あれは中等部の修学旅行のことだ。忘れもしない。
修学旅行客が増える時期のその街中は賑わっていて、目抜き通りでは僕の地元では見かけない露天商が立ち並んでいた。
見ていかないかと声をかけてくる彼らに、物珍しさもあり、歩きながら横目にちらほら商品を見やったが、
中には悪質な商売を行っているものもあるという印象から、彼らの巧みな話術に捕まらぬよう、歩く速度を緩めなかった。
目抜き通りを抜けたところで、一人外れたスペースを陣取り露店を広げている老人がいた。
何故一人外れたところで商売をしているのだろうと、たまたま気になったのかもしれない。
あるいは、彼の広げている商品はぱっと見ただけで品数を把握できる程度にしか、数がなかったからなのかもしれない。
もしくは、老いた男の店にしては、並んでいる商品はどれも女性が好みそうなアクセサリーの類だったからかもしれない。
それか、あるいはやはり、僕は引き寄せられたのかもしれなかった。
班行動をしているポックルとハンゾーに断って、僕はその露天商のもとへ走り寄った。
彼の並べている商品はどれも丁寧に手書きで値付けされていた。それも僕が警戒心を解いて彼の店を見てみる気になった理由の一つだった。
銀の髪飾りや、金メッキの首飾りなど、貴金属ではないにしても、おそらくどれも状態の良いアンティークに思えた。
年頃の女の子であれば心躍らせる光景なのだろう。クラピカはあまりこういったものに興味があるようには見えないけれど、
高校への進学祝いに、あるいは誕生日プレゼントとして、何か贈ってやれたら。
などと考えていたタイミングだった。そして、未だ中等部だった僕でも手の届く値段のアクセサリー。
もしこれらが全て、神の仕組んだ悪戯だったのだとしたら、それは悪質さの度が過ぎている。
「何か、気になるものがあるかい?」
老人の声の優しさも、気の良い笑顔も、僕の心を絆した。
僕は一際輝く赤い宝石の耳飾りに釘付けになっていた。
イヤリングではない、身に着けるにはピアスホールが必要なその耳飾りは、クラピカにはまだ早い。
そう分かっているのに、おそらく真鍮でできている地金のピアスを耳に下げたならさぞ似合うだろうと思った。
そう、まるで彼女のためにしつらえられたものであるかのように。
なんという宝石なのだろう、そう思い、そのピアスに手を伸ばし、触れてみた。
その後の感覚も記憶も、どれだけの時間がどれだけの速さで過ぎたのかも曖昧にしか思い出せない。
「そのピアス、状態がいいだろう?」
僕が我に返ったのは、露天商の老人にそう声をかけられたからだった。
僕の指先は冷え、なのに額からは汗が噴き出して頬を伝い、顎から雫となって落ちた。
おそらく顔面も蒼白だっただろうと思うが、老人はやや目が悪いのか、僕の様子にはお構いなしに話し続けた。
「多分、相当古いものなんだけどねえ、金でもプラチナでもないのにそこまで綺麗なままなのは珍しいよ。
石はおそらく、ガーネットだな。パイロープガーネット。確か、どこかの国の言葉で、炎の目っていうのが石言葉だったかな…」
老人の説明は不要なものだった。この石について、この耳飾りについて、僕はよく知っている。
何故なら、これは他ならぬ"僕"が"彼女"にプレゼントしたもの"だった"のだから。
それは俄かには信じ難い出来事だったが、否応なしにその耳飾りから流れ込んできた記憶が僕に訴えかけてくる。
これは、このままここにあってはいけない。
「…これ、ください」
傍目には少年が意中の相手へのプレゼントを買い求めているように見えただろう。
事実、いつまでも露天商の店先から離れない僕に痺れを切らし駆け寄ってきたハンゾーとポックルは、
殆どその意中の相手などお察しであると言いたげににやついていた。
級友たちとの青春の一ページを飾るべき中等部の一大イベントで、級友についてなんとか記憶にとどめているのはこの二人のこの表情が直後、
僕の顔を見るなり神妙なものに変わったことくらいだ。
二人は声を揃えてこう言った。
「パイロ、おまえ酷い顔してるぞ」
運命
― 月光ソナタ 全楽章 ―
― 第一楽章 ―
何をどこからどう説明すれば上手く伝わるか皆目見当もつかないし、実際僕自身も僕自身を納得させるのにそれなりの時間を要した。
一言で言ってしまえば、あの耳飾りはクラピカのものだった。正しく言えば、僕が彼女にプレゼントしたもの。
もっと正確に説明すると現実味が一気に失せるが、"前世の僕が、前世のクラピカにプレゼントしようとしていたもの"だ。
クルタの里を出て、彼女は僕の足と目を治療できる医者を探す旅へ。
彼女が戻ってきたら僕はこの耳飾りを彼女にプレゼントするつもりだった。友愛と、そしてこっそり、真実の愛を込めて。
幻影旅団により里は壊滅し、僕は彼女にこれを直接プレゼントすることは叶わなくなったはずだが、
里に戻った彼女がどうにかしてこれを見つけ出したのだろう。
鍵付きのキャビネットに大事にしまっておいたこの耳飾りの存在を見て、僕の思惑も彼女に伝わっていたのかもしれない。
そのためか、耳飾りには彼女の強い思念が残留していた。
これに触れていると、前世の彼女の見てきたものが、彼女の脳を覗くように僕の意識に流れ込んでくる。
修学旅行を終えて帰宅すると、僕は高熱を出し寝込んだ。
殆ど中等部の終わりに遂行される修学旅行だった為、形だけ修了式に顔を出し、そのまま春休みに突入したのをこれ幸いとばかりに僕は自室に引き籠り、
ひたすら彼女の記憶と向き合った。
D・ハンターの冒険に憧れて外の世界を夢見た彼女が見た現実を。
笑顔で里を出ていった彼女が、孤独と悲しみと苦しみを抱え過ごした四年間を。
良き仲間と出会い、過酷ながら穏やかな気持ちが蘇ったハンター試験での思い出を。
幻影旅団と対峙し、憎悪に激憤する彼女の赤い視界を。
裏社会に身を堕とし、仲間たちの瞳に祈りを捧げる哀惜の念を。
彼女の、時折暖かくも、怒りと憎しみと悲しみに終始した一生を。
彼女一人生き延びたのは幸いだったのだろうか。彼女を送り出したのは正しかったのだろうか。
一体何をどこで間違えてしまったのだろう、前世の僕は。
こうしで今生で巡り合えたのは神の思し召しかもしれないし、神の気まぐれの暇つぶしなのかもしれない。
何はともあれ、僕らが忌み嫌われ、それと同時に世界七大美色と謳われ、
狩られる誘因となった『緋の眼』までは現世に受け継がれていないのは、幸運というべきか。
この耳飾りに出会ったのが彼女ではなく僕だったのも、また。
僕は死に物狂いでクルタ族惨殺事件について調べたが、ネットでは精々「世界的ニュースとなった大量殺戮事件」だとか、
「その瞳の持つ魔力が悪党の審美眼に叶ってしまった悲しき一族」だとか、悪趣味なコラムに陳腐な煽り文つきで掲載されている程度で、
センセーショナルな大事件でありながら月日の流れとともに風化してしまったくらいには、古いニュースであることには違いなかった。
記憶はあくまで前世だ。何年も何十年も、百年以上も前のことで、今起こっていることではない。
それでも直接脳に訴えかけてくる彼女の悲しみと怒りは僕の心を猛然とかき乱した。
この記憶をクラピカ本人が思い出してはいけない。
彼女は過去に十分すぎるほど苦しんだ。
時代を超えてまで苛まなければならないほどの罪など犯していないはずだ。
僕一人で抱えていけば良い。絶対に、誰にも触れられないように。
だが、何故僕が、僕らが、苦しむ必要がある?
この記憶とピアスの持ち主は前世のクラピカであって、現世のクラピカのものではない。
同胞を皆殺しにされたのは"今"の僕の幼馴染である彼女ではない。"今"の僕は生きている。
掌で弄んでいたガーネットのピアスを見つめる。燃えるような炎の色をしていながら、輝きはどことなく冷たさを伴い、
まるで僕のほうこそこの石に見つめられているような錯覚に陥った。
僕がどうするべきか、何をすべきか。試すようなその視線。
僕はここ数日のほとんどを過ごしていたベッドを抜け出し、学習机に無造作に投げ出したままの中等部用の名札を引っ掴んだ。
自室を出、洗面所に向かう。ごく一般的な白い洗面台が設えられた洗面脱衣所は薄暗く、僕は今が夕刻だと知った。
鏡に映る懐かしい僕自身の顔は頬がこけ、うっすら無精髭を生やして、前世では幼いままこの世を去ったあの"僕"ではないのだと靄のかかった脳裏で思う。
名札の裏についた安全ピンで、躊躇いなく両の耳朶に穴を開けた。
そこへパイロープガーネットのピアスの真鍮の金具を刺すが、開通したばかりの狭い穴はなかなかそれを受け入れようとせず、上手くいかない。
眉を顰める微かな痛みも重なれば煩わしいものとなる。だがそれでも耐えられた。僕なら耐えられる筈なのだ。
僕はかつて一度残酷を極めた手法で惨殺された。クラピカを独りにしてしまった心の激しい痛み。
それに比べれば、どんなことだって耐え抜ける筈なのだ。
両の耳に揺れる耳飾りは誇り高く懐かしい一族の、美しい緋色の目に似て、僕は知らぬはずの郷愁にかられる。
手にこびりついた血液と一緒に顔を洗い、再び鏡を覗き込むと湯気で曇った鏡面を手で拭った。
前世のパイロと現世のパイロ。今の僕はどっちのお前だ?
