はマチ。クロロの昔からの友人で、彼の会社の立ち上げにも関わってる。シャルもね。
 シャルはあれで警戒心が強いんだ。いきなり結婚するってクロロが言い出して、ろくに紹介もなく今日を迎えたもんだから…
 新婦の品定め中ってところかね、言い方は悪いけど」

「…いえ」


表情は固く、口調もきついが、この女性―――マチが、根は優しく、年若く緊張している新婦を気遣っているのが、会話の内容から伝わってくる。
マチは、ふっと目元を緩めた。笑ったつもりらしかった。


「まさか新婦が十九になったその日に挙式だなんてね…あんたを早いとこ手に入れて、
 周囲にあんたが自分のものだってことを知らしめてやりたかったんだろ。
 子どもみたいなやり口だけど、まあクロロのやりそうなことだね。あんた美人だから」

「いえ…貴女のような美しい方にそう言っていただけて、光栄です」


クラピカの謙虚な物言いに、マチは目をぱちくりとさせて、今度は口許を緩めて本当に笑った。


「あんた、若いのに殊勝なこと言うねぇ…
 クロロをよろしくね。あいつちょっと危なっかしいところあるから、まあ、上手く支えてやってよ」


それじゃ、今日はおめでとう。そう言って右手のシャンパングラスを掲げると、
シャルナークと、司会のノブナガという男、眉のない強面の男、やたら図体の大きな男二人と、小柄な男二人、
何故か全身包帯巻きの男、長身の女性と黒縁眼鏡の女性…
やらに囲まれているクロロの元へと戻っていった。


―――あんなに綺麗な人が友人にいるなんて、知らなかった。
これから教えてくれるつもりなのかもしれないが、思えば私はクロロのことを何も知らない。
クロロも私を知らない―――はず。
なのにお前が時折、私の全てを見透かしているような目で私を見つめるのは、何故なのだろう。



「よおーっ!クラピカ、馬子にも衣裳だな!」


クラピカの物思いを遮る様に、陽気に声をかけられる。
一瞬で現実に引き戻され、そしてその声の主が相当酔っぱらっているであろうことを声の調子で察し、呆れ顔で振り返る。


「君はいつも一言多いな……レオリオ」

「いつも一言も二言も多いのはお前のほうだろーがっ!」


そう言いながら手にしたビールのグラスを更に煽る。
夜だというのにトレードマークのサングラスを外さない旧友の姿にほっとする。
レオリオとはいわゆる喧嘩友達だが、最も信頼する友人の一人だった。
医学部に進んでから勉強についていくのが精いっぱいだと近頃は疎遠になっていたが、
今日は忙しい合間を縫って駆けつけてきてくれたというわけだ。


「さっき話してた子誰だよ?新郎の友達か?紹介してくれよ!」

「私だって先ほど自己紹介を終えたばかりだ。そんなもの自分でどうにかしろ。得意だろそういうの」


ため息交じりにそう返せば、おっあの子も可愛い!と、他の女性に目移りしている。
やれやれ、とクラピカは再び溜息をついたが、口許は自然と緩んだ。この感じは懐かしい。
だが今後はこんなやり取りも気軽にできぬほど疎遠になってしまうかもしれない。


「……しかしよお、こんなに早く結婚するとはな。喧嘩友達が遠くに行っちまうようで、俺ぁ寂しいぜ」


クラピカの心中を悟ったような言葉を吐きながら、レオリオは再びビールを煽り、グラスは空になった。
普段ならば、
何を言っている。
君の学力で医学部に進んだからには常人の二倍勉強するつもりでいなければ。
医者になるなど夢のまた夢のまた夢だぞ。
などと、やめれば良いのにあえて喧嘩をふっかけるような物言いになってしまうが、
今日のクラピカは素直に、そうだな、と返した。


「キルアも外部受験合格して、ゴンと共に遠くへ越すらしいし……色々なことが変わっていく。寂しくなるな」


レオリオはクラピカの言葉に答える代わりに、ぽんぽんと、ヘアセットが崩れぬようごく弱い力でクラピカの頭を叩いた。
離れても、会えなくなっても、ずっと友達でいるとその手は言っていた。


「クラピカ〜!!」


噂をすれば、声変わりを経ても明るい声がそう新婦の名を呼んだ。
黒髪のツンツン頭の少年ゴンが、親友のキルアを引き連れてやって来る。
二人とも制服でやって来ると思っていたが、わざわざスーツをレンタルしたようだった。
おそらくキルアは、膨大なワードローブの一着なのだろうが。


「クラピカ、すっごくすっごく綺麗だよ!」


一切の虚飾なく、無邪気に目を輝かせて褒めちぎるゴンに、褒められたクラピカだけでなく隣で聞いていたキルアまでたじろぐ様子を見せた。


「お前、良く恥ずかしげもなくそういうこと言えるよなー」

「ありがとうゴン。お前たちも様になっているじゃないか」

「まあな。やっぱ素材が良いからさー」

「はは、そうだな」


クラピカがそうキルアに返した時、ゴンはクラピカの隣のレオリオと、進学する高校の話や医学部の話をはじめていた。
キルアはちらと、クラピカのつま先から頭の天辺まで視線をやると、


「…まあ、ゴンの言う通り、綺麗だよクラピカ」


照れ隠しのようにポケットに手を突っ込んで、つっけんどんな口調でそう言った。
一瞬だけ、クラピカの琥珀色の瞳を見つめて、そこに少しの戸惑いの色を認めると、ふっと笑って瞼を伏せた。
銀糸の睫毛が木々の電飾に照らされて、白い頬に扇形の影を落とす。


