まるで床を踏み潰すつもりか、というような、革靴の踵が奏でる騒々しい音は一目散にある者の元へと向かっていく。


そう大した人数はこの空間にはいなかったものの、それぞれが皆、何事かとその足音の主をすれ違いざまに見やる。
そしてその空間に居合わせたリンセンもまた、彼らと同じようにその者の姿を目で追い、
その革靴の向かう先を見、おいおいおい、と冷や汗をかく。今しがた銜えようとしていた煙草を口から離して、その様子にくぎ付けになった。


―――ここでは、まずいだろう。せめて部屋に帰ってからにしてくれよ、組長もここまで堕ちたか―――


などと逡巡を巡らせ、結局ボスを止めることは叶わない。
火に油を注いで、ことを大きくしてしまうことが目に見えているからだ。

そして、その足音の主が向かった先にいる人物―――クラピカもまた、同じ考えなのだろう。
凄まじい形相でこちらに向かってくるライト=ノストラードの姿に目を見張り、焦燥を滲ませた後で、
諦めたように目を伏せ、振り上げられたその手を甘んじて受け入れた。


ぱあん、と、頬を張る乾いた音がその空間を割いた。


それほどざわついていたわけではないが、それでも、その音の鳴り響く前よりは、しんと静まり返った。


とあるホテルでマフィアの会合が行われた後のことだった。
屋敷に戻り、それぞれに与えられた部屋に戻る途中の、人もまばらの状態の玄関ホールでの出来事。
その閑散とした状態は不幸中の幸いであったと言える。

ライト氏は、血走らせた眼を見開き、鼻息荒く今しがた頬を打った若頭を見据えていた。


「きっ…貴様は!ジャンニーニ組の若造にも、ソルヴィーノ組のジジイにも媚びを売って!!
 何様のつもりだっ!組を乗り換える気かっ?!」


クラピカは、打たれたままの方向を見据え、眉間に皺を寄せていた。
反省をしているわけでも、痛みに顔を顰めているわけでもないのであろう。
日に日に気が狂ったようになっていくボスにうんざりしているのは、見目麗しいこの若頭だけではない。


「…あの二つの組は、ヨークシンに拠点を移し長く権威を維持しており、二大勢力となっている為、
 この機会に顔を売っておけと命じられたとおりにしたまでですが…」

「だからといって、あんな愛想を振りまけとまでは言っていないっ!
 奴らがお前を欲しがっているのは知っているだろうっ!!」


確かに、田舎の弱小ファミリーだったこの組が、娘の占い能力を失っても勢力を衰えさせず、
あまつさえ賭博や護衛業まで手を広げ、それぞれを軌道に乗せている。
その手腕は組長であるライト=ノストラードによるものではなく、
年若い若頭の手腕によるものと知れば、他の組からの興味を惹くのは必然と言えた。
しかも、その若頭の容姿がまるで西洋人形のような美しさともなれば、
噂の真相を確かめるべく、面白半分下心半分で声を掛けてくるファミリー幹部も珍しくはない。
事実、ライト=ノストラードも少し前までは、護衛団リーダーであったこの若者を隣に侍らせて連れ歩くのを、
さも自身のコレクションを見せびらかすかのように、得意がっていたはずだった。

今は、醜い男のジェラシーを隠そうともしない。


「…もう二度とお前を会合へは連れていかん!今夜いつも通り俺の部屋に来い!良いなっ!!」


白髪を掻きむしりながら、ノストラードは来た時と同じようにずかずかと大きな音を立てて奥へと戻っていった。

その音も去ると、玄関ホールには再び沈黙が下りた。
しかし、誰からともなく、気まずそうに自室へ戻っていくと、一人、また一人、とその後に続き、
やがてホールにはリンセンとクラピカの二人きりになった。


「…大丈夫か」


リンセンはそう声をかけ、苛立たし気に眉間に皺を寄せながら打たれた頬をさすっている若頭の傍に歩み寄り、口に銜えた煙草に火をつけた。

打たれた頬よりもメンタルのほうが心配だ。

今はノストラードは形ばかりのボスで、実権を握っているのはこの若者と言っても過言ではない。
クラピカが組を離れることはノストラード組の瓦解を意味する。
組長がそれを何よりも恐れているというのは、組員たちの不文律の事実であった。

