あれはいつの日だっただろうか、美しい木漏れ日が窓から差し込む良い日だった。
その光に揺れる金糸の髪、微睡を堪えるように震える薄い瞼、その細く長い睫毛に度々隠れる大きな琥珀色の瞳。

幼い少女を美しいと湛えるのが時期尚早であるというのであれば、妖精のようだとでも言うべきか。


「ねえパイロ、運命のいたずらってどういう意味?」


そんな妖精からの唐突な問いかけにまごついて、僕はピアノを弾く指を止めた。
僕はまだベートーヴェンの月光の第一楽章の譜面に苦戦していた。
弾き手に委ねられるその譜面は、却って幼かった僕を悩ませるだけだった。
当時の僕に買い与えられたのは比較的安価なアップライトピアノで、グランドピアノのような壮大な音色は奏でられないものの、
それでもその鍵盤の音色に心地よさそうに耳を傾けながら、彼女はまさにいたずらっぽく微笑みかけてくる。


「…運命のいたずら、かあ。そうだなあ」


当時まだ十二歳かそこらだったというように記憶している。そんな彼女にそんな言葉を教えた大人は一体誰で、
一体どんな話の流れでその言葉を使用したのかが気になったが、僕は知りうる限りの語彙をかき集めて、
彼女を納得させられる即興の物語を完成させる。


「…例えば、だけど。例えば、ね。僕とクラピカが今、恋人同士だったとする」


微睡かけていたクラピカが、俄然興味がわいたというように顔を上げ、僕に真っ直ぐ視線を投げかけてきた。
両の眼は大人びた質問に反してただ純粋な好奇心に輝いている。
彼女は知っているのだろうか、その輝きが、僕を射抜くその瞳が、どれだけ僕を捉えてやまないのかを。

一度彼女の視線に怯んだ心を取り戻して、僕は続けた。


「…でも、親の事情で僕は転校することになり、離れ離れになってしまう」

「うん」

「クラピカは僕のことを忘れ、中学に進学し、やがて他の男性と出会い恋に落ちる」

「うん、うん」

「けど、クラピカが受験した高校を僕も受験し合格していた。進学した先で再会する君と僕。
 再び燃え上がる恋心。だがクラピカには既に恋人がいる。
 神は何を思って僕とクラピカを再会させたのか、障害があるにも関わらず!
 …神の気まぐれないたずらに翻弄される二人の運命…これが運命のいたずらかな」

「なんだよ、それ!」


クラピカは腹を抱えてゲラゲラと笑い転げた。
我ながら酷い即興劇だと思ったが、彼女が笑ってくれるのなら何より。


「まあでも、オレたちには起こり得ないよなぁ、小中高大エスカレーター式だもん、離れられるわけがないよ」


目尻に滲んだ涙を拭いながら、クラピカは言った。
なんとなく、僕たちが別れることは絶対にない、と言い切られたようで、どきりとしたのを憶えている。
当時は恋も良く知らぬ年端もいかぬ子どもだったけれど、今思えば僕はあの頃から、いや、それよりもっとずっと前から彼女に惹かれていたのだ。


「クラピカ、またオレなんて言って……お母さんに怒られるよ」


そのときめきを誤魔化す様に、僕はクラピカを窘めた。
案の定、クラピカは頬を膨らませた。


「母さんはオレのしたいようにさせてくれるんだよ!ジェンダーレスの時代だからってさ。
 うるさいのは父さん!女の子なんだからオレなんて言っちゃダメだ、お嫁に行けなくなるぞ、ってさあ」

「はは、クラピカのお父さんだって、クラピカがお嫁にいっちゃ寂しいだろうにね。
 娘を持つ父親ってそういうものなのかな、僕もどっちかっていうと母さんのほうがその辺は厳しいし」


そう言って僕は月光の第一楽章の演奏に戻った。
クラピカも再び瞼を閉じて、その音色に聴き入ってくれる。


「……僕も本当はピアノじゃなくて、ハープを習いたかったんだ」


演奏の手を止めずに口を開くと、クラピカも瞼を開けてこちらを見る気配がした。


「でも、ハープなんて時代錯誤だし、何より男が弾くような楽器じゃないってさ…
 代わりにピアノを習わせてもらえるようになって、今はピアノが楽しいからこれで良かったんだけど」