「……どっちも僕だ。そうだろ?パイロ」
春休みももうじき終わりという頃になって、クラピカが僕の家を訪ねてきた。
ようやく自室から出るようになったと思ったらピアス穴が開いていた僕に、両親は激高するかと思いきやまるで腫れ物に触るかのように接した。
おそらくだが、ちょっと遅れてきた反抗期だとか、そういうものに興味が出てくる年頃なのだろうと思われているようだった。
まあ、ピアスについて深く探りを入れられないのであれば別にどう思われようと構わない。
幼いころから互いの家を行き来していた遠慮のなさから、クラピカはいつものように、両親との挨拶を済ませると真っ直ぐに僕の部屋までやってくる。
ちょっと前から感じ始めていたことだけれど、これ、そろそろ僕らの年齢的にまずいんじゃないか。
などと逡巡を巡らせているうちに部屋のドアがノックされる。どうぞ、なんて答えなくてもどうせ開けるんだろうけど、
僕は形ばかり、どうぞ、と返事をした。ドアはやはり躊躇なく開け放たれた。クラピカはおそらく部活帰りなのだろう。
(春休み中だが、彼女が所属している陸上部は特に退部希望がなければそのまま高等部でも陸上部扱いとなる)
陸上部仕様の短いショートパンツに体操服のトップス姿で、その恰好で年頃の男の部屋に来るのは、本当にそろそろまずい。
などという煩悩が読まれたかと思うくらいに、クラピカは不服そうに僕の顔を眺めている。
「……頬、こけてるぞ。痩せたんじゃないか?」
そう言って自然に僕の部屋に入って、後ろ手にドアを閉める。僕は気付かれぬくらい静かに、鼻から溜息を逃がした。
自ら密室にしてしまう無防備さも、正座させて説教してやりたいくらい本当に良くない。
まあ、説教したところで、パイロ相手にそんな警戒する必要ないだろ、と鼻で嗤い飛ばされるのが関の山だ。
「…ちょっと前まで食欲なかったから。今はもう大丈夫だよ」
「ホントかよ?うちの母親もパイロの母さんも心配してたぞ。修学旅行から帰ってきてから、パイロがおかしいって。
勿論オレだって…」
保護者ぶったような口調でそう言いながら、勝手知ったる部屋だからとばかりに、
遠慮なくスポーツバッグを床に放り投げ、すとんと僕のベッドの端に腰かける。
だから、そういうところに座るなって。そう心の中で悪態をつきながら、視線が自然と彼女の足に向かってしまう僕自身を叱咤する。
確かにおかしい。本当にまずいのは、良くないのは僕だ。
彼女は極めて今まで通りなだけだ。この耳飾りに出会って、僕は彼女について考える時間が増えた。
以前から彼女が大切な幼馴染で、友人たちの中でも、とりわけ女の子の中では特別な存在だったことに変わりはない。
そしてこの耳飾りとの出会いは、そんな僕を絶望と葛藤の淵に陥れるとともに、少なからず僕を歓喜させた。
僕にとって、特別な存在の女の子であるクラピカ。彼女とは運命的に、現世で再び巡り合ったのだと。
だがそれを、今のクラピカは知らない。知らせるわけにはいかない。僕だけが抱えて生きていくのだ。
拗ねたような視線を感じ、背けていた顔を再び彼女に戻すと、彼女の手には小さな紙の袋が握られていた。
「…心ばかりだけど。進学祝い」
僕は瞬きをして、その袋を受け取った。開けて良い、と尋ねると、当たり前だろ、と男勝りな言葉が返ってくる。
未晒の袋の中に入っていたのは、白地に銀の糸で端にラインの入ったハンカチだった。
「パイロなら白が似合うかと思ってさ、それなら今後フォーマルな場でも使えそうだろ?」
明るい声はすっかりいつものクラピカだった。僕の様子に合わせて明るく振舞おうと努めているようにも思えた。
わざわざ僕に似合うものを、と選んでくれたというのに、僕は呆けた声で、ありがとう、と返すのが精いっぱいだった。
というのも、
「僕も進学祝い用意してたんだ」
まるで今まで忘れてしまっていた。僕は学習机の引き出しを開けて、そこから薄く白い紙袋を取り出した。
この耳飾りはプレゼントするわけにはいかなくなってしまったから、と。
修学旅行以来怠惰な生活を送っていたにもかかわらず、僕は律儀にもこれだけはきちんと用意していたのだった。
「えー、何だよ、エスカレーター式だから進学祝いってのも変かなと思ってたのに、
ほんとオレたちって考えること一緒だよな!」
「開けたらもっとビックリするかも」
「本当?」
クラピカは頬に笑みを残したまま、袋の封をしているシールを指先で丁寧に剥がしていく。
男口調のまま育ってきているのに、そういう仕草を見るとやはり女の子だなと思う。
袋の中から現れたものを見て、彼女は驚きのあまりか一旦袋を閉じ、そしていっそう破顔した。
「嘘だろ、いくらなんでも思考回路同じすぎだろ」
「でしょ?だから僕も驚いた」
僕が用意したものは淡いサックスブルー地の淵に羽のようなレースが施されたハンカチだった。
彼女はあまり女の子らしすぎるものは好まないから、ピンクだとかあからさまな色のものは選べなかったけれど、
あまりにもメンズライクなものをプレゼントするのも気が引けたので、気に入ってくれるかはわからなかったが、
悩みに悩んだ末のセレクトがこれになった。
「オレが青好きだってよく覚えてたじゃん」
今度はちゃんと袋からそれを取り出し、目の前にかざしてしげしげと眺めた後、僕に微笑みかけ、
「大事にする」
そう言って、言葉通り大事そうに、ハンカチを再び袋に入れ、スポーツバッグのサイドのファスナー付きポケットにしまい込んだ。
「そういえばさ、今日最初にパイロ見た時から思ってたけど」
ここまでの一連のやり取りで、彼女の僕に対する気づかわし気な、両親と同じ腫れ物に触るような声の陰りは消えていた。
僕はそれにもっと早く気付き、警戒するべきだった。
「パイロ、いつの間にピアスなんか開けたんだよ?うちの学校ゆるいから怒られはしないだろうけどさ、
母さんたち狼狽えてたぞ、パイロが不良になっちゃったって」
はっとして振り返ると、どきりとするほどクラピカの顔が近くにあった。
幼少の頃は彼女のほうが高かった背は、いつの間にか僕が追い越していた。
それでも彼女も高身長の部類に入る為、僕らの視界はほとんど変わらない。
ちょうど彼女の視線の高さに、僕の耳朶がある。
「……綺麗」
彼女は吸い寄せられるように僕の耳元に手を伸ばした。
そして僕も殆ど反射的に、吸い寄せられたその手首を強い力で掴んだ。
「触るなッ」
おそらく僕が彼女に対して理不尽に声を荒げたのは、これが最初で最後だ。
催眠術から解けたような顔で、はっとしたように僕を見つめるクラピカ。
部活帰りの汗とシャンプーの香りが混ざったような、複雑で官能的な香りが鼻腔まで届くのを感じた。
それが鼻腔を辿って背筋を擽る様に、ぞわぞわと全身を駆け巡っていく。
それに抗うように脈打つ鼓動と、無防備な彼女に対する怒りと、全てを抑えられない僕自身に対する苛立ちが、僕を駆り立てた。
クラピカが眉を顰め、視線を泳がせた。痛い、と掠れた声で訴える彼女の頬は心なしか汗ばみ紅潮していた。
これはまずい。本当に良くない。
僕は彼女の訴えも聞き流し、ただ僕自身の欲望を抑え込むためにその手首を握る手によりいっそうの力を込めた。
「……気安く触ろうとするなよ。どういうつもり?」
「…どういう、って」
きっと本当に他意などなかったのだろう彼女の、至極真っ当な返事。
彼女からすれば僕のほうが、一体どういうつもりなのか考えが読めないだろう。
―――これはまずい。本当に良くない。
僕の中の僕が警笛を鳴らす。これはどっちの僕だ?前世のパイロか、現世のパイロか。
いや、どちらでもない。だってどっちのお前も僕だ。そうだろ?