であるからして、先ほどのノストラードの取り乱しようは組員たちからしてもある程度は理解できるものである。
問題は、氏が若頭にご執心である理由が、ただあまりにも優秀だから、というだけではないということ。
それが露呈してしまうことは、きっとクラピカも望まない。
―――だが、俺は知っている。



「…大丈夫だ。すまないが一本くれないか」


クラピカはブロンドのショートヘアをかき上げながら、苛立ちを滲ませた声色でそう言い、右手を差し出した。
リンセンは意外そうに眉を上げる。


「お前、煙草なんか吸うのか?」

「…ボスに勧められてな。マフィアなら葉巻くらい吸えないでどうすると」

「生憎、葉巻は吸わないよ」

「煙草でいい」

「これが最後の一本だ」

「あるじゃないか」


白く細い指が、顔を掴むかのように近づいてきて、リンセンは身構えた。
そんな彼の様子をお構いなしに、クラピカはその指の間に彼が銜えていた煙草を挟み、奪った。
それが赤い唇に吸い寄せられていくさまをリンセンはただ呆然と眺めていた。

ふうっ、と溜息とともに煙を吐き出すと、その唇にうっすらと笑みを浮かべ、煙草を持ち主の口許へ戻してやった。


「ありがとう……私はおそらく数日ボスの部屋から出られない。
 すまないがその間の業務を頼む」


年の割に幼い顔立ちだが、すらりと伸びた肢体に恵まれた若頭はリンセンと殆ど背が変わらず、
すれ違いざま耳たぶに揺れるピアスの宝石が窓からの月光を受けて輝くのを至近距離で見た。

先ほどのようなことがあったばかりで、随分迂闊なんじゃないか。
こんなふうに身を寄せて、一本の煙草を二人で分け合って吸っているような現場を押さえられてしまえば、
あの嫉妬深い組長が黙っているはずがないというのに。

薄々と感じていた疑惑が、確信に変わった瞬間だった。


―――どういうわけか知らないが、俺はあの若頭に気に入られているらしかった。









酩酊した犬と抱擁









「すまない、クラピカ……俺にはもう、お前しかいないんだ……
 行かないでくれ、どこにも……頼む、頼む……」



胸の中で涙ながらに訴え項垂れる中年の組長の頭を撫でてやりながら、
クラピカはぼうっと、ここではないどこか一点を見つめていた。



「…行きませんよ、どこにも。ずっとお傍で仕えさせていただきます…
 そう……ずっ…と」



壊れた振り子時計のように言葉を途切れさせ、等間隔でぽん、ぽん、ぽん、と痩せた上司の背中をたたく。
その叩くリズムにまじないのような祈りを込めて。
早く眠れ、眠れ、眠れ。






クラピカが組長の部屋に軟禁されて二日目のことだった。
軟禁という表現が正しいかは分からないが、過去に数度あったこの状況の後、
クラピカは多少ふさぎ込んだ様子は見せても基本的には受け答えもしっかりしており、業務も通常運転であることから、
心身の健康が危惧されるほどの行為は行われていない。
とはいえ自由に出歩くことを許されず、数日間組長の部屋に囚われている状況を考えれば、
やはり軟禁されているという表現が最も適切だろうと言える。

心身の健康が危惧されるほどではないにしても、
普通の人間であれば逆らえぬ相手に数日でも軟禁されれば多少心身の健康を損なうのが自然だが、
若頭にとっては自身の目的のためであればその程度のことは想定内だとでも言わんばかりに、
強靭な肉体と精神力で耐え抜いているようだった。

話を戻すと、今回の軟禁の二日目のことである。
そしてこれが、若頭にとっての最後の軟禁生活の終わりであった。

若頭には珍しく、焦燥滲む声色で内線が入った。
急いで経口補水液とタオルと毛布を持ってきてくれ、というものだった。
そもそも組長の自室から内線が入ること自体が珍しいし、それが組長本人以外からのものともなると、おそらく初めてのことだ。