「男がハープ弾けたってかっこいいじゃん!大人ってほんとウルサイよなー。
 でもオレ、パイロのピアノ好きだよ」


そう言ってクラピカは、この第一楽章のもの悲しいメロディには不似合いな笑顔を見せる。
だけど僕は思うように弾けない。既に第三楽章まで暗譜しているけれど、一度も納得のいく演奏をできた試しがない。何かが決定的に足りない。
彼女の笑顔をずっと傍で見続けるためにも、僕は立派なピアニストになりたかった。僕が彼女を守りたい。

けれど、彼女は僕と対等でいたがった。
僕が彼女よりテストで良い点数を取った時、作文で褒められた時、体力テストの結果が良かった時、
すげーじゃん、と言葉では褒めながらどこか寂しそうにその顔が翳ることに気が付いていた。
僕は彼女と対等に、あるいは彼女より少し劣っているふりをしなければならなかった。



だけど、それが一体なんだというのだろう。
僕がそういった演技をし続けさえすれば彼女の隣にいられる。こんな幸せなことはない。
対等でいることも劣っているふりも、僕にとってはそんな些細なことは何も苦痛なことではなかった。


何故なら、クラピカ、君は僕の全てなのだから。



だから、数年前の事故は僕にとっては幸運だったと言えた。

交通事故に遭いかけた彼女を庇って僕は足を負傷した。
日常生活にそこまで不便は感じないが、走ったり咄嗟の行動は難しくなった。
クラピカには悪いが、僕にっとっては丁度良いハンデが課せられたようなものだった。
彼女には事故当時の記憶がないのも幸いだった。
もし記憶があったら彼女は罪悪感に圧し潰されてしまうだろう。
僕は一人でこっそり彼女のヒーローになったつもりで悦に入っている。それだけのことだ。


再び微睡かけた声で、クラピカが囁くように言った。


「…この曲、なんていうんだっけ?」

「…『月光』っていうピアノソナタの第一楽章。ベートーヴェンは知ってる?」

「それくらい知ってるよ、『運命』のベートーヴェンだろ?ダダダダーン!ってやつ」

「そう、ダダダダーンってやつ」



得意げに人差し指を立てて言うクラピカに、僕は笑ってそう彼女の表現を繰り返した。
運命はあくまで通称であり、正式名称は交響曲第五番ハ短調作品六十七だ。
そして月光の正式名称は、ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調作品二十七の二、『幻想曲風ソナタ』。
なんとも情緒のない題名に運命という通称がついたのは必然というべきか。月光も然り。


僕らの運命は、神のいたずらによって酷くかき乱されることになる。
否、神など初めからいなかった。人の運命をいたずらに弄ぶような悪趣味なやつはただの悪魔でしかない。


僕の月光は全楽章荒れて乱され翻弄されて高みに昇りつめ完成する。



そして、月光の中に蹲る美しい彼女を見て、神はずっと僕の傍にいたのだと改めて思い知らされるのだ。

クラピカ、僕の運命の女神。









運命

― 月光ソナタ 全楽章 ―






― 第二楽章 ―









高等部最後の秋の終わり。
あの日と同じあたたかな日差しの差し込む音楽室で、刹那的な『月光』の第二楽章を弾き終えた。
自宅のピアノは未だ幼少期からのアップライトピアノのままで使い慣れてはいるものの、
やはり学園の音楽室にしつらえられたベーゼンドルファーの音は格別なものだし、
コンクールや発表会を控えている時は、会場のグランドピアノに圧倒されぬよう、ここで練習を重ねるのが僕の常となっていた。

僕の指は難易度が高いとされる第三楽章を弾きこなせるまでに成長していたが、
ある程度納得のいく演奏をこなせるのはこの第二楽章までだった。

ピアノコンクールのブロック予選の結果通知を控えた僕は焦慮に駆られていた。
予選通過は確実だとされ、早期に全国大会の課題曲を絞り、練習時間を充てていた。
それなりに選択の余地がある課題曲の中から月光を選んだのは他ならない僕自身だというのに、ここに来て未だ僕の月光が完成されない。