「…俺が大人になるまで待っててくれても、よかったのに」


少し寂しげな彼の声色に、一瞬、胸の中心が締め付けられた。
何言って、と言いかけると、それまでレオリオとの会話に花を咲かせていたゴンが突然割り込んできて、


「ほんとだよー!俺もこんな綺麗なお嫁さん欲しかったなー!」


そう、キルアの肩にタックルをかました。
キルアは臥せっていた目を大きく見開いて、ゴンをぎりと睨みつけた。白かった頬がみるみるうちに真っ赤に染まる。


「てめ……レオリオと話てたんじゃねーのかよっ」

「だって、二人がなんだか楽しそうな話してたからさー。ねえクラピカ、今からでも考え直して俺と」


ゴン、まさかお前が今右手に持っているグラスの中身は、アルコールではあるまいな?
クラピカがそう疑いたくなってしまったタイミングで、ゴンのポケットのスマートフォンが震えた。
言葉を切り、スマートフォンを手にして液晶を見るやいなや、ゴンは震え上がり、ごめんちょっと、と顔を引き攣らせて場を離れた。
クラピカとレオリオの頭上にはクエスチョンマークが浮かんだが、キルアだけ何やら訳知り顔だ。

ゴンは庭の端のうず高い鉄柵まで走り寄っていった。
そこにはいつの間にか、長い黒髪の美人だが、その美しい顔を極限まで歪ませた、尋常でない様子の女性が立っていた。
ゴンが駆け寄るやいなや、どういうつもり、私というものがありながら、と喚き散らし始めた。
ゴンは一生懸命にその女性を嗜めようとしている。


「あ…の、女性は一体…?」


ぽかんとしたクラピカが訳知り顔のキルアにそう尋ねると、キルアは大きなため息とともに、


「パームっていう、ゴンの……彼女?なのか?いや、ただのストーカーか?良く分からねーけど」

「んなっ?!ゴンに彼女だとぉ?!しかもあんな美人…めちゃくちゃメンヘラっぽいけど……
 ちょ、俺近くで見てくるわ」


しょうもない野次馬根性をのぞかせて、レオリオは二人のいるほうへと走り去っていった。
レオリオがゴンのもとに辿り着く直前、パームは警備員に引きずられて去っていくところだった。


「それにしてもよくここが分かったな、あいつ…」


ひょっとしたらゴンのスマホにGPSか盗聴アプリでも入れてるんじゃないのか?
恐怖に身震いしながら、引きずられてなおも喚き散らしているパームを遠目に見送ると、キルアはクラピカに向き直った。
そして今度は照れたりせず、少し大人びた微笑みを見せて尋ねた。
今、幸せ?と。

一瞬だけ、披露宴のバックグラウンドミュージックや人々の笑い合う声が遠のいた気がした。
周囲の人々の気配さえ、ぼんやりと霞んで見える。

クラピカが普段は身に着けない華美なクリスタルのネックレスも、重そうなダイヤの耳飾りも、シルバーのヘッドドレスも、ロイヤルブルーのシルクのドレスも。
結局は彼女の美しさの引き立て役でしかない。間違いなく彼女は今日の主役で、彼女の人生において最も彼女が輝く日なのだろう。

クラピカは柳眉を上げ、アーモンド形の瞳を細めて、ふふ、と笑った。


「勿論」


その答えに、キルアは安心したように息をつき、そっか、と言った。
そりゃそうだよな、と言いたげに。


「なら良かった、今度こそ幸せにならなくちゃな」


キルアの言葉にクラピカは困ったように小首をかしげた。


「可笑しな事を言うんだな。まるで私が今までずっと、不幸だったみたいじゃないか」


クラピカの言葉に、今度はキルアが戸惑う番だった。
つり目をしばたかせ、目の前のクラピカのその更に向こう側の、遥か彼方を見つめるような遠い目をして、言った。


「確かに変だな、こんなこと言うなんて」





挙式の演奏に向けて、あまり水分を取りすぎるのも良くないなとは思うが、
グラスに口をつけるよりほかにすることもなく、パイロはオリーブの木の幹に背を預けていた。
クラピカの友人であればある程度顔見知りもいたし、キルアとは家庭教師を務めさせてもらっていることもあり親しくしてはいるが、
彼は同じ年頃の友人を引き連れて参列しているようだったし、結局は皆、"パイロの知り合い"ではなく"クラピカの友人"たちだ。
こういう場に来ると、自分は彼女と親しくはしていても、彼女の友人たちとはある程度の距離を保ってきたのだなと思い知らされる。

さて、どうする。そろそろ、おめでとうの一言でもかけにいかなければ、友人として。


とは思うものの、なかなか気が進まないし、彼女は常に誰かしらに囲まれていて、なかなか話しかけるタイミングもつかめない。
とっつきにくいようで案外義理難い彼女はなんやかんやと横のつながりが多く、顔が広かった。
短気でプライドが高いのに、前世でも良い仲間に恵まれ、自然と人が彼女の元に集まっていた。
彼女がその気になりさえすれば、彼女の世界はいくらでも広がる。

僕は、そしてクロロも。本来なら彼女の為を思えば彼女から離れるべきだ。
傍にいればいるほど、なんとかして自分のもとに繋ぎとめておきたいと思ってしまう。


「…すみません、ちょっとだけ。教会のパイプオルガンで練習させてもらっても良いですか。やっぱりちょっと緊張するので…」


近くを通りかかったスタッフにそう声を掛け、空になったグラスを預けた。
弾きなれないパイプオルガンで練習をしたいのは事実だ。嘘は言っていない。
けれど、もう少しだけ。人生で一番美しく、他の男のために着飾った君におめでとうを伝える、心の準備が欲しかった。





ああ、疲れた。

慣れないヒールに慣れないドレスで、初めての場。
重たいイヤリングに肩の凝るネックレス。
感激している母の顔や、早くも涙ぐんでいた父の顔、友人たちの祝福の声は胸にこみ上げるものがあったが、
それ以上の緊張と疲労がクラピカを襲った。