あのクラピカが慌てているということは、それほどの事態なのだろう。
護衛の休憩室で内線を受けたリンセンは、
冷蔵庫内にあった経口補水液と、仮眠用の毛布、洗面台にかけられていたタオルを手にして組長の部屋へと向かった。


三回ノックをし、リンセンです、と伝えると、ドアは思いのほか早く開いた。
出迎えたのは組長ではなく、クリーム色のバスローブを身に纏ったクラピカだった。

しどけない姿にリンセンは面喰らい、目のやり場に困ったが、
クラピカはそんなこと気にも留めない様子でリンセンの手から毛布とタオル、経口補水液を奪い取った。


「助かった」


クラピカは短くそう言い、部屋の奥へと消えていく。
中に入れ、とも、手伝ってくれ、とも、もう戻れ、とも指示されず、リンセンは自身の所在に迷ったが、
とりあえず、何があった、と奥に向かって声を張り上げて言った。
すると、手伝ってくれ、と切羽詰まった声が返ってくる。
リンセンは小走りに奥へと入っていった。

華美なドアをふたつくぐると、青白い顔でベッドに横臥しているライト=ノストラードと、
そのベッドサイドの床の吐瀉物をタオルで処理しているクラピカがいた。
渡した毛布はノストラードの身体の上のシーツに重ねられていた。

何事か、とリンセンはクラピカの傍に駆け寄る。


「嘔吐したのか?」

「急性アルコール中毒だ。救急車は呼んである。
 私が眠っている間にウイスキーを数瓶煽ったようだ。呼吸はあるが意識がない」


あまり思わしくない事態のようだが、ノストラードは回復体位でベッドに横たわっている。
意識を失っているため経口補水液は与えられなかったのだろうが、応急処置としてクラピカは正しい行動をとっているように思う。

こんなクズ、死んだって構いやしないんじゃないかと思うが。
リンセンはかいがいしくボスの世話をするクラピカの様子を見下ろした。
なりふり構わず動いているため、胸元が開けかかって普段隠れている白い柔肌が垣間見える。
こんな時に俺はなにを。
リンセンは視線を逸らした。

見ればライト=ノストラードもシーツと毛布の下にある肩が裸であることがわかる。
裸の組長と、バスローブ姿の美しく年若いアンダーボス。
二人の関係は上司と部下としてあるまじき爛れたものであることが伺い知れた。
落ちぶれかけているファミリーに愛想をつかし、離れていった愛人たちもいるのだろう。
全盛を極めていた頃はノストラードも一見するといわゆるロマンスグレーの紳士であったが、今は見る影もない。
部屋には吐瀉物特有の異臭が漂っている。まるでかつて栄光を極めたノストラードの死臭のようであった。


「…おい、ぼーっとしていないで袋かなにか持ってきてくれないか?」


険のある声を向けられ、リンセンははっとした。
若頭の言う通りだ。しかし、およそプラスチック製品などなさそうなこの部屋に、プラスチック製のゴミ袋があるだろうか。
迂闊だった。内線があった時に要件を聞き、状況を判断して休憩室から持ってくるべきだった。


「…すまない、休憩室から持ってくる」

「いや、いい。シャワーを浴びてくる。もしその間に救急車がきたら対応を頼む」


クラピカはきびきびとそう答え、タオルを無造作にゴミ箱に捨てると、
足早に部屋に備え付けられたバスルームへと向かっていった。

途方に暮れたように、その後ろ姿をリンセンは見送った。
やがてシャワーの水音が聞こえ始めると、リンセンは再びベッドに横たわるボスへと視線を戻した。


―――この汚ねえオヤジが、あいつの身体をいいようにしてんだな。


そう思うと憎しみとも嫉妬とも、むず痒い興奮ともつかぬような感情に四肢を絡めとられる。
しかし、同時に優越感も感じていた。


―――なぜなら、どういうわけか知らないが、俺はあの若頭に気に入られているらしいから。



シャワーの音が止み、バスルームのドアが開け放たれる音がした。
振り返って良いのか分からず、リンセンはそのまま立ち尽くしていた。


「…待たせたな。ボスの容態に変わりはないか」


シャワーを浴びて思考がクリアになったのか、先ほどまでの焦燥を感じさせないすっきりとした声で、背後からそう声をかけられる。
ようやく『待て』から解放された子犬のように、リンセンは振り返った。
クラピカは先ほどとは違う白いバスローブを身に纏い、少し頬を上気させていた。
ショートカットのブロンドの毛先から雫が零れ、鎖骨に落ちた。
その水の軌跡を目で追いそうになる。