僕の通うエスカレーター式のこの学園では、大学進学後の学部選択の自由は成績上位者にのみ権利が与えられる。
ピアノコンクールの全国大会で良い成績を収めれば僕の将来の選択肢が増えるはずだった。
音楽教師のセンリツ先生は、それだけ弾けていればコンクールでも素晴らしい結果を収められるはずだと太鼓判を押してくれたが、
それでも察しの良い先生は僕のピアノに込められた憂慮までを掬い上げる。


「今日も第三楽章を聴かせてくれないのね」


いつの間にか教室の入り口に立っていたセンリツ先生に声をかけられ、僕は天井を仰いでいた目をそちらに向ける。
先生が困ったように笑うから、僕もなんだかばつが悪くなって自嘲気味に笑う。


「…あんまり良い日だから。似つかわしくないでしょう?」

「そうねぇ、『月光』の第三楽章はまさにベートーヴェンの苦悩と葛藤が爆発しているものね。
 穏やかな第二楽章は今日のような日には心地よいけれど、全国大会を控えているのだからそう悠長なこと言っていられないわよ」

「まだわからないですよ、ブロック予選の結果も出ていないのに」

「まだそんなことを言っているの?」


先生は呆れたように笑って、グランドピアノの隣を通り過ぎ、僕の後ろの窓から外を眺めた。


「…あれだけ素晴らしいショパンの『幻想即興曲』を披露したのだから、通過は確実よ。私が保証するわ。
 それに、月光ソナタの譜面はまさに奏者に委ねられている。表現の仕方に正解なんてないのだから、そんなに苦悩することはないのに」


先生はそう言ってくれるが、僕は心のどこかで通過しなければいいのに、と願っていることを否定できなかった。
なら何故ピアノの道を選択したのかと言われたら、クラピカがなんの虚飾もなく讃えてくれる僕の功績がピアノだったからだ。
彼女は勉強でも運動でも、何かが僕のほうが秀でていると、あの陽だまりの様な頬に影を落とす。
そして今でもピアノを続けているのは、僕の言葉にできない逡巡を体現できるのがピアノだからだ。
なのに今、思うように弾けず鍵盤を叩く指に躊躇いが乗る。とても人様に、クラピカに聴かせられるような旋律を奏でられない。

太陽が出ていても十一月の空気の冷たさは日に日に肌を刺すようになり、僕はブレザーの下のセーターの袖を掴もうとして、
昨年よりも伸びた背には小さくなったそれはもう袖をつかむことができなくなっていたことを思い出した。
こんなに背が伸びると分かっていたらもう一回り大きいサイズを買っていたのに、と思う。
子どもの頃は僕より大きかったクラピカを見下ろせるくらいに成長したのに、ここのところずっと、彼女を隣に見下ろせるほど近くにいない。


「あ、あらあの子、何か落としたわ」


窓の外を眺めていた先生が、何やら慌てたような声を上げたので、僕もつられて振り返り、立ち上がって窓の外を見た。

そこには、級友と談笑しながら校門への道をゆっくり歩いているクラピカの姿があった。
そして、彼女が落としたものは、淡いサックスブルーのハンカチだ。

殆ど反射的に教室を飛び出した。先生が何か言っているのが背後から聞こえた気がしたが、
とにかく彼女が落としたあれを渡すのは僕でありたかった。

僕は靴に履き替えるのも忘れて昇降口を飛び出し、ハンカチを拾って声を上げた。


「クラピカ!」


名前を呼ばれて彼女と、隣の級友も驚いたように目を丸くして振り返る。
級友は何かを察したように一歩引いた。クラピカは目の前に立った僕を見上げて、曖昧に微笑んだ。


「パイロ…なんだか、久しぶりだな」


そう、僕たちは幼馴染で、家もすぐ隣で、中学まではそれこそほとんど毎日のようにお互いの家を行き来する仲だった。
とある出来事をきっかけに、それからはすっかり距離ができてしまっていたけれど。


「…これを落としたのが、音楽室から見えたから」


僕も微笑むよう努めながら、拾ったハンカチを彼女の目の前に差し出す。
それを認めて彼女は、ああ、と少しはにかむような顔を見せて、ハンカチを受け取った。
彼女は相も変わらず、紺色のブレザーにベージュ地に赤と黒のラインが入ったチェックのスカートを、
ごく模範的にきっちりと、着崩したりせずに纏っていて。
それが彼女は昔と変わらないことの証明に思えて、なんだかいやに嬉しく感じた。