だったら、丁度いいじゃないか。
「…僕もさ、一応健全な男子なんだよ。分かる?どうせ女子同士でもそういう下世話な話は出るんだろうけどさ。
健全な男子の部屋に一人でのこのこやって来て、何されたって文句言えないと思わない?」
「…何の、話?」
今日のパイロ、なんだか怖いよ。
ああ、そうだね。今日の僕は少し怖いかもしれない。まるで君の知らない人みたいだろう?
知らない人にはついていっちゃいけないよ、知らない人のおうちに遊びに行っちゃいけないよ。
そう大人たちは教えてくれたはずだ。
聡明なはずの君が僕だけには心を赦して近づいてきてくれるのは、これ以上にないほど喜ばしいことなのだろう。
それと同時にこれ以上になく恨めしくもある。だってそれはつまり、僕を男として認識していない、ということだから。
怯えて顔を背けたままの彼女の頬にかかるくらい、僕はわざとらしく盛大な溜息をついて嘲笑する。
「…だからね、僕は今までずっと、必死に耐えてきたんだよ。
クラピカがこうして距離を詰めてくるたび、僕は耐えなきゃならなかった。君は大切な幼馴染だから」
「オレだってそうだよ、どうしちゃったんだよパイロ?」
クラピカはこのまま素知らぬふりを貫くつもりなのか、今度は真っ直ぐ僕に向き直って言った。
それとも本当に、僕の言わんとしていることが分かっていないのだろうか。
琥珀色のこの瞳は、前世のままだったら今、深紅に染まっていたのかもしれない。
クラピカは再び口を開いた。「オレはただ、」
「今までみたいに、ずっと…パイロと仲良く…」
まるで自信を失っていくかのように声は尻すぼまりになり、瞳は伏せられる。そうだろう。前世では、ずっと仲良く、とはいかなかった。
僕は君の目の前からいなくなってしまったから。
そりゃあ勿論僕だってそうしたい。ずっとクラピカと仲良くしていたい。当然だろう、君は僕の全てなんだ。
僕は演技がましく息をついて、わかったよ。と、そう答えた。
じゃあ、もっと仲良くする?
彼女の手首を解放したその手で、剥き出しになった太腿に触れ、ゆっくりとショートパンツの裾まで辿ると、臥せった彼女の瞳は再び見開かれた。
あと数センチで唇同士が触れ合うその時に、僕の読み通り、彼女は短い悲鳴を上げて僕を突き飛ばした。
なかなか容赦のない力だったので、足がやや不自由な僕はそのまま尻もちをついた。
体勢を立て直す間もなく、クラピカはスポーツバッグを掴んで部屋を飛び出し、階段を下りて走り去っていった。
僕の不自由な足に感謝した。もし僕がまともに走れたなら、逡巡をかなぐり捨てて彼女を追いかけて謝罪しただろう。
他ならぬ僕自身の選択だけれど、それでも。彼女にあえて嫌われるよう振舞うのは目の奥にこみ上げてくるものがある程度には、辛い。
「これはしばらく、仲直りできないな…」
今、君を僕に近づけるのは危険すぎる。この耳飾りがどれほどの魔力を持つのか計り知れていない。
僕がこれについて把握できるまで、あるいは、これから君を守るためにどうすべきなのか。
それが分かるまで、暫しのお別れだ、クラピカ。
そして高等部へ進学して間もない頃に、僕に家庭教師の依頼が舞い込んできた。
僕の通うエスカレーター式の学園では、所謂金持ちか成績優秀者かのどちらかなので、
前者は金さえあれば進級できるし、後者は教えを賜らなくても自分自身の学力のみで進級できるので、
こういった依頼が舞い込むのは珍しいことだった。
依頼主はゾルディック家。巨大財閥であるだけでなく、否、だからこそ、学問や教養に於いても厳俊で、
世襲制ではあるが嫡子となる兄弟が選ばれる基準は、後継者としていかに素質があるか否か。
よってあの家の子どもたちはそれぞれが優秀で、かつ、それぞれが一癖も二癖もあるものだから、彼らは学園内ではちょっとした有名人だった。
正直申し上げてあまり関わりたくはない一家なのだが、三男キルアだけはちょっとした顔見知りだった。
というのも、クラピカが特に親しくしている友人の一人だったのだ。
二人はとある外国語検定の試験会場で知り合ったらしい。
年齢もやや離れており、あまりお互い相容れるような性格には思えなかったが、それからというもの何だかんだと友情が続いているらしい。
いずれにしても、学園に多額の支援もしているゾルディック家からの依頼は断るわけにはいかない。
それを除いても、破格の報酬で受けられるアルバイトだった。
いずれはピアノを新調したいと考えていた僕は二つ返事で引き受けたが、一つ疑問に思う点があった。
「どうしてクラピカじゃなくて、僕に家庭教師を頼んだの?」
何度目かのアルバイトの時、僕はキルアにストレートにそう尋ねてみた。
実際、こうして家庭教師のアルバイトで彼と会うと、ちょくちょく勉強の合間にクラピカの話(ほとんどが愚痴めいた内容だった)をした。
彼が彼女の話をするのは、僕がクラピカの幼馴染だというのも原因の多分を占めるのだろうが、
それほど仲が良いのであれば猶更、何故クラピカに頼まなかったのだろうと釈然としない。
僕は彼にとってはあくまで、クラピカの友人の一人、程度の認識だろうと思っていたからだ。
クラピカの成績も僕とほとんど変わらず、家庭教師を務めるのに何ら不足はないと思う。
キルアは猫のように吊り上がった目をさらに鋭くして、驚いたような、困ったような表情で僕を見た。
そして、ばつが悪そうに学習ノートに視線を落とす。今時の少年らしい粗野な口調の彼だが、字もノートの取り方も綺麗で、
おそらくそういった細かな点まで厳しく躾けられているのだろうと思った。
「…母親が、うるさくてさ」
変声期を迎えていない彼の声はまだ高く、少女のようだった。どことなく、女の子にしては低い声のクラピカと似ている気がした。
もう長いこと彼女と話していない僕は、キルアと語る彼女の話がちょっとした心の拠り所になりつつあった。
「年頃の娘を家庭教師になんかつけたら、何か間違いが起こるかもしれないから駄目だって。
俺とクラピカがそんなの、有り得ねーじゃん。きしょいっつーの」
呆れ果てたように笑いながらそう言う声には少し自嘲の色も感じられた。
彼はシャープペンシルの先をノートの表面で弄ぶようにして、芯の折れる小さな音がした。
まだ幼い彼が、親しい年上の異性の友人との関係の行く末を親から邪推され、そのように言われるのは衝撃だっただろう。
「俺のことをあーだこーだ厳しく言ってくんのはさ、うるせーと思いつつも聞き流せるから良いよ、我慢できる。
でも、俺のダチをそういう風に言われたのは正直かなりキツくてさ。
駄々こねりゃークラピカを家庭教師にしてもらうこともできたかもしんねーけど、
その所為でこれからずっとクラピカが母親からそういう目で見られるのは、ちょっと耐えらんねーなと思って」
そこまで言ってキルアは、あっ、と声を上げてパイロを見た。
「だからって、パイロで妥協したとか、そういう意味じゃないからな!