「……どうした?」



まるでその不届きな視線を咎めるかのように、そう声で制される。
はたと、声の主の表情を伺い見れば、若頭はやや挑発的とも言える視線をリンセンに投げかけていた。
蕾のように赤く小さな唇には、うっすらと笑みすら湛えて。


走る緊張。落ちる沈黙。


リンセンはほとんど無意識に、クラピカに向かって一歩踏み出していた。
クラピカはそれを制するでも、一歩引くでもなく、ただ目の前のアイジエン系の男の黒い切れ長の瞳を見つめ返している。
異臭のする部屋で、この美しい者の身体からはボディソープの香りが立ち昇っている。
まるで腐った死体を養分にして育つ花のようだった。



遠くからサイレンの音が聞こえる。
視線を先に外したのはクラピカだった。
唇は、笑みの形のままだった。


「…思ったより早かったな」


おそらく、救急車の到着についてだろう。
その声に少々の落胆が感じられたのは気のせいか、とリンセンは思った。









ライト=ノストラードはそのまま入院となった。
追行機能障害、記憶障害、注意障害などが残っているらしい。
また重症アルコール性肝炎に重篤な合併症である腎不全併発…
若頭はまた頭を抱えることになる。



「いてもいなくても、悩みの種だな…」



クラピカはロックグラスを指先でつつきながら溜息をついた。
底がダイヤのようなカッティングになった六角形のグラスは、カランコロンと音を立てて転がった。



「…そんな組長を急性アル中に追いやったウイスキーで一杯やる俺らもどうかと思うけどな」



不安定なその動きに眉を顰めながら、リンセンは自身のロックグラスを一気に煽る。

ファミリーの本拠地である屋敷に設えられたバーのハイチェアで、二人は横に並んで語り合っていた。
バーとはいっても、最近はほとんどのボトルをノストラードが自室に持ちこんでしまう為、
減った分を補充することもなく、かろうじて棚に残ったのは末端たちのための安価な酒ばかり。
ウイスキーであれば、シーバスリーガル、ジャックダニエル、メーカーズマーク、
バショウが置いている響(とっておきらしい。勝手に飲むと怒られる)、
今回はノストラードの眼につかぬよう隠していた、バランタインを開けた。

クラピカはグラスに口をつけ、そして、くすり、と笑った。
自嘲気味でもない、その組長をあざ笑うでもない、純粋な笑いだった。


「…ボスの入院を酒の肴にして、な」

「全くな」


手酌で、何杯目か分からぬウイスキーを注ごうとしたら、それを白魚の指に咎められる。
リンセンは少々驚いて、自身のボトルを握る手に添えられたその手を見、その手の持ち主に視線をやった。
若頭の大きな琥珀色の目尻は酔いで赤く染まり、下がっていた。


「飲みすぎだ、よせ。君まで病院送りになったら困る」

「…俺は組長と違ってザルだ。自分の限界くらい分かってるつもりだ」

「アルコール依存症患者の言い分だな」

「依存症なんかじゃない、分かってるだろ。俺がこんなに飲んでるところ見たことあるか?」

「ないな。だから心配なんだ」

「ふうん、心配してくれるのか」


リンセンはその言葉に気を良くしたように笑い、ボトルを置いた。
だが、クラピカはリンセンの手から己の手を外そうとはしなかったし、リンセンも振り払おうとはしなかった。
ボトルから外した手を、カウンターの上に置く。
二人の手は不自然に重ねられたままだ。
じっと、クラピカの横顔に見入っていると、クラピカは顔だけリンセンのほうを向いた。
美しい顔だが、酒気により顔の端に小さな赤い線が見えた。
おそらくだが、ハンターとして様々な試練を潜り抜ける際にできた傷だろう。
普段はなりをひそめている古い傷が、こうした時に浮かび上がるのは、なんだかとてもエロティックに感じた。