「ありがとう…」

「それ、まだ使ってくれてるんだ」


このハンカチは中学から高校への進学祝いに―――エスカレーター式だから祝うほどのことではないかもしれないが、気持ちとして―――
彼女にプレゼントしたものだった。
これをプレゼントした日から、ぎこちない距離ができてしまったのだけれど。


「…気に入ってるから」


そう言って、彼女は笑ってくれた。
彼女の笑顔は、笑顔だけじゃない、怒った顔も、悲しむ顔も、少し怯えた表情ですら、
ずっと、ずっと昔から僕を捉えてやまなかったのに。

もっと早くこの気持ちに気が付いていたなら。


「…音楽室って、またピアノの練習か?」


少し、何か話題を探すように視線を泳がせてから、クラピカはそう尋ねた。
昔はなんてことないことだったのに、僕はそれに歓喜せずにはいられない。


「ああ、うん…聴こえてた?」

「もちろん。この学校であそこまで弾けるの、パイロとセンリツ先生くらいだろ?」

「ありがとう、でもまだ思うようように弾けなくて」

「パイロなら大丈夫だよ。もうじきブロック予選の結果が出るんだろ?
 全国大会出場が決定したら、父さんと母さんと一緒に、聴きに行くから」


そう言って首を傾げる仕草をして、じゃあな、とクラピカは踵を返し、先立って歩いていた級友のもとに戻っていった。

聴きに来る?クラピカが?僕の演奏を?

予想だにしていなかった彼女の言葉に、言い表せない高揚を感じた。
ピアノコンクールの全国大会に出場することを知ってくれていただけでも胸の高鳴りを感じるのに、まさか聴きに来てくれるという話になっていたとは。
なんとしても、大会までに納得がいくように第三楽章を弾きこなさなければならない。あと一か月―――


クラピカの後ろ姿を見送りながらそう考えを巡らせていると、その先にある校門の傍らに、見覚えのある黒髪の男が立っているのが目に入った。
その男の姿を認めるとクラピカは級友に別れを告げ、男のもとへと駆け寄っていった。

男の名はクロロ=ルシルフル。
クラピカの父親の部下であり、彼女の家庭教師でもあった。

僕は高揚が一瞬で打ち据えられるかのような感覚を憶える。
なにか心が漣だつような出来事があるたび、耳元のピアスを弄ぶ癖がついてしまった。
三角錐型のパイロープガーネットの石に触れても、もう僕の中に流れ込んでくる記憶はなかった。


「あーあ。クロロさんが来るとクラピカすぐアレなんだもーん」


不貞腐れながら、つい先ほどまでクラピカと談笑していた彼女の級友、ネオンが戻ってきた。


「今日こそ駅前のクレープ食べに行こうって話してたのにぃ」

「…彼、クラピカの家庭教師でしょ?勉強なら仕方ないんじゃない」


そうネオンを窘める僕の言葉は僕自身に言い聞かせるものでもある。
ネオンは唇を突き出した。


「勉強と友情どっちが大切なのよー!…なんてね。あんなイケメンが家庭教師だったらそりゃ勉強取るよねー。
 私でもそうするもん。ん−、勉強っていうか……恋?」

「恋って……あの家庭教師、結構年上だよね?ありえなくない?」


呆れたように言い返すこの言葉も、僕自身に言い聞かせているものだ。
ネオンは顎に指を当てて思案顔になる。


「ん−、確か…二十七?八?だっけ?」

「女子高生に手を出したらアウトでしょ」

「本気の恋ならいーんじゃない?よくわかんないけど。それにクラピカ四月生まれだからもうとっくに十八だし、一応成人だからね」


パイロくんご愁傷様ね、と上目遣いに言われてやや苛立ったが、そんなことは勿論おくびにも出さないよう努める。


「僕とクラピカはただの幼馴染だよ」

「ふーん?じゃあそういうことにしておくね。それよりさ、パイロ君からもクラピカに頼んでみてよ!
 クロロさん、私の家庭教師もやってくれないかなぁ?クラピカにお願いしてもダメだって言われちゃうんだもん」