次はお色直しで、ヘアセットを変え、ドレスもカラードレスからマーメイドのウエディングドレスに着替えなければならない。
スタッフに引き連れられて新郎新婦の控室に入ると、ドレッサーの上には忙しくて口にする間がなかったビュッフェのスイーツたちが取り分けられてあった。
クラピカはスタッフの心遣いに感謝しつつも、慌ただしくドレスの着替えに入る。
食べている暇はあるのか、これは?
疑問に思いつつも、スタッフの手を煩わせないようにドレスから足を抜き、別のスタッフが用意したウエディングドレスへ足を入れる。
コルセットで締め上げられた腰はあまり空腹は訴えていなかったが、何か腹に入れなければこの後の挙式まで体力がもちそうにない気がした。

クラピカさんは身長があるので、本当にこのドレスがお似合いになりますね。
美容担当のスタッフがそう営業トークを交えながら器用にハンドウェーブのへアセットを作り上げていくのに感心しつつ、
クラピカはタルト・オ・シトロンを口に運んだ。
ところどころにビジューがちりばめられたマーメイドのウエディングドレスはクロロが見立てたもので、
見た目以上に重くて動きにくかったが、クラピカ本人にその自覚がないのが残念なほど、彼女の美しさを引き立てるものだった。

へアセットを終え、化粧にとりかかろうとするスタッフに気遣い、クラピカはタルトを口に運ぶのをやめた。
サムシングブルーだし、と思い、パイロに貰ったハンカチをこの日も持ってきていた。そのハンカチで軽く口を拭う。
名残惜しそうにドレッサーに残されたタルトを見つめ、スタッフの手が眼前を右往左往し、次に鏡を見た時には、
カラードレスの時とはまた別人だと思うような、見たことのない自分自身がそこに映っていた。

こんな事でもなければきっと一生使うことなどなかったであろう赤みの強いルージュに、
クラシカルなオールウェーブに纏めた見事なブロンド、そこに留められたカチューシャ型のティアラ、
そしてダイヤそのもののようなドレスを身に纏った新婦は、
衣装とメイクを担当したスタッフたちも息を呑み、溜息をつく美しさだった。


「いやあ、素晴らしい」

「お美しいですね」

「クロロさん、覚悟されておいたほうが良いと思いますよ」

「え?」


スタッフの言葉に驚き、椅子から立ち上がって振り返ると、部屋を分断するように下りていたカーテンをスタッフが引いた。
そういえば、最初のカラードレスの時の着替えやヘアメイクでもこの部屋を使用したが、
新郎と新婦の間はカーテンで遮られ、お互いの着替えの様子までは見えないようになっていた。
彼は先にこの控室で支度を終え、待っていたのだ。

テールコートに衣装替えをしたクロロは、クラピカの姿を見るやいなや吹き出し、顔を手で覆って逸らした。
なんだ、人のドレス姿を見るなり笑うとは、失礼な奴だ。
そう思ったクラピカはつかつかと彼に歩み寄り、顔を覗き込んだ。すると彼はまた別の方向を向いてそれを避けようとするので、
クラピカはまたそれを追うように顔を覗く。
すると、彼はようやく観念したように、手のひらを顔から剥がした。


「綺麗だ」


そう絞り出す様に言った彼の声が震えているのに気が付き、クラピカはようやく彼が泣いているのだということに気が付いた。
なんだ、それを誤魔化す為に笑ったというわけか。まあなんと、いじらしい。
人目さえなければ抱きしめてやりたいところだ。本当に、愛おしくてたまらない。
クラピカはなんだか可笑しくなり、彼と同じように吹き出しそうになった、しかし。


「………ありがとう」


綻びかけていたクラピカの顔が一瞬凍り付いた。
顔から手を外した彼の前髪が後方に撫でつけられており、額が露わになっているのを目にし、何故か強烈な違和感を覚えたのだ。


「でも、お前は…普段の髪を下ろしているときの方が、私は好きだな」


クラピカの台詞にスタッフたちは慌てふためいた。


「ええっ、素敵じゃないですか!燕尾服によく合っていますよ!」

「で、でも奥様がそう仰るなら、前髪下ろした形にセットし直しましょうか…?」

「あ、申し訳ない、大丈夫です、このままで!確かに燕尾服にはこのままのほうが良いですよね」


スタッフの手によるヘアメイクだということも忘れ、つい口をついて出てしまった素直な感想にクラピカは反省し、そう訂正した。
確かに、オールバックにした彼のへアセットはテールコートにマッチしている。
先ほどのような感想が口をついて出たのが不思議なほどだった。何故、私はあんなことを。
当のクロロは困ったように笑うばかりで、妻を責める様子はなく、クラピカはほっと胸を撫で下ろした。

すると、クロロ側のドレッサーの上に置かれた彼のスマートフォンのバイブ音が響いた。
最初こそは無視を決め込もうとしたクロロだったが、あまりに長いその呼び出しに、忌々し気にそれを手に取った。
しかし液晶に表示された社名を見るや否や、眉根を寄せてため息をつき、厄介な取引先からだ、と呟き、
ちょっと出てくる、と言い残して控室を後にした。普段から一緒にいてもしょっちゅう仕事の電話がかかってきているし、
本人も、起業したら二年間は不休だとぼやいていたが、これほどまでとは。

その時、慌ただしく別のスタッフがほぼ入れ違いに控室にやってきた。


「すみません、雷鳴を伴う雨が降り出しました!披露宴の続きは屋内に変更です!撤収のフォロー願います!」

「ええ?!明日まで快晴の予報だったわよね?!」

「すみませんクラピカさん、ちょっとガーデンのフォローに回りますね!お待ちください!」


バタバタと皆が走り去り、先ほどまで賑やかだった控室に一人ぽつんと取り残されたクラピカ。
確かに、何故今まで気が付かなかったのだろうと不思議に思うほど、
屋外からはけたたましい雨音と雷鳴、そして列席者たちの驚きの悲鳴が届いてきた。
自分の結婚式で起きていることなのに、クラピカはどことなく他人事のように思いながらその様子を上から見下ろしていると、
ふと、耳に微かなピアノの―――いや、パイプオルガンの音色が届いた。