そんな胸の内を悟られぬよう、一瞬、躊躇うように視線を外した後に、再び若頭の顔に向き直る。


「… 介抱、してくれるんだろ?ボスが運ばれた時みたいに。随分手際が良かったじゃないか」


クラピカは、リンセンの言葉の意味をかみ砕くように、数回瞬きした後、ふっと笑って答えた。


「当たり前だろう。もうちょっとくらい丁寧に介抱してやる」


クラピカは空いているほうの手で頬杖をつき、どう介抱してやるか思案するように笑いながらリンセンの表情を愉しんでいる。
間接照明の燻されたような朱色の明かりはウイスキーの色に似て、クラピカの白い肌とブロンドを魅惑的に昏く照らす。

リンセンも薄く笑い、酔いの所為にして、重ねられた指に自身の指を絡めた。


「……丁寧にって、例えば?」

「……例えば?そうだな……」


クラピカはなにかウィットに富んだ答えを返そうとして、眉間に皺を寄せて思案する。
そうしている間にもリンセンの手はクラピカの指を愛撫する。クラピカの指もまたそれに応える。

しかし、少々考え込んだ後で、頬を預けた手のひらが、がくん、と揺れた。
おっと、と小さく漏らして頬杖をつき直すが、だんだんと頭が沈み、やがてカウンターに頬を預けるまでになってしまう。


「すまない、少し…酔いが……」

「おいおい、大丈夫かよ?自分が介抱される側になるつもりか?」


リンセンは表面上、紳士的に振舞ったが、内心やや落胆する。
マジかよ、良い雰囲気だったじゃないかよ。こんなところで寝落ちされるのはごめんだ。

そんなリンセンの心の内を知ってか知らずか、クラピカはまどろみかけの声で言う。


「……介抱の仕方は……友人に教えられたんだ。酒好きな…医者志望で……」


カウンターに突っ伏しながら、クラピカはそう、どこか幸せそうに、呟くように話した。


「俺が酔いつぶれたら介抱してくれ、だと……全く、はた迷惑な話だ…
 まあ、その知識が今回こうして、役に立ったわけだが……」


そう愚痴をこぼすが、その表情はまるで迷惑などとは微塵も思っていなさそうだった。

リンセンはその語り口でその男がクラピカにとってどういう人間なのか悟った。
それと同時に、クラピカの行動を強く疑う。
そんな関係の男がいながら、どういうつもりで、目の前の同僚の手に誘うような仕草で触れてくるのだろう。


「……良い相手がいるんじゃないか。そいつに介抱してもらえよ。
 男の前で不用心に酩酊するな、そのうち襲われるぞ」


ただでさえお前は、綺麗な顔してるんだから。

そう言ってリンセンはクラピカの手を払った。
クラピカの手は力なくカウンターの上に落ちる。
その手はリンセンの手を追う気配もなく、勿体ないことをしてしまったか、とリンセンは心の中で少し嘆いた。

クラピカは目を閉じたまま、ふふっと笑った。


「レオリオとは、そんな間柄ではない。そして、君は、そんなことはしない」

「…何を根拠に言ってるんだよ?信頼してくれるのは嬉しいが、男はみんな野獣だぞ」

「はは、野獣、か……」


そう言ってクラピカはまた笑う。
今にも眠りに落ちそうだ。これは介抱コースだな、とリンセンは諦めてカウンターの向こう側の、寂しく酒が並んだ棚を睨みつけた。



「そんな君も……見てみたい、気がする」



クラピカのその言葉に、リンセンはすぐさま棚から視線を外し、また若頭を振り返ることになる。
アルコールの所為か、心臓が激しく脈打つ。
しかし振り返った視線の先のクラピカは、突っ伏したカウンターから微動だにせず、目を閉じたままだ。