校門に向かって歩きながら話すネオンに、僕は仕方なく付き合い、帰るわけでもないのに彼女の隣に並んで歩く。
鮮やかな桃色の髪色に、短く折られたスカート。
エスカレーター式のこの学園はいわゆるお嬢様やお坊ちゃま、あるいは特待制度を受けられる成績優秀者が通う学園だが、
彼女は前者で、クラピカは後者。
くだけた口調に派手で今時な身なりの彼女とクラピカは、水と油とでもいうべき性格と家庭環境に思えるが、
それでも"現世"ではこうした良好な関係を築いているのは、"前世"での因縁が違った形で縁を結んだからか。


「…私ね、クロロさんとはちょっと運命感じちゃってるんだ。なんだか、初めて会った気がしないの」


そう夢見るような瞳で語る彼女と僕の思考が重なる。


「……君がそう思うなら、前世で何か深いつながりがあったのかもね?」


例えば、何かとても大切なものを奪われた、とか。


少し意地が悪かったかな、と反省する僕の考えとは裏腹に、ネオンは大きな瞳を更に輝かせて、


「それって、私の心、とか?」


と言って両手を胸に当てた。
僕は呆れと安堵で乾いた笑いが漏れた。そうこうしているうちに校門にたどり着いたので足を止めると、
黒塗りの一目で高級車とわかる車が僕の目の前に停まった。
後部座席の窓が下りると、そこから顔を出したのは中等部三年のキルア=ゾルディックだった。
銀の前髪の隙間から覗く大きなつり目を細めて意地悪く笑い、


「あれー?デートですか、先生?」


そう冗談めかして言った。
先生、というのは僕のことだ。縁あって、僕は彼の家庭教師を務めさせてもらっている。
僕が、そんなわけないだろ、と肩を竦めると、彼は、わかってるって、と言ってまた笑う。
そして、指で隣に乗り込むよう促す仕草を見せた。


「帰るとこなら乗っていきなよ。どうせこの後うちでバイトだろ?」


バイトというのは勿論、家庭教師のことだ。
空を見上げれば、先ほどまであたたかな日差しをのぞかせていた白い雲が灰色にくすみ始めていた。
僕はありがたく彼の提案に乗ろうとするが、音楽室を飛び出した時のまま、荷物を持っていないどころか足元も上履きのままだったことに今更気付く。
僕の足元に気が付いたキルアは、どうしちゃったんだよ、と呆れて笑いながら、早く荷物を取って来いと手を払って僕を促した。
僕はネオンに軽く会釈をすると、校舎に向かって走り出した。





「パイロに言われた通り、親父に外部受験の話したんだ」



ゾルディック家の送迎車の革張りの後部座席は、何度座っても固く感じ、慣れない。
なんとなくだが、隣に座っている彼もそうなのではないかと思う。
巨大財閥の名家ゾルディック家の三男でありながら、跡取りとして最有力候補に彼の名が挙がるのは、
学問をはじめ武術体術、芸術面でも大抵のことは一を教われば十を学ぶ有能さに加え、
どんな場面であっても、どんな人間相手であっても、上手く切り抜け、渡り合えるだけの才知の働きを見せ、故に交友関係も広いからであろう。
有能だが人付き合いが上手いとは言えない長兄や次男ではなく、彼が後継者候補となるのは必然といえる。
キルア自身が望むと望まざるとに関わらず。

前を向いたまま口を開いた彼に、僕は視線だけ横にずらし彼の横顔を見た。
鋭利なパーツと雪のような髪色は見る者に冷たさを感じさせるが、いわゆる美少年と呼ばれる類の顔立ちだと思う。
もし当主となればさぞかしメディア映えするだろう。彼を是非とも後継者にという彼の親族の気持ちも、分からないでもないが。


「そしたら親父、やるなら本気でやって結果を残せって。残せなかったらすぐに家に連れ戻すってさ」


厳しい父親の言葉を語るキルアの横顔は、だが嬉しそうに紅潮していた。

彼の言う外部受験とは、エスカレーター式で高等部に上がれる上、成績上位者である彼なら進む学部も自由に選べるにも関わらず、
敢えて別の高等学校を受験するという意味だ。
彼が進学を望む高校はサッカーの名門で、親友であるゴンと共にプロの道に進むのが夢らしい。
ゴンはこの学園の生徒ではなく、元々ゴンの友人だったクラピカが、きっと気が合うだろうと二人を橋渡ししたのがきっかけだった。