―――J.S.バッハの、『主よ、人の喜びよ悲しみよ』


クラピカは開け放たれたままのドアの外を見、再び窓の下を見た。
事態は暫く収束しそうにない。
ドレッサーの上を見る。タルトの残骸の隣に置かれた、レースで縁どられた淡いサックスブルーのハンカチ。
それを手にすると、重いドレスの裾がなるべく床に引きずられぬよう持ち上げ、クラピカはそっと控室を後にした。




J.S.バッハの、『主よ、人の喜びよ悲しみよ』を弾き終え、パイロはふうと溜息をついた。

やはりピアノとは違う。運指も違うし、音の強弱をつけられない。
オルガニストという言葉があるだけに、ピアニストとはまた違ったテクニックが必要なのだ。
少しだけれど、やはり練習させてもらってよかった。

そんなことをぼんやりと考えていると、ぱたぱたと、レストランと教会を繋ぐ渡り廊下まで駆け寄ってくる人の足音。
ぎい、と扉が開くと、やって来たのはパイロの母親だった。


「やだ、パイロこんなところにいたの!今突然雨が降り出して披露宴が屋内に変更になったのよ!
 もうガーデンに戻っても誰もいないからね、広いほうの披露宴会場よ!」


慌てた様子でそうまくし立て、去ろうとして何か思いとどまって立ち止まり、


「それと、今日くらいそのピアス外しなさいな、念のため!」


そう言い残し、再び足早に去っていった。

いつもは大人しい母なのだが、まるで嵐のように現れて去っていったその様子は会場の慌ただしさを想像させた。
仕方がない、戻るか。溜息と共に立ち上がり、そして耳元に触れる。
確かに、このピアスは、今日くらいは外しておいたほうがいいかもな。
そう思い、右耳、左耳と交互に手をかけて外したそれをスーツの上衣のポケットに突っ込み、深紅のベルベッドの絨毯を踏みしめながら戻る。


ポケットに入りそびれた片方のピアスが、その絨毯に吸い込まれるように落ち、音もなく転がった。





まだ外の喧騒が止まぬ中、渡り廊下の先にある教会の入り口の外だけが、人気もなく、不自然なほど静かだった。

オルガンの演奏は終わってしまっていた。パイロはまだ、この扉の向こう側にいるのだろうか。
いたとして、何を話すというのだろう、今更。しかも、このような日に。

胸がちくりと痛んだ。何故だろう。クロロへの罪悪感か、パイロが海外へ発つ寂しさからか。
それとも、自分自身の―――


唇を噛み締め、重厚なその扉を押し開ける。


―――すまない、クロロ。これでもう、パイロのことは、最後にするから。


パイロは既にいなかった。暗いチャペルの中には既にキャンドルがセッティングされていたが、
挙式前なのでまだ点火されておらず、外の照明が差し込む明かりと、僅かな月光と、そして時折夜空を割く稲光だけが頼りだった。

パイロの姿がないことに、落胆したような、安堵したような、不思議な気持ちだった。
そして、先ほどまで彼が弾いていたであろうパイプオルガンを眺める。クラピカの口許には自然と笑みが浮かんだ。


―――『主よ、人の喜びよ悲しみよ』に気が付いたのは、私だけだったのか。


皆が一様に、雨に雷鳴に振り回され、教会から流れる素晴らしいパイプオルガンの演奏に耳を傾けることはなかった。
彼の人生でたった一度だけ、この教会のパイプオルガンで奏でられたその曲を知るのは、私とパイロだけ。
昔、チャイコフスキーの白鳥の湖の『情景』を弾いてくれたこともあった。
オーケストラ向けのあの曲をピアノだけであそこまで表現できるのは彼しかいない。それを知っているのも私だけ。

彼のピアノはいずれ、世界中の人間の心を震わせる。もう私だけのものではない。
それでも私は知っている。他の誰も知らない彼と私だけのピアノの音色を。
彼のピアノの音色が大勢の人間のものになり、いずれ彼が誰かほかの女性のものになったとしても、その思い出は永遠に私だけのもの。


全て思い出にして、全て過去にして、もうこんな気持ちで思い返すのはこれで最後にしよう。
大して信じてもいない神に誓って。

再び、稲光が走った。


「……?」


その光に照らされ、深紅のベルベッドの絨毯の上に何かが輝いたのを見た。
引き寄せられるように、クラピカはその輝きのもとへと歩み寄る。
それはいつか、触れようとした手を払いのけられた、パイロのピアスの片割れだった。


雷鳴が轟く。
クラピカはしゃがみ込み、そのピアスを拾おうと、触れた。





『―――大変申し訳ございません、突然の雷雨の対応により、挙式の予定時間が大幅に遅れております。
 お詫びとしまして、スイーツビュッフェの品数を補充させて頂きましたので引き続き館内でのご歓談をお楽しみいただければと思います―――』


一時は騒然としたが、なんやかんや新郎側と新婦側の招待客同士でも盛り上がりを見せ始め、
誰も不平不満を言うものはおらず、寧ろスイーツビュッフェの時間が長引いてラッキーだとばかりに、
子どもや女性たちはスイーツに長蛇の列を作っているし、成人男性陣は酒を酌み交わし親交を深めている。
ずっと屋内にいたため濡れずに済んだことに安堵し、僕は上衣のポケットに手を入れた。
そこにある金属の感触を確かめ、そういえばさっき外したんだっけな、とぼんやりと考え、そして血の気が引くのを感じた。片耳分の感触しか、確認できない。
ポケットから手を抜き、念のため耳元を確認する。そこにもない。もう片側のポケットと、スラックスのポケットも全て確認したが、どこにもない。