「…君は少し、似ている……私の、故郷の、大事な親友に……
 穏やかで……優しくて……いつも私を、支えてくれた………」



それ以上言葉が繋げられることはなく、その後に聞こえてきたのは規則正しい寝息だった。

レオリオという医者志望らしい男との関係はやんわりと否定されたが、
故郷の大事な親友、というのはこの若頭の中でとても大きな存在なのだということが分かる。
かつて幻影旅団にクルタ族の故郷を破壊され、同胞を皆殺しにされたということ。
クラピカと同期のセンリツは早い段階で知っていたようだが、リンセンが聞かされたのは比較的最近のことだ。
ようやく心を開いてくれた、ということだろう。
クラピカが心を開いた理由のひとつに、その故郷の幼馴染に似ているというものが含まれているのだとしたら、
この年若い上司が気に入っているのは同僚ではなく、その中に感じる幼馴染の面影だ。
野獣になった同僚を見てみたいのではなく、その幼馴染の獰猛な一面も愛したい、そんなところだろう。


リンセンは、閉じられた瞳を飾る長い金の睫毛を見つめ、ふう、と溜息をついた。

この美しい寝顔をつまみに、もう一杯ウイスキーを飲んで心を落ち着かせよう。
飲み終わったころにお前が目を覚ますのか、覚まさないのか。
俺が野獣になるのか、ならないのか。
ウイスキーのみぞ知る。







結局リンセンは野獣にならず、クラピカは目を覚まさず、その身体を抱えて若頭の自室まで運んでやり、
靴を脱がせ、ブランケットをかけてやって部屋を後にした。
野獣になった俺を見てみたい、だと?
酒の回った頭でその似ているという幼馴染と間違えられでもした日には、野獣どころか子犬にでもなっちまう。
絶対に御免だ。


リンセンはこの日、苛ついていた。
館のバーでの出来事も勿論だが、入院中の組長の様子を見てきてくれ、とクラピカに使い走りにされたからだ。
了解したと二つ返事で引き受けてしまう自分も自分だ。
そんなもの、末端の構成員たちに頼めばいいものを、なんで何でもかんでも俺なんだよ。
心の中で悪態をつきながらも、リンセンは理解していた。
体よく使える部下だからと使い走りにされているわけではない。
信用に足る右腕だと判断されているから、頼られているのだと。
それを分かっているから、断れない。
そんなことにねちねちと苛ついている自分が小物なのだ。

何より苛つくのは、頼られて嬉しいと感じている、ちょろい自分自身だ。


などと考えを巡らせているうちに、ライト=ノストラードのいる特別室の前に到着した。



「……ファミリー幹部のリンセンです」



一呼吸置き三回ノックして、、抑揚のない声でそう名乗った。
返事はない。諦めて、勝手に入室することにする。


「……失礼します」


ガチャリ、とドアを開けると、窓からは離れた場所にベッドがあった。
窓には鉄格子が。素材は当然防弾ガラスだろう。

リンセンはベッドに歩み寄った。
返事がないので寝ているのかと思われた組長は、意外にも両の目を開いており、天井をじっと見上げていた。

痩せて蒼白な顔面は、以前より大分年老いたように見えた。
この年寄りが自分の娘ほどの子ども―――それにしたって、ネオンだって孫だと言っても通じるくらいに若い―――を、
自室に軟禁し、凌辱していたと思うと、虫唾が走るようだった。

何か言葉をかけるべきか、と思ったが、リンセンは言葉が見つからず、ただその老人を冷たく見下ろすばかりであった。
すると、ライト=ノストラードが口を開いた。



「……クラピカ?クラ、ピカ、なのか…?」



その声も酷く擦れ聞き取りにくい。
ただ、リンセンには、この老人が自分をあの年若いアンダーボスと勘違いしてそう呼んでいるのだということがすぐにわかった。


「……違います、リンセンです」

「……?……クラピカは、どこだ?」


リンセンは眉を顰めた。
この男は、長年仕えた護衛団のメンバーである自分の名前を忘れ、クラピカにばかり執着しているのだ。
美しく優秀な、若頭。
それに心奪われて文字通り骨抜きにされ、いいザマだ。