正直クラピカが家庭教師になったら終始口喧嘩になっちまって勉強どころじゃないかもなって思ってたし」
慌ててそう弁明めいたことを述べながら手を振る彼は、誤解されやすいが優しい子なのだな、と思う。
特にクラピカを思いやってそう決断する彼には、勝手にシンパシーを感じずにはいられない。
「クラピカのことが好きなんだね」
僕は素直に感じたままに、そう言ってしまった。
すると、彼は再び大きな目をつり上げ、そして困ったように眉根を寄せ、みるみる白い肌を真っ赤に染めて、
「…ごめん」
と、そう掠れた小声で、しかし強く懇願するように言った。
僕は意味が分からず、どうして、と尋ねた。
すると彼は俯き、普段の強気で自信たっぷりな態度はどこへやら、おずおずと口を開いた。
「だってさ、まるでその……パイロの彼女に横恋慕するようなさ」
え、好きってそっちの好き?というか、それより、彼女って。
「…いや、僕とクラピカは付き合ってなんかないけど」
「いや、嘘つけよ?!俺に気ィ使ってんだろ?!皆分かってるよ、アンタとクラピカが付き合ってることくらい!」
戸惑いがはっきりと声色に出ていたと思う。しかしキルアは全く信じてられないと言いたげな表情の顔を上げ、そうまくし立てるように言った。
いやいや、皆って。人はどうしても自分の言い分を通したい時、自分は大多数の意見を代表して述べています、というような言い方をするものだ。
というより、彼はそう自分に言い聞かせつつ、それを否定してもらって安心したいのだろう。
微笑ましく思って僕は、本当だってば、と答えて、参考書をめくり講師としての顔に戻る。
「僕とクラピカはただの幼馴染だよ」
彼がまだ幼くて良かった、と思う。
情に絆されやすいクラピカは、こんなに可愛い少年が自分に淡い恋心を抱いていると知ってしまったら、たじたじだっただろう。
キルアはまだ納得していない様子だったが、諦めたように彼もノートに向き直った。
「…まあ、本当にただの幼馴染なんだとしてもさ。早く仲直りしなよ。
クラピカ気にしてたぞ、パイロは元気かって。そんなの本人に直接会って確認しろよって言ってやったけどさ」
キルアの言葉に耳を傾けすぎて、僕は目的のページを忘れ何度もパラパラと参考書をめくる。
あんなことがあったのに僕を気遣ってくれるなんて、クラピカは相変わらず甘いというか優しいというか。
僕は彼女のそういうところが心配だし、そういうところがたまらなく―――
ふと、僕はあることを思い出した。そうか、彼女は僕がキルアの家庭教師のアルバイトを受けたことを知っているのか。
「それで、そのことはちゃんとクラピカに伝えたの?」
キルアはノートに落とした視線を動かさないまま小さく首を横に振った。
「俺、そういうの諦めてるから。多分結婚も親が選んだ相手とすることになると思うからさ。俺の両親もそうだし。
だから付き合うとか恋愛とか、いいんだよね。こっちが勝手に好きになって相手の幸せを願うだけなら、
最初から諦めてる分、浮ついた気分だけ味わえて楽しいじゃん」
中等部に上がったばかりだというのに達観しているというか、人生何回目なんだろうと疑いたくなる殊勝な心掛けだ。
ある意味彼の思想は愛の真理に近いんじゃないか。自分の幸せより相手の幸せを願えるところなんか。
僕はそう考えて、彼がおよそ一般的なティーンエイジらしくない考えを持っているのはその環境の所為だけでなく、
事実彼の人生は少なくとも"二回目"のはずなのだということを思い出した。
しかし、彼に尋ねたかったのは本当はそこのところではない。確かに、"そのこと"とは何のことなのか伝わりにくい質問だったと僕は内心反省する。
「ごめん…そのこと、っていうのは、君が家庭教師にクラピカを選ばなかった理由だよ」
僕の言葉にキルアは怪訝そうに顔を顰め、首を横に振った。
「いや、特には……伝える意味なくね?」
「あるよ。クラピカは僕と対等でいたいんだ。親しいはずの自分より僕を家庭教師に選んだのは、
僕のほうが彼女より優秀だと判断されたからだと誤解して、複雑な思いを抱いてるだろうから」
「そういうもんかね…」
ふう、と小さく息をついて、シャープペンシルの芯が切れたことに気が付いた彼は、補充するためにペンケースを漁りながら言った。
「でも、それをクラピカに伝えるのって余計にアイツの自尊心傷つけるんじゃね?
俺は正直そこまで察しよくねーし、察したとしてもそこまでは伝えないと思う。
アイツもアンタに唆されたんだろなって感づくよ、きっと」
彼の言葉に僕は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
確かに、彼の言う通りだというような気がした。それと同時に、僕の言い分も外れてはいないと思う。
僕は幼馴染としてずっと近くで彼女を見てきた。だから彼女のことはよく分かる。そういう自負がある。
だが、同じく彼女の友人である彼の言葉もまた正しい。僕が良かれとして行っていることが、必ずしも彼女の為になるとは限らないのだ。
もしかしたら僕は何かとんでもない間違いを犯そうとしているのかもしれない。
あるいは既に犯してしまっているのかもしれない。これから、犯すのかもしれない。
もし再び選択の時が来たのなら―――
「あー勉強かったりいなぁ」
僕の迷い始めた思考を遮る様に、隣のキルアが盛大なため息交じりの愚痴を漏らす。
億劫がるわりには、彼はかなり呑み込みが良く、正直家庭教師など必要なさそうなほど既に成績上位者に入っている。
勉強が嫌いなどとは俄かには信じ難いが、嫌いなものが不得手なものとは限らないのだろう。
「…もしかして、本当は家業を継ぎたくないと思ってたりする?」
クラピカの友人だという遠慮のなさもあり、僕は不躾とも言える質問を投げかける。
きっとゾルディック家の使用人たちや、学園内でも僕のような中流家庭の生徒はそんなことは末恐ろしくて聞けないだろう。
だが、彼は彼自身の置かれている環境に同調、あるいは同情してくれる誰かを欲しているように感じた。
案の定、彼は僕の質問に乗ってきた。
「うん。絶対許されないだろうけど、本当はさ、ゴンと一緒にサッカーの強豪校を外部受験したいんだ。
これはちょっとな、そう考えてるだけで幸せ、とはいかねーかな。
相手の幸せとかじゃなくて、俺自身の問題だから」
きっと彼は学問だけでなく、様々な気の進まぬ習い事やら観劇やら芸術鑑賞やらを強いられているのだろう。
それでもこうして、文句を垂れつつもそれを受け入れて、尚且つ大してスレもせずにこうして全てを自らの糧にしている。
彼がごく普通の少年だったら耐えられないだろう。遊びたい盛りの時期を殆ど犠牲にしている。地獄のような毎日のはずだ。
自身の叶わぬだろう夢を、笑い混じりに語ることができるのは奇跡といって良いほどの。
「…それ、お父さんには話してみた?」
「いんや。意味ねーし」
自身で無駄だと判断したことは徹底的に省略する効率主義な性格なのだろう。
僕は、前世のクラピカの記憶の中に残る、彼についての思い出を辿ってみた。
「…ものは試しで、父親に話してみたら?男同士、キルアの夢について多少は理解を示してくれるかもよ。
それにゾルディック家には他にも嫡子はいるわけだし」
キルアはきょとんとした顔で僕を見たが、
ま、気が向いたらね。
そうはにかんだような、素っ気ない声を返して再びノートに向き直った。
その横顔は心なしか心躍っているように見えた。
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それからややもしないうちに僕に転機が訪れる。
クラピカの元に家庭教師が通うようになったのだ。
家庭教師は社会人らしく、いつも夕刻にクラピカの家を訪れていた。
その男と出会った日のことを忘れない。
吹奏楽部の活動の後も、僕は一人残ってピアノの練習をしていた為、帰宅は陽が落ちたころになる事がほとんどだった。
中等部の頃はクラピカとタイミングを合わせて帰宅したものだけれど、それも今となっては懐かしいな。
などと思いながら見えてきた自宅の一件手前の家のカーポートに見知らぬ車が停まっていた。幼馴染の家のカーポートだった。
黒塗りのその車のヘッドライトが電子音とともに点滅し、鍵がかけられたことを示していた。誰かが車から降りた。
運転席から降りてきた男はダークスーツに身を包み、その髪色もスーツと似通った青みがかった漆黒だった。
暗がりでも分かるほど白い肌に、通った鼻筋、伏せた瞼の下に影を落とす睫毛は長く、
一目に端正な顔立ちをしていることがわかる。
男は視線を感じたのか、瞼を上げてこちらを一瞥した。
すると、ほんの一瞬驚いたように眉を上げた後、口許に穏やかな笑みを浮かべた。
「こんばんわ」
静かなその低い声には少し、大人の余裕のようなものを感じ、たじろいだのを僕は覚えている。
それと同時に、耳元のピアスが震えるように揺れて、僕に警告するように古い"彼女"の記憶を反芻させた。
彼が踵を返してクラピカの家のインターホンを押すのがスローモーションで見えた。
出迎えるクラピカの両親の友好的な笑みと、それを受けて中に上がり込むその男の名は聞かずとも分かる。
クロロ=ルシルフル。前世において、クルタ族を壊滅させた幻影旅団の頭だった男だ。
クラピカの記憶の中の奴への憎しみと、そして何より、前世の僕が記憶している恐怖心が、心を脳を苛み、猛烈な吐き気を催した。
ガチャン、と扉の閉まる音とともに僕はその場に蹲り嘔吐した。
「―――それがね、もう、素敵なのよぉ!ハンサムだし、物腰柔らかだし、声なんてもう聞いたら腰が砕けそうで!