僕は教会に向かって走り出した。


まだ、彼女が教会にいると決まったわけではない。だが嫌な胸騒ぎがした。
自分自身がこの耳飾りに引き寄せられたように、彼女があの日、吸い寄せられるようにこれに触れようとした時のように。
僕のもとを離れたこの耳飾りに、きっと彼女は辿り着いてしまう。

片耳だけでも、触れてしまったらどうなるのだろう?これまで隠してきた努力も何もかもが、全て無駄になってしまう。
上手く走れないこの足がもどかしい、早く行かなければならない、なのに。


不思議と高揚するこの気持ちは何故だろう。
僕がこの三年近い年月、君から離れて過ごしてきた時間が、どれほど苦しかったか。
僕が密かに、君を辛い前世の記憶から守っていた、その事実を君が知ったら、僕をどう思うだろう。
君の為に走り続けた、この三年間、僕は君のヒーローだったと、認めてくれるだろうか。


歯痒い思いで、教会の重厚な扉を押し開いた。
ステンドグラスに高く掲げられた、イエス・キリストが磔にされた十字架。一瞬、雲間から顔を出した月の光が、絨毯に逆十字の影を落とした。
その中心に蹲る、ダイヤモンドのように輝くドレスを纏う女性は、教会の扉が開いたことに気づいているだろうに、立ち上がろうとも振り返ろうともしない。


―――クラピカ、僕の運命の女神。




「"全て知っていたんだな"」




震える声で紡がれた彼女の言葉は、失われたはずのクルタ語だった。


彼女がどこまで思い出したか分からない、だから僕はただ、謝るしかできなかった。


「……ごめん。君に知られるべきじゃないと思ったんだ。
 君が知っても、ただ……君が苦しみを繰り返すだけだと」

「じゃあお前は!!」


次の言葉はもうクルタ語ではなかった。
それでも僕には懐かしい響きだ。小さなころの喧嘩以来だ、こんなふうに怒鳴られるのは。


「お前はどうなんだ!お前の辛さはどうなる!!昔からお前ばかり!!
 オレのそんな前世の記憶を一人で抱えて隠して、オレが喜ぶとでも思ったか?!」


そこまでまくし立てるように怒鳴り散らすと、クラピカは立ち上がった。
クリスタルなのかガラスなのか、はたまたビーズの刺繍なのか、女性の衣服や宝飾に疎い僕には遠目には分からなかったが、
それでも彼女が纏えばガラス玉だってダイヤにもなろう。その立ち姿も、怒りとも悲しみともつかぬ色に歪んだその顔も、
ただ女神のように美しかった。なんてことを今考えるのは、不謹慎なのだろう。


「前世のオレの苦しみなんてどうでもいい!今オレが生きてるのは"今"でしかない!大事なのは辛かった前世の記憶じゃない!
 一人きりじゃ辛くても、"今"お前は生きている。二人なら乗り越えられたはずなのに。パイロ、お前は前世から、ずっと……」


クラピカは、何かを握りしめた。左手の薬指に輝く大きな婚約指輪、
その手に握られているのはパイロープガーネットのピアス、そして、僕がいつしかプレゼントしたサックスブルーのハンカチだった。



「オレにはお前が、すべてだったのに……」



クラピカの言葉が鼓膜を心地よく震わせた。


ああ、僕は君からこの一言を聞くために、ただそれだけのために、この三年間を耐え続けたような気さえする。
でも。最初から真実を伝えていれば、今日君の隣に立つのは、僕だったのかもしれない。


「…何故だ?何故、前世でクルタ族は皆殺しにされなきゃならなかった?
 誰がそんな惨いことを?パイロ、お前なら知ってるんだろ?!」


やはり、この短い時間に片耳のピアスに触れただけでは前世の記憶は蘇りきらなかったのだ。
僕は安堵して、力なく首を横に振り、僕にもそこまでは分からない、と嘘をついた。

君の事だから、全てを知ったらまた復讐の道に走ってしまうかもしれない。
けれど、前世がどうあれ現世では関係ない。君がつい先ほど口にした言葉の通りだ、前世の苦しみなどどうでもいい、と。
それでも、今日君の隣に立つ男が、その男こそが、前世でクルタ族を虐殺した者たちの頭だと知ったら、
正気を保てるはずがない。


頼んだよ、クロロ。僕を敵視して挑発するくらいにクラピカを愛しているのなら、
せめて現世では真っ当であり続けろ。どんな過去があろうと、罪のない人間を苦しめる口実になどなりはしない。


「……僕が、君のすべてだったと。そう言ってくれたね、クラピカ」


クラピカは項垂れたまま、小さく頷いた。僕は目尻に滲んだものが零れぬように、天井を仰ぎ見た。


「……それが聞けただけで十分だ。僕だってね、君の苦しみを僕が代われるのなら、僕の苦しみなんてどうでも良かったんだよ。
 クラピカ、僕にとっても君は、僕のすべてだった。だから耐えられた、すべて……ずっと」


そうだとも、すべて、ずっと。


君が例え他の男と結ばれようと、君は僕の全てだ。
幼いころから家族よりも近くにいた。僕の理解者であり、僕の親友であり、僕の……

だから、いつかは元通りになれると信じていた。
君を辛い前世の記憶から守り通して、ヒーローにでもなって君を迎えに行くつもりだった。
その為ならばどんな努力も厭わなかったし耐えられた。
僕にとっては君が運命の人だった。でも君にとっては違ったのかもしれない。
そうでなければ今、こんなことにはなっていないだろう、そう。


「こんなことになると分かっていれば、最初から話していた」

「そりゃそうだろ!未来のことなんて分かりっこないんだから!
 どっちみちどうなるか分からないんなら、一人で悩むより二人で悩むほうを選べよ!」


肩を落とす僕に向かって、クラピカは容赦ない言葉を投げかけてくる。
全く本当に、こんな美しいドレスを着てこんな男言葉でまくし立ててくる花嫁などいるだろうか。
僕は肩を竦めた。