「ちゃんと親父に話せて良かった…サンキューな、センセ」


照れくさそうにそっぽを向いてそう礼を言う彼の表情は、しっかりとスモークガラスに映ってしまっていた。
彼のその表情に、僕も胸にこみあげるものがあった。


「…天才というのはただ才能を持っているだけでは開花しない。
 才能のある人間が努力をして初めて天才になる。父親に話を切り出せたその勇気も、君の才能のうちだよ」

「そうおだてるなよ、本当のことだけどさ」


そう笑う彼の声は出会ったころとは変わり変声期を経て、それでもまだどこか幼さが残る。
すっかり弟のように可愛くなってしまった彼が外部受験で遠くへ行ってしまうのは寂しさもある。
出会いと別れの季節はきっと瞬く間に訪れるだろう。


「でも、期末テストで学年トップ五に入るのも条件なんだよ。だから今日もよろしくな、センセ」

「キルアなら心配いらないだろ」

「そういうパイロも心配いらないだろ」


何のこと、と切り返す前に、彼は僕に向き直って小生意気な笑顔を見せた。


「ピアノコンクールのブロック予選、通過確実だろ。まあ、パイロの成績なら優勝しなくても大学の学部は選り取り見取りだろうけど」


何故みんな僕のピアノをそこまで買い被るのだろう。僕はまだまだ弾けていないのに。
そんな僕の思いを他所に運命の歯車は回り続ける。


太陽はいつの間にか雨雲に隠れ、スモークガラスの車内はまるで夜のように影が落ちる。
キルアの髪が点灯しはじめた対向車のヘッドライトを受けて月光のように輝くのを目の端で追いながら、
僕は第二楽章の終わりを予感していた。









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「…彼、幼馴染なんだろ?」


わざとらしく数歩後ろを歩く自分より年嵩の男の声に、クラピカは振り返った。
彼の言う"彼"が誰のことであるかも、瞬時に理解する。おそらく、先ほど自分たちが話しているところを見たのだろう。
彼は最近できた駅前のクレープ屋のクレープを一人分だけテイクアウトし、
それを食べながら歩く彼女の後ろ姿を満足げに眺めている。
確か彼も甘いものが好きだと記憶しているけれど、自身にはブラックコーヒーだけを買って。
既に大人のくせに大人ぶりたがる彼を可笑しく思いながらも、クラピカはそれを指摘せず有難くクレープを頂いていた。


「そうだが、それが何か?」

「いや…昔はもっと仲が良かったのに、ある時から急に余所余所しくなってしまったと、君の両親から聞いたから。
 先ほどの感じだと仲直りできたのかな、ってね」

「…別に、元々喧嘩をしたわけではない」


パイロとの仲を探られるのを嫌ってか、口の軽い親(おそらく母のほう)を呪ってか、
クラピカはややむっと白い頬を膨らませて反論し、前に向き直った。


「…ある時はじめて突き放すようなことを言われて、それ以来接し方が分からなくなってしまっただけだ。
 嫌いになったわけではない。今でも一番大切な友人だと私は思っている。
 まあ、異性の友人間には往々にして起こることなのではないか」


年頃の娘にしては固い言い回しでそう話すクラピカだが、それでも年頃の娘らしく拗ねた様子を隠さない。
それを素直に可愛いなと思う自分をクロロは知っていた。
そしてそれが、年頃の娘らしくて可愛いと感じているのか、彼女だから可愛いと感じているのか、も。


「…ちょっと妬けるな」


クロロの言葉に面食らったようにクラピカは立ち止まって振り返った。
大きなアーモンド形の目がさらに大きく見開かれている。
透けるような琥珀色の瞳の奥に、近づいてくる男の姿が映る。