おまけに仕事もできて、向こうのほうがさっさと出世して俺の上司になりそうだってうちの人が嘆いてるの!」
初めて現世でのあの男を見てから数日後のことだったか、クラピカの母と僕の母が、そう井戸端会議を繰り広げている場面に出くわした。
お隣同士だし長い付き合いだから、そういう場に出くわすことはそう珍しいわけでもないのだが、
ただあの男がするりとあの家庭の懐に入り込んだことは間違いないのだろう。
後に母から聞いたことだが、あの男は現在クラピカの父の部下にあたる男で、
娘が家庭教師を探しているが、なかなか見合うレベルの講師がいないと嘆いているのだと漏らしたところ、
良ければ僕が、と名乗り出たのが彼だったということだ。
彼は出世頭の営業マンで抱える顧客も多く、多忙な君に頼むわけにはいかないと一度は断りを入れたが、
独身だし趣味も読書程度だから時間は捻出できる、と食い下がったのだという。
一度、娘の可愛さを自慢する為に写真を見せてしまったことがあるから、もしかしたらクラピカ狙いなのではないか、
と父親は心配したらしいが、クロロを一目見た母親が奴を気に入ってしまい、是非にと依頼することとなった。
ここまでが僕が母から聞いた話。
無論僕は可能な限り徹底的にクロロについて調べ上げたが、奴の前世に繋がるような黒い噂も影もなく、至ってクリーンなエリート営業マンといった人物だった。
何か一つでもケチをつけられる人物なのならばまだ良かったが、有り体な言い方をすれば非の打ち所がない色男で、
クラピカの母親が気に入ってしまうのも無理はなかった。優秀な営業は人を、色男であれば特に女性を懐柔する事などわけもない。
不思議なのは、あれだけ前世で因縁があり、警戒心の強いクラピカでさえも、父親が連れてきた家庭教師を気に入っている様子だということだ。
あの男は危ない、などという忠告は逆効果だと感じた。大体僕は"あの日"から彼女に距離を置かれている。
どう足掻いてもあの男を彼女から引き離すことなどできない。
現世には緋の眼は存在していない。あの男にとって僕らは金銭的、美術的価値はないはずだ。
その男が今度はいったい何を奪うために僕らに近づいたのだろう。
考えても答えが出ないのならば、現世のクロロがまっとうな人間で、クラピカを傷つけることなどせず、
ただ親切心で家庭教師を買って出ただけなのだと信じるよりほかなかった。
そして僕は、ずっと彼女と対等でいる為に抑えていた僕自身の持ちうる能力を遺憾なく発揮できることとなった。
彼女と対等でいるために本当に必要だったのは、彼女に合わせて僕を抑えることではなく、
彼女に相応しい男になる為に高みを目指し努力することだとようやく気が付くことができた。
皮肉にもそれに気付かせたのがあの男、クロロ=ルシルフルだったというわけだ。
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昼休みや放課後になると学園内にピアノの音色が穏やかに揺蕩うのが常となった。
奏者の好みか、ベートーヴェンとショパンが主だったが、ドビュッシーやリスト、時折生徒のリクエストなのか、流行りのポップスが流れることもあった。
「あ、この曲好きー。『ラ・カンパネラ』だっけ?」
「正解」
「さすが、詳しい〜」
「有名な曲だろう」
「興味なきゃ覚えらんないもん」
昼休みに校舎の屋上で昼食をとっていると、食べ終わる頃に流れてくるピアノの音色。
束の間の休息の時間すらピアノの練習に充てるのも、これほど滑らかで感情に訴えかける音色を奏でられるのも、
この学園にはパイロくらいしかいない。
「クラピカはパイロ君と仲良かったもんね、そりゃ詳しくなるよね」
サンドイッチを食べ終わり、パンくずをはたいているネオンの言葉が過去形なのが引っかかった。
周囲の目にはそのように映っているのだろう。無理もない、中学のころは多少仲を冷やかされるくらいには共に行動していたのに、
高等部に上がってからはそれまでが嘘のようにお互いを学園内で見かけても石のように動かず接しない。
中には、ただの幼馴染だなんて言ってたけどやっぱり交際していて、何かしら理由があって破局したのだろう、
などと噂している生徒たちもいることを知っていたが、言いたい奴には好きに言わせておいた。
まあ、隣でパックのミルクティーを飲んでいる友人も、そんな生徒のうちの一人なのだが。
「最近パイロくんかっこよくなったよね。まだちょっとリハビリ必要みたいだけど、足を使う以外の体力テストの成績も良かったし、
中間テストも期末テストも毎回主席だし。背も一気に高くなっちゃってさ、惜しいことしたなーって思ったりしない?」
「だから私とパイロはただの幼馴染だと何回何十回何百回と説明してきた筈だが?」
「ん−、まあそういうことにしておくね」
「だから…」
「でもさ、ただの幼馴染だとしても、喧嘩か何かしたなら早く仲直りしたら?修復不可能になる前に。
高等部に上がってからあなた、ずっと寂しそうよ」
ネオンの言い分に反論しようとしたところ、かぶせ気味にそう言われ、クラピカは口を噤む。
寂しそう。それは反論のしようもなくその通りだった。殆ど生まれた時から共に育つように過ごしてきた親友が、親友と思っていた少年が。
突然、突き放してきたのだから。―――いや、突き放したのは自分か?あまりのことにうろ覚えだが、確か彼を強い力で突き飛ばしてしまった気がする。
無理もないだろう、突然あんなことをされたら―――
「でも前まではなんていうか…大人しいというか、控え目だったのに。
最近なんであんなに死に物狂い?みたいな。目に見えて努力するようになったんだろね?」
控え目。確かに。あまり先導するタイプの性格ではない。幼少期からいつも、どちらかといえば後ろから静かについてくるタイプだった。
目立つことも、好んでなかったように思う。テストで良い成績を収めたり、ピアノを褒められたりすると少し居心地悪そうに微笑む姿が印象的だった。
それが今では他者の追随を許さんばかりに、勉学に運動にピアノにと、確かに死に物狂いというのが的確な表現と言えるほど、
目覚ましいものを見せつけてくる。まるで何かが吹っ切れたかのように。足枷が外れたかのように。
足枷。事故の怪我。幼馴染―――
「…規模の大小に拘らず様々なコンクールを受けているらしい。恐らく既に目をつけている審査員たちもいるだろう。
プロのピアニストを目指しているのかもな。パイロの手は大きくて、指が長くて」
クラピカはランチボックスを包んでいたバンダナを太腿の上で畳みながら、いつか彼の不届きな指がそこに触れたことを思い出した。
ずっと優しかったパイロに乱暴な言葉を吐きかけられ、あの日の彼は怖かった。
思い出さないようにしているのに、折に触れ、彼の指の熱さが、冷たい視線がまざまざと蘇る。
それはクラピカをたまらない気持ちにさせた。
―――もっと仲良くする?彼のその言葉とは裏腹に彼は私を突き放した。
彼が突き放したのはおそらく私自身ではなく、友人としての私。
もし、あの時彼の言葉を受け入れていたら。
「……ピアニストになる為に生まれてきたようなものだから」
クラピカは一度畳んだバンダナをぎゅっと掴み、スカートのポケットに手を入れた。
あの日パイロから貰ったハンカチを、お守り代わりにずっと持ち歩いている。
彼と以前のような関係に戻れる日は来るのだろうか。
視線をバンダナに落としているクラピカの顔を、ネオンがにんまりと覗き込んだ。
「早く一人前のピアニストになって、クラピカに釣り合う男になりたいんじゃないの?彼」
そう言ってすっくと立ち上がったネオンを、クラピカは途方に暮れたような表情で見上げた。
「クラピカにあんなイケメンで優秀な家庭教師がついたから、パイロ君ってば焦ってるんだ」
スカートの埃を払いながら、そうからかうような口調で言う友人に合わせて立ち上がりながら、
馬鹿な、とクラピカは呆れて笑う。
初夏の陽光に漂うピアノの音色は、『ラ・カンパネラ』から同じくリストの『愛の夢』に変わっていた。
校庭のあるほうからは球技に興じる生徒たちの声が聞こえる。
その声の中にキルアの声も混ざっている気がした。
「…何故男はみなそうなんだろうな」
ため息交じりのクラピカの言葉に、ネオンは、何が、と問いかける。
足を止めたネオンの先を行き、屋上から校舎内に続く扉を開ける。
階段を降りながら、クラピカは言葉を続けた。
「…男はすぐに女の上に立とうとする。
…私はいつでも、対等でありたいのに」
ピアノの音色が近づいてくる。音楽室は二階の廊下を進んだ先にある。