「だって、君の前世の話なんてしたって信じてもらえるか分からないじゃないか。
 気が狂ったのかとでも思われちゃうよ」

「だから、このピアス触れせれば一発だったろ!」

「あんな惨い記憶、君に見せられるわけないだろ!」

「元々はオレの前世の記憶だろ!!なんでパイロが決めるんだよ!!」

「だから君が二度も苦しむ羽目になるのが嫌だから話さなかったって言ってるだろ!!
 大体君は昔っから……っはは」


僕はいい加減可笑しくなり、クラピカから視線を外して吹き出してしまう。
クラピカが怪訝な顔をしてこちらを見ているのが気配で分かる。
自分でも自分が可笑しい。三年間ずっと彼女の為と思って隠し続けてきたことがあっさりとバレてしまい、
全てが無駄な努力だったと分かって虚しい。辛くて苦しい。息ができないほど。
なのに、それと同じくらい、彼女と数年ぶりに本音で言い争うことができる今のこの瞬間が幸せで、懐かしくて、
涙が零れそうなのと同じくらい、笑うことを止めることができなかった。

僕は彼女が呆れかえるまで笑い続け、ようやくそれが収まった頃に、口を開いた。


「……久しぶりだ、こんなふうにクラピカと口喧嘩するの」


暫し沈黙が降り、そして今度はクラピカは口を開いた。
囁くように、他に言うことはないのか、と。



―――前世からずっと、君を愛している。



などとは口が裂けても言えない。これから君はこの神の御前であの男と愛を誓い合うのだ。
神など大して信じていないとはいえ、そんな罰当たりなことはできない。

僕は彼女に笑いかけてみせた。出来る限り、辛さを悟られぬよう、余裕のある笑みを心掛ける。


「…そのドレスは、クロロが見立てたの?」


クラピカは声に出さず、瞳を伏せて頷いた。
折角そんなに綺麗なドレスを着ているのだから悲しい顔をしないで、などとは言わない。
君は泣いていても怒っていても美しい。聡明で、優しくて、僕に負い目など感じず、胸を張って生きるべきだ。


―――なんてことも言わない。君は一生僕を忘れることができないだろう。
こんなことがあって、それでも気にせず生きて行ける君ではないと知っている。
だが君が苦しいのなら、僕も一緒に苦しむことができる。
それはお互いが別々の人生を歩むことになっても変わらない。
君の苦しみは僕の苦しみだ。



「……綺麗だ、とても。世界中で君が一番」



美しい。


そのドレスを、思い切り引き裂いてやりたい。


君はこんな僕を知らないだろう。
君の中で僕はただ穏やかで人畜無害な幼馴染のパイロだ。
そんな僕が君の全てだったというのなら、それが全てのまま終わればいい。
永遠に僕の中に住む、別の僕の存在など知らぬまま。


「…オレはどうすればいい?」


今こんなことを知って、オレは一体どうすればいい?


クラピカは紅く染まった唇を噛み締めて顔を上げ、白い顔を歪ませて僕を見つめた。


「…クラピカはどうしたい?」


こんな結婚式逃げ出して、僕と二人でヨルビアンに行こうか?


クラピカは黙り込んだ。
先ほどよりももっと、長い長い沈黙が落ちた。
彼女が何かを言いかけて口を開きかけるたびに、それはすぐさま閉じてしまう。
君を困らせている自覚があるから、僕はつい、見られぬように顔をそらして笑ってしまう。
胸のポケットチーフに手をのばして、彼女に歩み寄った。
遠くで小さな雷がちらちらと光っている。彼女の髪飾りやドレスがそれを反射して輝く。
僕は彼女の白い頬に手を添え、上を向かせた。
彼女は驚いたような、戸惑ったような表情で僕を見上げた。

やっぱり、泣いていた。
滅多に泣かないクラピカは、たまに涙をこぼすことがあっても懸命にそれを悟られまいとする。
普通の女の子に比べたらとても強い。男より強いかもしれない。だから守られる必要なんてないと思っているんだろう。
それでも僕は君を、君の過去の記憶から守りたかった。


「…せっかく綺麗にしてもらったんだから」


彼女にプレゼントされた白いポケットチーフで、彼女の目元を拭ってやる。
僕が君の涙を拭うのはこれが最初で最後。
君と指輪の交換はできなかったけれど、僕にとってはこのハンカチが指輪がわりだ。

このまま君の手を引いて攫って、二人でどこへでも逃げて、
静かに、今度こそ誰にも奪えない幸せを二人で築けたなら。


それともいっそ、二人で湖に飛び込んでみるかい?


―――分かっている。君は愛してもいない男と婚約なんてできない。
ご両親や友人や、様々な人の力を借りて迎えたこの日をぶち壊すようなことはできない。
君がそういう人だから、僕も君を全力で守ろうとした。
これから君を守るのは、僕ではない。それは、残念だけど



「……クラピカ、今度こそ幸せに。君の幸せを、他の誰より願っている」



僕はそう言い、クラピカの手からピアスをもぎ取るようにして奪い、踵を返した。
ベルベッドの紅い絨毯を踏みしめるようにゆっくりと歩く。


「本当はっ…」


縋る様に僕を呼び止める声が背後にぶつかる。僕は振り返らなかった。決心が揺らいでしまうのが分かるから。


「本当は……パイロは一人で何でもできるって気が付いてた。勉強も、運動も……オレよりずっと優秀だった。
 事故の記憶もある。その足の怪我は俺をかばったせいだって、ずっと知ってた。
 でも知らないふりをしているほうがパイロは良いんだろうと思って、ずっと知らないふりを続けてた。
 パイロと対等でいたかったからクロロを家庭教師につけた。
 オレもせめてお前と肩を並べられるくらいにはならなきゃいけないって思ってた。
 パイロの足の怪我のぶんを補えるくらい、オレが頑張ればいいと思っていた。
 オレのために足が不自由になったパイロを、オレがしっかりして、支えたかった。
 オレがパイロを」