そして、己にも言い聞かせる。




―――引き際を誤ると、俺もこの男のようになる。




「クラピカ……は、どこ、だ…?あれは、俺の……俺だけの、ものだ……」




リンセンは鼻梁の付け根に皺を寄せ、己の上司を冷たく見下ろして言い放った。





「最初から最後まで、クラピカは一瞬もお前のものだったことなんかないんだよ、馬鹿が」





リンセンは踵を返し、病室を後にした。


背後でライト=ノストラードがまだ何か言っているような、何も言っていないような。
どうでもよかった。
あんな老人、何もかも失っていずれ死ぬ。
人体収集家の娘の能力にばかり頼りきりで、優秀な若頭に頼りきりで、
色に狂って、金に狂って、地位権力に狂って、
いつまでもいつまでも、自力で立ち上がる方法を学ばない愚か者。



凄まじい頭痛と苛立ちに視界が揺らぐ。
まるで酩酊しているかのように。


どいつもこいつも、勘違い野郎ばかりだ。


ノストラードに、レオリオといったか、医者志望の男。

そして、俺も含めて。


どいつもこいつも、とんでもない馬鹿野郎だ。


誰もあいつの心の中には入っていけない。


あいつの心の中にはずっと先客がいる。


あいつの心は、全てそいつのものだ。



あいつは誰のものでもない、ノストラードでもない、レオリオでもない、
まして俺でもない。



あいつが愛しているのは、名も顔も誰も知らない、俺に似ているという、死んだ幼馴染だけだ。









それから間も無くファミリーの実権は若頭のクラピカが完全に握るようになる。
収入源は百パーセント賭博と護衛業になり、クリーンなマフィアのファミリー本拠地はより活動のしやすい街中の繁華街へと移転した。


クラピカは短期間で鮮やかに緋の眼の大部分を回収し、やがて十二支ん入りし暗黒大陸へ向かう船への乗船が決まった。


クラピカは緋の眼の回収にあたり、脅しすかし金を渡しても、殺しにだけは絶対に手を染めなかった。
殺したほうがよほど楽だろうという場面はいくつもあった。
冷徹に見えて性根は純粋で優しかった。だからこそついてくるの構成員たちもそれなりはいたが、
それでもマフィアなどという生業に相応しい人格構成をしていないのは確かだ。

暗黒大陸を攻略する船には二カ月ほどは乗船していなければならないらしい。
王位継承戦が終わった後、即ち緋の眼を回収し終えた後どうするのかは分からなかったが、
本来の目的であるそれさえ終われば、いずれマフィアから足を洗う筈だ。
戻ってくるかもしれないが、戻らない可能性も大いにある。
クラピカは多くは語らなかったが、受けた引き継ぎは短時間で明解かつ緻密で完璧で、
こうなるよりずっと以前から、"こうなること"を想定して準備が進められていたのだろうとリンセンに感じさせた。



―――ずっと前から、準備していたわけか。俺から―――いや、この組から離れる準備を。



カキンの第四王子ツェリードニヒ=ホイコーロはおそらく、クラピカが先日語っていた"大事な幼馴染"の緋の眼も所有している。
クラピカがその回収を何より最優先させるのは当然のことだ。
故郷を滅ぼされてからずっと、それを至上命題として生きてきたのだから。



「突然のことですまない、迷惑をかけるな」



長い渡航になるにも関わらず、クラピカの荷物は少ないものだった。
あっという間にトランクに詰め込まれてゆく。
手伝ってやれることは何もない。もっとゆっくりしていけ、などとは言えない。
手際よく荷物を整理している、後輩であり上司であるクラピカの背中を、
リンセンはスキットルに入ったウイスキーを舐めるように飲みながら、眺めていた。

飲酒をしながら人の話を聞くリンセンを、それが人の話を聞く態度か、と叱責することもない。
マナーだどうだという以前に、気にならないのだろう。この世界では、殊ハンターというのは、変わり者も多い。
飲まなきゃやってられないこっちの気も知らないで、とリンセンは内心悪態をつく。