次の授業が何だったかと考えるより先に、そこにパイロがいるということを意識してしまう。
意識して避けたいのか、彼のピアノをもっと近くで聴いていたいのか、自分でも分からなかった。
「そんなの決まってるじゃない。さっきも言ったけど、上に立ちたいんじゃなくてクラピカと釣り合う男になりたいんだって。
勉強も運動もできてスタイル良くて美人の幼馴染なんて、そりゃ多少は努力しなきゃ他の男に持ってかれちゃうって気が気じゃないでしょ」
思いのほか大きな声でそう話すネオンに内心どきりとする。
ピアノの音色に会話が遮られているのが幸いだった。音楽室はもうすぐそこだ。彼に聞かれたいような話ではなかった。
「…だから、私とパイロはただの幼馴染だとあれほど」
「ていうかさー、そんなにパイロ君のこと気になるんだったらさ、パイロ君に家庭教師してもらえばいいじゃない。
彼、学年主席なんだしさ。それでクロロさん私に紹介してよ。私も家庭教師ほしいし」
ネオンの言葉に一旦足を止め、振り返りざま彼女をじとりと睨みつける。
パイロを気にしているというのも、パイロに家庭教師を頼めというのも、
そしてクロロを家庭教師に寄こせというのも、全てが気に食わない。何がこんなに気に入らないのか、自分でも分からないが。
クラピカはついと前に向き直り、再び早足に歩き始めた。
「それは駄目だ」
「えー、なんでよ!お願い、今度パフェ奢るからぁ」
「くどい!駄目だと言ったら駄目だ」
「あっ!もしかしてクラピカ、もうクロロさんのこと好きになっちゃったとか?だから私に渡したくないんだー」
「馬鹿を言うな、そんなわけないだろう!」
「耳まで真っ赤よ、認めちゃいなよ」
「五月蠅い黙れ!!」
早足というよりはほとんど走り抜ける勢いで音楽室の前を過ぎ去っても、二人の掛け合いに似た口論は続いた。
風を切る様に横を走り去っていった女子生徒二人を、二年のビルとバビマイナが振り返る。
「一年のクラピカだ。優等生のわりに、意外なのとつるんでるんだな」
パイロは鍵盤を叩く力をごく弱くし、二人の会話に耳を欹てた。
「一緒にいたのってネオン=ノストラードだろ。父親がヤクザもんの」
「ヤクザってわけじゃなくてヤバい商売してるんじゃなかったっけか」
「どっちも同じだ俺からすりゃ」
ポケットに手を突っ込み、前に向き直るビル。
彼らはごく一般家庭の出自だが、スポーツ特待で入学した生徒だった。
スポーツ特待で入学すれば特定の部活での成績だけでなく、学業も疎かにはできない。
彼らからすればネオンのような生徒は、金にもの言わせて入学し、多少成績を落としても親が金で何とかしてくれる、
という印象があるのかもしれなかった。
「クラピカいいよなぁ。ああいう気が強い美人はそそるもんがあるわ」
走り去っていった後ろ姿を思い返すように天井を仰ぎ見ながら言うビルに、
バビマイナが、おまえああいうのタイプか、と言って笑う。
「俺、あいつが大学生くらいのイケメンと歩いてるの見たことあるぞ。ご愁傷様」
「ああ、多分家庭教師の男だろ?たまに迎えに来てるよな。大学生じゃなくて社会人のはずだぞ」
「マジか、犯罪じゃないか」
「いやいや、だから彼氏とかじゃなくて家庭教師だろ!
でも、お堅い優等生が家庭教師の男とデキてたら、ちょっとエロいよな」
「確かに、それはエロいな」
下世話な会話と妄想にゲラゲラと笑いながら二年の二人も通り過ぎたころに、『愛の夢』は終わった。
言いたい奴らには言わせておけばいい。
僕は君らとは違う。彼女と前世からの深い深い繋がりがある。
共に生きることができなかった僕らがこうして再び生を受け、前世と同じように巡り合った。
僕が前世において彼女のどれだけ大部分を占めていたか。それが僕の生きる糧となっている。
クラピカ、僕は前世からずっと君を愛している。
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ネオンにクロロへの恋心を指摘され、ムキになって否定した日の事を懐かしく思い出す。
あのまま、パイロとずっと仲良くしていたら。
そして、この男が家庭教師を名乗り出なかったら。
今こうして隣で共にドレスを選んでいるのは、パイロだったのかもしれない。そんなことを思う。
憧れに似た想いが強く、それを恋と呼ぶのは憚られた。
家庭教師の男は大人で、余裕があって、彼と接していると、自分などまだ年端もいかぬ子どもなのだと思い知らされた。
だから、あの日のプロポーズはまさに青天の霹靂だった。
まさか彼が三年間も自分自身を抑えていたなどとは、露ほどにも思っていなかった。
平静を装いながら、浮かれてキスを浴びせてくる彼と同じくらいには浮かれていた。彼が私のものになる。なのに。
「俺はマーメイド一択だと思うんだけど、どう?」
クロロがそう尋ねて振り返ると、ブティックの華やかなドレスに囲まれたクラピカは、
心ここにあらずといった体で空をみつめていた。
クロロは目を瞬かせ、息をついて、クラピカの鼻先を霞めるくらい近くにドレスを突き付けた。
驚きようやく我に返ったクラピカの前からドレスをどけると、クロロは今度は自身の顔を近づける。
「俺はこのドレスが良いと思うんだけど。そんなぼうっとしてるならこっちで勝手に決めるぞ」
式の主役は新婦なんだからさ。そう付け加え、左腕に選んだドレスを掛け、
カラードレスはどれがいいかと、新婦よりも熱心にラックに並ぶドレスを見定めるクロロに、クラピカは苦笑した。
「そんな華やかなドレス、私に似合うかどうか…」
「お前は背が高いからマーメイドのほうが似合うと思うんだ。でもカラードレスはまた違った雰囲気のも意外性があっていいかもな」
クラピカの言葉など耳に届いていないかのようにそう言うクロロはどこかはしゃいでいるようにも見えて、
そんな彼を愛おしいと思う。
恋焦がれていた彼がもうすぐ私のものになる。こんなに心躍ることはない。
なのにどうしても、壁にかかった時計の針ばかりが気になってしまうのは、ピアノコンクールのブロック予選結果発表があるからだ。
店内に流れるオルゴール音楽は奇しくも、彼が予選で弾いたショパンの『幻想即興曲』だった。
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校舎の屋上を利用するのはいつもネオンと昼食をとる時だったので、
こうして放課後に一人で来るのは初めてかもしれない。
ショパンの『別れの曲』のピアノの音色に混ざって、運動部に所属している生徒たちの声が聞こえる。
普通の高校なら三年は受験シーズンの為部活は免除だが、エスカレーター式のこの学園では、
外部受験者や、どうしても進みたい学部がある生徒以外は、気楽なものである。
子どもの頃は、世界的なピアニストになったパイロと一緒に世界中まわりたい、などと思っていた。
その為に外国語も学んだ。幸い言語学は得意だった。
身体を動かすことも好きだったので陸上部に入部した。成績も上々だった。
結婚したら、おそらく大学進学はなくなる―――のだと思う。
クロロは現在の仕事を退職し、ベンチャー企業を立ち上げる準備中だ。そのサポートをしてほしいから家庭に入ってほしいという。
あの男のことだから、強く望めば大学進学も止めはしないのだろうと思う。
だが、自分自身のためにやりたいことというのが、こうして向き合ってみると思うほど何もないことに気が付いた。
言語学は楽しいし、走ることも好きだった。
走るだけなら進学しなくても続ける手段はある。だが、言語学はほとんど、パイロとの将来を思い描いて学んでいたことだったのだと思い出した。
となると、駄々をこねてまで進学したい理由がなくなってしまう。
などと考えをぐるぐると巡らせていると。
「おまたせ〜」
クラピカを呼び出した人物であるキルアが、ようやく屋上入り口のドアを開けてやって来た。
いたずらっぽい笑みを湛えた表情には幼いころの面影があるが、声は変声期を迎え少し落ち着いていた。
手すりに凭れて外を眺めていたクラピカと少し間をとって、キルアもそこに凭れた。
「待った?」
「かなりな。呼び出したほうが十二分も待たせるとは、一体どういう料簡なのだ?」
「いや、そこは嘘でも、大丈夫今来たところよ。とか言ってくんない?
そんで十二分って。相変わらず細かいなオイ」
「何故待たされた側である私が待たせたお前に配慮した返答をしなければならないのだ?
そこのところを私が納得がいくように説明できるというのであれば今からでも訂正してやらんでもないが」
「だーっ!もういいって!冗談だろ、ジョーダン!ほんっとに可愛くないなオメーはよ!