「もういい」


もうやめてくれ。
今更そんな話をして何になる。
君は他の男のものになるし、僕は海の向こうへ発つ。
いずれ今日の事も思い出のひとつになるのかもしれない。
でも、そう思える日は今日を乗り越えなければ迎えられない。


「僕は君にずっと隠しごとをして、君は僕にずっと嘘をついていた。
 お互いを欺き合っていたわけだ……きっと一緒になっても、幸せにはなれなかっただろうね」



そして、僕ではなく他の男を選んだことを負い目に感じながら、永遠に僕を忘れることなく苦しめばいい。
そうやって僕の存在が君の中で永遠になればいい。


そうすれば君と僕はずっと一緒だ、クラピカ。




僕は教会の扉を閉じた。









雷鳴はまだ轟いていたが、雨脚は大分遠のいたようだった。
教会と披露宴会場は、後付けで施工されたのであろう、雨を凌げる屋根付きの渡り廊下で繋がっていたが、
それでも風に煽られて足元の石畳は濡れていた。
私は未だ信じられない思いでそれを踏みしめながら歩く。
ドレスの裾が濡れないようにたくし上げる。せっかく綺麗にしてもらったのだから。
早く戻らなければ皆に、クロロに心配をかけてしまう。その思いだけが、歩みを止めてしまわぬよう、私をなんとか奮い立たせた。
辛かろうが悲しかろうが立ち止まることは許されない。前世の自分と変わらない。


「雨、だいぶおさまってきたね。屋内とはいえやっぱり降ってないほうがいいよね、教会に移動しなきゃだし」


全面ガラス張りの披露宴会場のほうから、ゴンの声が聞こえた。
少し開け放たれた出入口からこっそり顔を出し、外の様子をうかがっているのが見えた。
彼の後ろから顔を出したのはキルアだ。


「ホントだ。にしてもさ、カトリック教会での挙式って少なくともどっちかが信徒じゃないと挙げられないんだろ?
 クラピカは信徒じゃないはずだからクロロが信徒なんだよな?
 わざわざカトリック教会式にしたってところにちょっとパームみあるよな」

「どういうこと?」

「離婚禁止なんだよ、カトリック教会で挙式すると。
 二人はすでに一体であり、神が娶せたものを人間が離すことはできない……とかなんとか」

「えーっそうなんだ?!でも、最初から離婚するかもと思って結婚するカップルなんていないよね」

「まあなー。お前、パームと結婚する時はちゃんと挙式する場所考えたほうがいいぞ。
 あ、でもアイツも確かクリスチャンじゃなかったから関係ないか」

「いや、そもそも結婚するかどうかなんてまだわからな…」

「おい、そういうこと言うとまたアイツ湧いて出るぞ!」

「あっ!やべ!」


二人は焦りながら、そして笑い合いながら、会場内へと戻っていった。
二人の姿に、私とパイロがあの年の頃だった時の姿が重なる。
彼らは中等部を終えたばかり。三つほどしか違わないが、それでも私の目にはとても幼く映った。
パイロがあのガーネットの耳飾りを身に着けるようになったのは、丁度今の彼らと同じ年の頃。
あんな時から、パイロは、あんな、あのような私の記憶を抱えて―――

会場の中から人々のざわめきが聞こえる。すぐそこで起こっている現実が酷く非現実的に感じる。
先ほど私の身に起こった出来事のほうがよほど、非現実的だというのに。


「クラピカ?!」


名を呼ばれ、顔を上げると、血相を変えた私の夫が立っていた。
せっかく整えてもらった前髪が乱れている。
パイロに比べれば、長身というほどではない背丈で、ヒールを履いた私とは然程目線が変わらない。
だからなるべく低めのヒールを選んだ。今回の挙式披露宴で私が選んだものは、このウエディングシューズだけ。


「教会へ行っていたのか?何をしに?探したぞ」


いつも冷静で顔色一つ変えない彼が、息を切らせて肩を上下させている。
こんな時でも彼は声を荒げない。彼とは一生、パイロとしたような口喧嘩はできない気がする。
私がどんなに激昂したとしても、彼は落ち着き払って微笑みすら見せる気がする。
なのに今はこんなに顔色を変えて―――私を愛して、いるのだろう。


私は何も言わず、彼の乱れた前髪を後ろに撫でつけ、整えてやった。
彼の白い額が露わになる。雨の水気を帯びた風に晒され冷え切っている。私の所為だ。


"今度こそ幸せにならなくちゃな"

―――幸せになっても良いのだろうか。私の所為で、私の為に、辛い思いをさせた大切な人がいたのに。


私は何も言わず、彼の身体に身を寄せた。
彼の心音が聞きたい。愛するお前の命が、その心臓の音も、もうすぐ私と一つになり、私のものになる。
否、初めから一つなのだ。神が娶せた私たち。

身を寄せた私に、クロロは何も聞かなかった。
黙って私の肩に手を回して、そのまま抱きすくめられた。
肩口から肘まで繊細なレースで覆われているだけのドレスに、春雷を伴う雨は肌寒くて。
いつも冷たい彼の手が、私を探し回ったせいか、暖かく感じた。心地が良い。
彼の纏うコロンに、彼自身の香りが混ざった彼だけの麝香の香り。この香りが胸を満たすと私はたまらない気持ちになる。

カトリック教会での式にこだわって、個人手配が多くて本当に慌ただしかったな。
皆が俺を社長に推してくれたから頑張ると、起業したてで忙しいクロロが、その合間を縫ってほとんど一人でやってくれた。
クラピカが俺を選んでくれたから頑張るよ、そう事も無げに言って。お前のそういうところが私はたまらなく愛おしい。
ドレスに興味のない私に、彼が好みの、そして私に似合うであろうドレスを見立ててくれた。
ティアラもそう、ベールもそう、グローブもそう、結婚指輪もそう、それから、それから。

でも、もうすぐそれも終わる。
そうしたら彼の傍で彼を支えながら、二人で静かに過ごすんだ。
きっと暫くお前は仕事に追われ私の相手などしていられないだろう。
そんな中で私は両親のもとを離れ、幼馴染と離れ、友人や恩師たちと離れ、ただお前の帰りを待つ。
そうして私にはお前しかいなくなる。そんな未来がうっすらと見える。



"それって幸せ?"