驚きを隠さないクラピカに、クロロは嗤いながら言葉を繋げた。


「…彼、事情もなく突然、幼馴染にに冷たくするような男には見えないけどな」


男が隣に並んだところで、クラピカは再び前に向き直り、歩き始めた。
自身の表情を彼に悟られないようにする為のように。


「…そう、思いたい。本当に優しくて、ずっと私を支えて守ってきてくれたんだ。
 あの足の怪我だって―――」


言いかけて、はっとして口を噤み、クラピカは俯いた。
そんな彼女の後姿を、クロロはなんとも読み難い黒い瞳で見つめた。

ややあってから、ふう、とため息交じりに微笑み、コートのポケットに手を突っ込んで彼女に歩み寄った。


「…随分、彼のことを買っているんだな。
 こんな美人の家庭教師を三年間務めてきて、その間煩悩をやり過ごしてきた俺の忍耐力も評価してほしいもんだよ」


クラピカは、何を言っているんだと言いたげに顔を顰めて振り返った。
クラピカの右手には手のひらより小さくなったクレープが、
そしてクロロの右手には、よくドラマやテレビコマーシャルで見かける小さいながら仰々しいベルベットの小箱が握られている。

クラピカの眉間の皺はいよいよ深くなり、小箱とそれを手にした男の顔を交互に見やった。


「誕生日、四月なんだってな。誕生石がダイヤモンドだなんて、金のかかりそうな女だよ」


それでもお前には、ダイヤモンド以上の価値がある。

そう気障だと揶揄られそうな台詞を吐きながら、クロロは箱を開けてみせた。
そこには、ネオンが良く読んでいるファッション雑誌にでかでかと見開きの広告で載っているような、
眩いダイヤモンドとプラチナの指輪が収められていた。

ほら、と箱を目の前に突き付けられ、クラピカは残ったクレープを慌てて口に押し込み、
包み紙を通学カバンの外ポケットにとりあえず仕舞うと、
手を払って箱を受け取るだけ受け取ってみた。

様々な角度からひとしきり指輪を眺め終わるころにはクレープを飲み下していた。
箱をつきつけてきた男を見上げて首を傾げる。
クロロはその仕草に困ったように笑った。


「…ちょっと、いや、かなり早いけど、誕生日プレゼント」

「……いや……何故、こんな高価なものを私に?」


頭の回転が速いはずのクラピカにも情報の処理が追い付かない状況であった。
そんな彼女に、わからないか?とクロロは問い、空が青いだのポストが赤いだの、
然も当たり前のことを述べるかのように、滑らかに次の言葉を発した。



「高校を卒業したら、俺と結婚してほしい」



彼にとっては当たり前のことでも、クラピカには全く理解が追い付かないイレギュラーの発生だった。
色々と、目の前の男に問いたいことは浮かんだが、まず真っ先に答えを聞きたかったのが、



「……交際もしていないのにか?」



これだった。

今度はクロロが面食らって目を丸くする番だった。
そのリアクションは、彼女の返答が予想外のものだったということが伺える。
クロロは肩を竦めた。


「……俺は既に交際しているものだと思っていたし、君の両親もそう思っているんじゃないか」

「え?なっ、えっ?」


クラピカの貴重な狼狽える姿に、クロロは口許に手の甲を当てて笑いを堪える。
彼のその仕草が大人じみていて、驚き戸惑いを隠せない自分が酷く子どもっぽく思え、
クラピカは小さく深呼吸をして、自身を落ち着かせようと試みた。