高等部の校舎来るの久々だから迷っちゃったんだよ、悪かったって!」
キルアは盛大なため息をつき、前に向き直って手すりに組んだ腕を乗せた。
「…なんか、初めて会った試験会場でもこんな感じだった気がするわ」
「前置きは良いから早く本題に入れ。話があったから呼び出したのだろう?」
「はーっ、もう。はぁーっ。色々言ってやりたいことあるけど、良いですよ。本題に入りますって!」
試合開始のホイッスルが鳴り響く。
キルアは組んだ腕に顎を乗せ、口を開いた。
「……俺、高校外部受験することにしたんだ。サッカーの名門校」
キルアの静かな声に、クラピカは眉を上げ、外部受験、と復唱した。
少し風が出てきた。雨を予感させる湿った空気が二人の髪を揺らした。
「良く…ご両親が許したな」
「おふくろはカンカンだけどな。パイロの助言通り、勇気出して親父に話してみたら案外あっさりオッケーもらえてさ。
結果残せないようならすぐ連れ戻すとは言われたけどね。うちは親父が絶対的存在だからおふくろもしぶしぶ了承してさ。
ま、俺出来る子だし?絶対に合格するつもりだけど、仮に落ちたとしても、ゴンと一緒にサッカーの道に進むつもりだから」
だから、多分。ここには戻ってこない。
誰かがシュートを決めたのか、喜びの叫び声と、コーチの指示の声が続いた。
「……そう……か」
パイロが、彼に助言を。
皆、自分の夢や、誰か共に道を歩むために、進んでいく。
私の夢は、クロロと一緒になることで、クロロと共に道を歩んでいくために。
なのに、何かが腑に落ちない。何故か、何かに縛られているような気がした。
クロロが私を縛り付けようとしている?馬鹿な。
キルアが、わざわざ呼び出してまで伝えてくれた彼の夢に、思いのほか気の利いた労いの言葉も出てこなかった。
そんなクラピカの心中を察してか否か、キルアが口を開く。
「…おあつらえ向きだな。ショパンの『別れの曲』、か」
クラシックなどには興味がなさそうな彼が意外と精通しているのは、おそらく厳しい芸術教育のためだろう。
パイロが奏でるピアノの音色は昼休みと放課後の学園名物となっていたが、
もうじき卒業の時を控え、それともお別れになってしまうと教師陣も嘆いている。
「いい加減、この学園はパイロに報酬払ったほうがいいだろ。卒業式にパイロに別れの曲演奏してもらおうってさ、
良いように使いすぎだろ、未来の世界的ピアニスト様だぞって」
ピアノコンクールのブロック予選結果は、パイロは勿論通過だった。
となると、今度は全国大会が控えている。
クラピカは溜息をついた。
「…そうなんだ。パイロは全国大会の課題曲に集中すべき時なのに、あれこれと学園に頼まれて…
なまじ彼がこなしてしまうから、学園長も教師たちもおいそれと依頼するのであろうが、
彼だって人間なのだから限度というものが」
「そんなに心配ならさ、直接本人に言ってやれよ」
キルアは声を張り上げて、クラピカの言葉にかぶせ気味にそう言った。
屋上から臨める校庭に向かって、つい癖で、口許に手を寄せて、ナイスパス、と試合中の少年たちにエールを送る。
そんなキルアの横顔を曖昧な表情でクラピカは見つめる。
「…パイロは……私がわざわざ気にかけてやらなくても、キルアをはじめ心配してくれる友人が沢山」
「言ってやれよ。……多分あいつ相当まいってるよ」
第三楽章が思うように弾けないとかなんとか。
煮え切らないような彼女の様子に、キルアはそう言葉を繋げた。
気付いていた。パイロが追い詰められていることに。
彼のピアノの音色は彼の心を如実に映し出す。
彼に近しい者でなければ気付かぬ程度に音に乱れと焦燥が表れる。
『別れの曲』に表現されるべき、美しい思い出を回顧するような音色より、ただ祖国を懐かしむ痛切な寂しさばかりが滲む。
でも、今更。私が彼にしてやれることなんて、かけてやれる言葉なんて。
黙り込んでしまったクラピカに、キルアは大人びた笑いを見せ、手が焼けるな、と彼女に聞こえない程度の独り言を漏らした。
「…男って単純だからさ。可愛い女子に、頑張って!なんて言われた日には、
多少しんどくたってさ、よっしゃーやったろ!って頑張れるもんなんだよ」
キルアの言葉に、クラピカは丸い目をぱちくりさせ、彼の横顔を凝視した。
可愛い?と、自分自身を指さしながら。
てっきり、ものの例えな、とか、オメーみたいな男女でも一応女だし、とか、言葉の綾だから、などと、
一言も二言も余計な言葉を付け加えられるかと思っていたが、キルアはじっと校庭を見つめたまま、
「お前、可愛いよ」
と繰り返した。
クラピカは予想外の彼の態度に却って居心地が悪くなり、きょろきょろと視線を泳がせた。
「いや……お前、ついさっき私の事を、ほんっとに可愛くねーなオメーはよ!と言っていなかったか?」
「ああ、それは。言葉の綾だから」
「え、あっちが、言葉の綾…?」
クラピカはいよいよどうしたら良いかわからなくなり、ううん、と唸った。
キルアはなにか変なものでも食べたのだろうか。保健室につれていくべきか?
訝しみ、そう考えを巡らせているクラピカをキルアはじっと見つめた。
視線に気づいたクラピカが、考え込んで俯いていた顔を上げると、いやに神妙な面持ちの彼と視線がぶつかった。
彼は困ったような、というか、困らせてしまったことに困ってしまったような、そんな笑みを漏らした後、
「ホントに可愛いって思ってるって。だからさ、キルア転校しても頑張ってって言ってよ。
そしたら俺、向こうでも頑張れるから」
尚も困惑した表情で立ち尽くしているクラピカに、キルアは駄目押しのような、少し甘えた声色で、
「ほら、パイロに言う練習だと思って。言ってみ。頑張ってって」
言って?
―――可愛い女子、って。私などより、ネオンに言ってもらったほうが良いのではないか?
そんなことを考えるが、今、彼の目の前にいるのは私だし。
可愛い女子でなくても、顔を突き合せれば嫌味煽り文句ばかりのお互いだけれど、弟のように大切な、友人だから。
「……頑張れよ、キルア。お前ならやれる。離れてもずっと、応援しているから」
また誰かがゴールを決めたようだった。歓声が上がると同時に、先ほどゴールを決めた少年の落胆したような声が聞こえ、
ゴールを決めたのは相手チームの誰かなのだな、と分かる。
出会ったころはまだ年端もいかぬ子どもだと思っていたが、もう自分自身で将来を決められるほどに彼は成長していた。
彼は自身の出自という背景がなくとも実力で道を切り開ける才能がある。
きっと、離れても上手くやれるはずだ。時折危うさを見せるものの、ゴンとはお互いを補い合える良いコンビだ。
二人で支え合い切磋琢磨しながら、きっと。
「………サンキュ。これで頑張れる」
ただ感謝の意を述べた彼の言葉が、何故か別れの言葉に聞こえた。
背景を流れる『別れの曲』がそう思わせるのか、それとも、彼の、どこか吹っ切れたような、
なにかに区切りがついたかのようなすっきりとした笑顔が、どこか寂しげに見えたからそう感じさせるのか。
強さを伴い始めた風に目を細め、クラピカに向けていた視線を外し泳がせながら、
じゃあ俺もう行くわ、とキルアは言った。
「伝えときたいことちゃんと伝えられたし……オメーもアレだ、ちゃんとパイロにエール送ってやれよ、忘れずにさ」
そう言って踵を返しかけたキルアを、クラピカが慌てて呼び止めた。
足を止め、振り返るキルア。
「キルアには、直接伝えておくべきだな……急なことで驚かせてしまうと思うのだが、実は…」
「………え……」
キルアの銀糸の髪が風に煽られると、暗雲が立ち込め、雷鳴が轟いた。
パイロの奏でる曲が『別れの曲』から『革命』に切り替わったその時、雨粒が零れ始めた。
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三年近く続けてきたキルアの家庭教師も春が全盛を迎えるころにはおしまいだ。
まだ少し時間はあるけれど、別れの時などきっと瞬く間に訪れてしまうから、一回一回を大切にこなしたい。
ブロック予選も無事通過したことだし、全国大会に向けた練習も怠れない。何しろクラピカが聴きに来てくれるのだから。
それまでには僕の『月光ソナタ』を完成させたい。
だが、僕が初めてベートーヴェンの『月光ソナタ』、特に第三楽章を聴いた時に受けた衝撃に今一つ辿り着かない。
一体何が足りないのだろう。
それから卒業式に向けてショパンの『別れの時も』…これは何とかなるとして、それから学年末のテスト…
考えなければならないことは山ほどあったが、とにかく今は『月光』の第三楽章だ。
今日も家庭教師のアルバイトが終わったら練習だな、などと考えているうちにキルアの自宅前に辿り着いた。
何度見ても圧倒される門扉の高さは、そこまでする必要があるのかというほど重厚だ。
インターホンを押すと使用人のツボネさんの声で、今開けますからね、と返事があり、扉のロックの開く音がした。
門扉をくぐった後の豪邸までの道がまたそこそこ長い。