クロロ、お前は知らないだろう。
お前が選んだ教会式。お前がそれが良いと言うのならそれに従おう。
だが本当は私は、神など大して、いや、心の底から全く信じてなどいないのだよ。





雷鳴がとどろく中、母からベールダウンを受け、父と腕を組み、教会へ足を踏み入れる。


息を呑むような荘厳な内装、聖歌隊の透き通るような讃美歌、そしてパイロの奏でる得も言われぬパイプオルガンの音色に迎えられる。


ステンドグラスに掲げられた、イエス・キリストが磔にされた十字架。
それが稲光に照らされ、紅い絨毯に逆十字を黒く映し出した。

一歩、一歩、と絨毯をヒールのつま先が踏みしめるその感触を、どこかうつろな思いで感じていた。
緊張により固い動きの父の足取りに合わせながら、何かにとりつかれたように、度々絨毯に映し出されるその逆十字を見つめる。
聖ペトロ十字、もしくは悪魔崇拝的なモチーフ、あとは―――どこで見たのだろう。記憶の奥に靄がかかったように思い出せない。
別に、思い出せなくたって良い。何故こんな時にこんなことを考えてしまうのだろう。集中しなければ。
そう思えば思うほど、これまでに起こった様々なことが思い起こされた。


ワーグナーの結婚行進曲が遠のき、脳裏に浮かぶのはあのコンクールの全国大会でパイロが奏でた、月光ソナタの第三楽章だった。
彼の渾身の演奏。幼いころから、第三楽章が上手く弾けないと嘆いていた。ようやく完成された彼の第三楽章。
彼はあの演奏に全てを込め、必死に何かを伝えようとしていた。
彼はいったい、あの曲を通して何を私に伝えたかったのか。
伯爵令嬢ジュリエッタとの身分違いの恋に破れたベートーヴェン。
作曲家の命とも言える聴力を失っていく中で、愛する人をも奪われるかなしみ。
相手の男はジュリエッタと同じ伯爵位を持ち、かつベートーヴェンと同じ作曲家…
二人の婚約前に彼女に月光ソナタを贈ったベートーヴェン。彼の心の内たるや―――


祭壇の前に立つ彼の元に辿り着く。もうすぐ彼が私のものになる。



「新郎クロロ、あなたはここにいるクラピカを、病める時も健やかなる時も、
 富めるときも貧しき時も、妻として慈しみ、敬い、愛することを誓いますか?」

「はい、誓います」



神父の流れるような誓いの言葉に迷いなく答える彼の声が、私の脳に溶け込んでいく。


そしてソナタは終結部に突入する。


憧れに近い感情を抱いていた彼が、私のものになるなんて、夢のようだ。
初めて出会った日を、雷鳴轟く雨の日だったと間違えた彼。プロポーズの直後にそんな過ちを犯すなんて抜けたところもある。
いつも余裕たっぷりで、先の先を考えて行動していて、私がどうすると喜ぶか、どう振舞ったら怒るか、
分かったうえで全て行動して、私を悩ませる。
そんな彼もまた私を求め、三年間自身を抑えてきたと知ったあの日、慌てて残ったクレープを口に押し込んで指輪を受け取った。
ムードだなんだと言いながら、私の振る舞いも些かそんなものからはかけ離れたものだった。
それでも、十分だった。ムードなど何もなくても、あの彼が私を思ってくれている。
浮かれて彼の口づけを受け入れた。何度も、あの珈琲の香りが漂う喫茶店の庇の下で、
彼のマフラーの麝香の香りに包まれて、彼は私の、私は彼の心を拘束した。
すると彼は薄ら笑って言った。今のこの状況は昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏なものだ、と。
私がどうしたら怒りに打ち震えるかを分かっていてそう言ったのだ。
余裕たっぷりの笑みを湛え、麝香の香りが充満した車内で私は憎しみに視界を真っ赤に染め眩暈を憶えるほどの怒りに打ち震え
だが間近に勝利を確信していた。なのに彼は私を翻弄する。いや、これでいい。彼の心を、心臓を拘束するのだ。



律する小指の鎖の能力で、彼の心臓がもうすぐ私のものになる。



不安定な曲層を経てカデンツァ、低音ソロ。



―――そうだ、クロロと初めて出会ったあの日も、こんな雷鳴のとどろく雨の日だった。
彼のコートに浮かぶ逆十字、そして彼の額に刻まれた、何かの象徴であるかのような―――




「―――夫として慈しみ、敬い、愛することを誓いますか?」




私は夫となる男を見上げた。ベールで白くぼやけているはずの彼の輪郭が徐々にはっきりと、記憶の男と重なっていく。



「言っただろう?俺はお前が過去に誰を想っていようと、何を憎んでいたとしても、永遠にお前を愛すると」



男は困ったように微笑んだ。

こんな時でも嗤う余裕がある貴様にとっては、今この瞬間ですら昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ、平穏なものなのだろう。




転落するような低音へのアルペジオ。
完璧なまでのコーダ。
一つの物語とも言うべき、ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調・作品二十七の二 『幻想曲風ソナタ』第三楽章が終結した。





「それでも、お前は俺を愛せるか?」









END.
20230520.




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