「……何故そうなる?お前一人の勘違いならともかく、両親まで」

「じゃあ、君の思う交際の定義とは?」


呆れて眉根を寄せるクラピカの手元にクロロは己の手を置いて、小箱を再び自身の大きな掌の中に戻す。
クラピカは大人しくそれに従い、腕組みをして思考を巡らせた。


「そうだな、例えば…手をつないで歩くとか、口づけをする、だとか。
 好きだと思いを伝えあう、とか…」


つらつらとそう述べるクラピカの顎を、小箱を手にしていないほうの指で掴み、強引に上を向かせた。
そして、彼女に反論や抵抗をする隙も与えずに口づけた。

ほんの一瞬のような、数分にも及んでいるような、時間の流れが掴めなくなるようなキスだったのは、
少なくともクラピカにとっては、初めての行為だったからか。

合意の上ではないにしても、不思議と嫌悪感はない。
それが、顎を掴んでいた指が離れてもクラピカが飛び退かなかった理由だった。


「……これで交際成立、ということで」


ゆっくりと唇を離すと、クロロはそう低く囁くように言った。
まるで誘惑する悪魔との契約にも似た、甘くがんじがらめにする言葉だった。

そして、言葉を失うクラピカに、今度は優しい声色で、


「俺はお前が過去に誰を想っていようと、何を憎んでいたとしても、永遠にお前を愛するよ」


そう続けた。
そしてその直後に、あ、と呆けた声を上げ、口を手のひらで覆った。


「女子高生に手を出してしまった。これって俺はもう犯罪者かな?」


先ほどとは打って変わって、若者らしい挙動になるクロロに、
クラピカは緊張と驚きと、得体の知れぬ感情に硬直していた顔の筋肉を綻ばせる。


「まるで誓いの言葉のような強気な告白の後に、随分弱気なことを言うんだな」


そして踵を返してクロロに背を向け、


「…合意の上であり、交際しているのであれば犯罪にはならないのではないか?
 それに私は高校生とはいえ、もう十八で一応成人しているしな」


そう、少しはにかんだような声色を隠すかのように俯き加減に言った。

暖かだった午後の空気はいつの間にか消え、空には雨雲が立ち込め、太陽を覆い隠す。



「……受けてやる、お前のプロポーズ」



ついに暗雲から雨が零れ落ちる。
クロロは殆ど反射的にクラピカの手を引き、最寄りの人気のないカフェの庇へと駆け込んだ。
この季節には珍しい、雷を伴う雨はまる九月のにわか雨のようだった。
クロロとクラピカはお互いに息が上がり、並んで肩を上下させていた。
どちらからともなくお互いを見やると、目が合った拍子にクロロは、はっと吹き出す様に笑った。


「さっきの、プロポーズの答え、まるで決闘を申し込まれた騎士の台詞みたいだったな」

「不満なら取り下げてやろうか?」

「クーリングオフ不可」


そう言って、繋いだままだった彼女の左手の薬指に、いつの間にか箱から取り出していた指輪を嵌めた。
まるで、予めサイズを知っていたかのようにぴったりと指輪はクラピカの肌に吸い付いた。
クラピカは感慨深げにダイヤモンドの輝きを眺め、自分を見つめる黒曜石の瞳を見上げ、
少し不貞腐れたように琥珀の瞳を逸らした。


「それにしても、プロポーズをこんな何でもない帰り道にするなんて」

「ムードがないって?」


意外と情緒というものを気にするのだな、とクロロはそんな彼女を愛おしく思う。嘘偽りなく。


「そんなことはない、俺たちが初めて出会った日もこんな雷鳴轟く雨の日だった。運命的じゃないか」


そう笑って言うクロロに、クラピカは益々機嫌を損ねたように眉間の皺を深くする。


「…私たちが初めて出会ったのは、今日の昼下がりのような暖かな快晴の日だったが?
 それを忘れて堂々と運命的だなどと戯けたことを抜かすとは、家庭教師を務めるには些か記憶力が乏しいと見受けるな」


そう言ってそっぽを向くクラピカの後頭部を、クロロは目を瞬かせて見つめる。
見事な金の毛髪は雨を吸い込んで輝き濡れていた。


「やはり、憶えていないんだな」

「何か言ったか?」


振り返った彼女に、自身が巻いていたダークグレーのマフラーを外して、白い首に巻いてやる。
冷えた首元が、人肌の温もりが残る滑らかな素材に包まれたのに驚いている間に、再び口づけられた。


「こ…らっ、キスで誤魔化すなっ」

「誤魔化してない。プロポーズを承諾されてちょっと浮かれてるだけだ」

「浮かれすぎだ、私はまだ制服だぞ!見つかったら…」




古びたカフェの窓や扉の隙間から漏れる、深い珈琲の香りが鼻を掠めた。

クロロの首元とマフラーから漂う麝香の香りとブレンドのアロマが鼻腔と胸を満たすと、
時刻は既に夕方なのに、何故か「昼下がりのコーヒーブレイク」という単語が脳裏にちらつき、それが胸をざわつかせた。

稲光に照らされる雨の中、クロロの肩にすがる指に嵌められた婚約指輪が月光のように白い輝きを放ち、
彼の言う運命的な何かを、確かに感じた。









to be continued.
20230520.




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