そしてその豪邸に辿り着くとまた玄関の鍵を開けてもらうためにインターホンを押す必要がある。
左上に監視カメラがあり、それが赤く光って僕を認識するのが分かった。
間も無く玄関の扉が開かれ、体格の良い年輩の女性が姿を現した。
何を考えているのかよく分からない使用人の女性だが、悪い人ではないことは分かる。
人の好さそうなというよりは、やはり底が見えないような笑顔を見せて、お待ちしておりました、と仰々しく頭を下げられる。
僕も軽く頭を下げる。傘を閉じながら、何かおかしいな、と思った。
「キルア坊ちゃんはちょっと昨日からふさぎ込んでいましてね、何か事情をご存じだったりしますか?」
キルアの部屋へ案内される道中、そうツボネさんに尋ねられた。
そもそも、キルアの部屋はいい加減覚えてしまっているのでこの案内は不要だ。
彼女がそれでもわざわざこうして案内についてくるのは防犯の意味もあるのだろう。
この豪邸の中には美術的価値のあるものや、僕が一生働いても手が届かないような骨董品も数多く飾られている。
この家の人間の命を狙われることも常に視野に入れているだろう。
未だに警戒されるのは信頼されていないとも取れるかもしれないが、使用人からすれば仕事を全うしているだけで、彼らに罪はない。
それでも、そういったことを嫌うキルアは、なるべく自分自身で玄関まで出迎えに来る。
それが、今日はなかった。
僕は首を横に振った。つい先日、父親に外部受験を承諾してもらえたと嬉しそうに語っていた。
塞ぎ込むとしたらその話が白紙になった、ということかとも考えたが、
だったらこの家の使用人である彼女であれば既に把握しているはずだろう。
おそらく思案顔になっていたであろう僕に、ツボネさんは安心させるように、にこりと微笑んだ。
「……そうですか。ご友人でもある貴方にならお話できることもあるかもしれませんから。
今日はお勉強はほどほどに、でよろしいですから。お慰めになってあげてくださいな」
そう言って踵を返し去っていくツボネさんは、おそらくキルアのことを息子(孫?)のように可愛がっているのだろう。
というのが、今の彼女の言葉から伝わってきた。
僕はキルアの部屋のドアをノックした。何も返ってこない。
返事が返って来るまで根気強くノックしてみようかとも思ったが、ツボネさんの話を聞いた手前、
返事をする気力もないほど気落ちしているのであれば、それも酷かと思った。
「…入るよ」
そっと扉を開けると、空間を持て余しているだだっぴろい部屋の端に、
以前、お姫様みたいだねとからかって怒らせた豪奢なキングサイズのベッドがある。
そのベッドの真ん中が不自然に沈んでいるのを見て、彼がそこに寝そべっているのだと気が付いた。
何しろふかふかの羽毛の掛け布団なので、人一人くらいは寝そべれば埋もれて隠れてしまう。
近づいてみるとそこにはやはり、入り口に背を向けて寝そべっているキルアがいた。
「……一体どうしたの」
呆れたような声でそう尋ねた僕に、キルアは掠れた声で一言、しんど、とだけ返した。
「…何かあったの?外部受験のこと?」
彼がサイドボードがわりにしているベッドサイドの小さな椅子に腰をかけながらそう言うと、キルアは頭を小さく横に振った。
思いのほか、重症のようだ。
「…今日は勉強は良いってツボネさんも言ってたからさ、僕で良ければ話聞くよ」
「…お前、良くそんないつも通りに振舞えるな。俺でさえさすがに昨日の今日でショックデカすぎて何もやる気出ねえってのに」
何のことかさっぱり要領を得ない。僕は正直に、何のこと、と彼に尋ねた。
彼はようやく顔をこちらに向けた。
随分長いことそうしていたのか、頬にシーツの皺の痕がついている。
目の粘膜が赤く染まっていて、少し泣いた後のようだった。
上体を起こして、じっと僕を見据える彼は何か僕の表情から読み取ろうとして、
諦めたように、はぁ、と溜息をついた。
「…本当に、ただの幼馴染だったんだ」
「だから、何の事?」
「クラピカのことだよ。まさかまだ知らないわけじゃないだろ?」
突然彼の口から発せられたクラピカの名に、僕は少なからず動揺した。
何も言えずにいる僕を見て、キルアはばつが悪そうに俯き、舌打ちした。マズッたな、と小声で言う。
「…その反応だと、聞いてないんだな」
「だから、何のこと?クラピカがどうかした?」
「いや、何でもない。聞かなかったことにして。まだ知らないなら本人から直接聞くべきだと思うし」
「いや、ここまで言われて聞かなかったことにして、ってのはちょっと僕としてもかなりキツいんだけど。
クラピカに何があった?僕に言えないようなことなの?どうして本人から直接聞くべきなんだ?」
今日、校内で見かけたクラピカはいつも通りに見えた。
自宅を出るときにも、母親からも、お隣からも、何も話はなかった。
事故や病気でないとしたら、彼女に一体何があったのか。
キルアは畳みかけるようにそう言いながら前のめりになる僕に臆することもなく、じっと僕の目を見つめ返してきた。
僕の瞳の中に何かを見出そうとしているような視線だった。
暫くそうした後、キルアはようやく、静かに口を開いた。
「……パイロさ、本当に、クラピカとはただの幼馴染?」
僕はすぐに言葉を返すことができなかった。視線も泳いでいたと思う。
ややあってから僕は、そうだよ、と返した。
キルアは何度か眩しそうに瞬いたのち、はっと鼻から抜けるような声を漏らして笑い、視線を逸らした。
「ほんっと、嘘が下手だよな。案外手が焼けるところも、クラピカと一緒だわ、ほんと」
まあ、俺から先に伝えておいたほうが、本人から聞いた時動揺しなくて済むかもな。
キルアは自分自身を納得させるかのようにそう呟き、視線をシーツに落としたまま、
「…卒業したら結婚するんだってさ、あの家庭教師の男と」
何故か、心よりも指先に衝撃が走る思いだった。
脳裏に月光ソナタの第三楽章が流れた。
「恵まれない家庭の出自だけど、勉強して奨学金で進学して大手企業に入社して、
営業成績トップの出世頭にまで昇りつめたけどそれを蹴って退社して、今はベンチャー企業立ち上げてるところなんだってさ。
なんつーか……ほとんど親の七光りでやってきた俺とは男としての出来が違いすぎるってのもキッツイし、
すげー男だってのは分かってんだけど…なんでかさ、俺あの男の事好きになれねーんだ」
好きなれないのはきっと妬ましく思っているからで、そんな自分が嫌になる。
キルアはそう言うが、彼があの男を好きになれないのは無理もない。過去に因縁があるのだから。
僕は、クロロがクラピカの家庭教師となってからの二年半を思い返した。
努力して、僕が男として成長して見せれば、クロロを超えることができたなら、彼女を迎えに行けると思っていた。
それがそもそも間違いなのだ。
人魚姫が助けた王子はあっさり隣国の姫を選び、人魚姫は海の泡となって消えた。
白鳥の湖のオデット姫は、オディールに王子を奪われ呪いが解けず、湖に身を投げた。
僕は御伽噺のお姫様か?眠れる森の美女に出てくる王子のように、自ら戦いに身を投じなければ王子にはなれない。
だが僕は海の泡になるわけにも、湖に身を投げるわけにもいかない。
「……ごめん、僕、ちょっと」
席を立つ僕に、キルアははっとして顔を上げた。
「ごめん…俺、やっぱり余計なことを」
「いや、キルアの所為じゃない。ごめん、でも今なら、」
弾けそうな気がするんだ。
そう言った僕は一体どんな顔をしていたのだろう。
ほとんど走り去る様に屋敷を抜け出し、僕は学園の音楽室へ向かった。
昨日から続く悪天候で立ち込めた雲に覆われた空は黒く、アスファルトを少しずつ雨で湿らせてゆく。
校舎はすっかり人気がなくなり、遠くの職員室に明かりが灯った。
教師たちが帰宅するまで昇降口のドアは開いていたし、音楽室にはそもそも鍵がかかっていなかった。
傘をゾルディック家に忘れてきた僕の身体は冷えていたが、ただピアノへの熱情が僕を突き動かした。
今なら弾ける。
身分違いの恋に破れたベートーヴェンが、伯爵令嬢ジュリエッタにこの曲を捧げた時、一体どのような心持ちだったのだろう。
彼女と同じ爵位を持つ作曲家と結婚した彼女を、一体どう思っていたのか。
難聴の兆しに苛まれながらも、彼女との愛が心の拠り所になっていた、それを奪われた悲しみは―――
悲しみ。
だがこれは怒りにも似ている。
彼女の卒業を見計らって婚約するなど、あの男の焦りが手に取る様に伝わってくる。
そして、クラピカ。君ほどの子があの男の目論見に気が付かずにそれを受けるなど。
成程、あの男の目的は現存しない緋の眼などではなく、やはり彼女自身だったのだ。
僕はどうする?
君は本当にあの男のものになるのか?
ようやく僕の『月光ソナタ』第三楽章が完成した。
今なら自信をもって、弾けると言える。
僕を苦しませる君は悪魔か、それとも勝利の女神なのか。
to be continued.
20230520.
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