「……もう戻ってこないのか」



入り口近くの壁に凭れ、そう尋ねた後、一気にウイスキーを煽った。
まるで返答を恐れるかのように。

クラピカは一旦手を止め、



「……わからない」



俯き加減に、そう短く答えた。



「そもそも、私が生きて帰ってこれるかが分からない。
 王位継承戦は熾烈を極める生死をかけたものだというからな」

「不吉なことを言うなよ、せめて仲間を取り戻すまでは死ねないくらいのことは言えって」



そう言って再びスキットルを煽ると、それは空になった。
短時間で随分飲んでしまった。酔いが一気に回ってくる。



「……そうだな。ありがとう、リンセン」



クラピカが肩越しに振り返って、照れ隠しのように曖昧な笑顔を見せる。
柄にもなく弱音を吐いてしまった、とでも思っているのだろうか。
珍しく素直な言葉で感謝の意を述べるクラピカに、リンセンは不意を突かれて目を奪われる。



「本当に君には、世話になった…それに、これからも何かと手を煩わせるだろう。
 ファミリーのこともそうだが、私自身のことでも」



言葉尻をすぼませながら、クラピカは前に向き直り、パッキングを再開する。
なんとなく、だが。
放っておいたらこのまま振り向かれないままバイバイなんて言われるんじゃないか。
と、リンセンは思った。
年若いボスの肩は、少し寂しげに小さくなっているように見えた。

そう思った直後に、クラピカが努めて明るい声で、言った。


「そうだ、リンセンには何かと動いてもらったからな、特別手当を君の口座に振り込んでおこう。
 金額はそれなりに期待してもらっていい」

「金だあ?色気ないな」

「では多少色をつけよう」

「そっちの色かよ」

「ふふ…」


クラピカは軽く笑ったが、パッキングの手を止めることはなかった。


本拠地をあの屋敷からここに移して、明らかによそよそしくなった。
ここの地下に仲間たちの眼があるからなのか、緋の眼の回収がいよいよ終盤に差し掛かっているからか。


あるいはあの、バーで二人酒を酌み交わした日のことを憶えているからなのか。


リンセンは頭を振った。脳が揺れるように眩暈がする。
もう今更そんなことを確認したって仕方がない。
クラピカはここを出ていく。戻ってくるかわからない。
俺に分かるのは、それだけだ。



「……クラピカ」

「なんだ?」

「手当とかいらないから、一つ頼まれてくれないか」

「なんだ?私にできることであれば力になろう。
 ただ、手当ては貰っておけ。邪魔になるものでもないだろう」

「いや、いらない」

「意外と強情だな…それほど頼まれ事というのが骨の折れる任務なのか」

「……まあ、場合によっては」

「……責任重大だな。なんだ、勿体つけず言ってみろ」

「抱きしめさせてくれ」

「成程、抱………」



クラピカはパッキングの手を止めた。

ブロンドの小さな頭が、傾げられる。何か聞き間違いをしたのかと、己を疑うように。



「……?すまない、よく聞こえなかったのでもう一度いいか」



ブラックスーツの後ろ姿が、腕を組んで思案する形になった。
頼まれごとというのがまるで予想だにしなかったものだったので、納得がいっていないようだった。

リンセンは、カンと音を立てて空のスキットルをドア横のチェストの上に置いた。



「……あまり何度も言いたいような台詞じゃない」

「いや、だとすると私の聞き間違いではなかったということか?」



クラピカは頭を振り、額に手を当てた。
珍しく、焦燥を声色に滲ませている。まるでノストラードが急性アルコール中毒で搬送されたあの夜のように。



「ちょ…と待て。考えを整理させてくれ。私を抱きしめたい、と?抱かせてくれ、という男は稀にいるが、そうではなく?
 それで、特別手当はいらないと?……全く意味が分からない。私との抱擁にそれほどの価値はないし、大体君は…あっ」



混乱しているうちにリンセンは背後に来て、それに気付き振り返ったクラピカは何か言葉を口にする間も与えられずに抱きすくめられた。


男としては小柄なほうの、リンセンの体躯は、柔らかさはなく、節ばっていた。
それが二人のブラックスーツ越しでも分かるほど、強く抱きしめられている。
アイジエン系の彼の首元からは殆ど体臭がしなかった。その代わり、ウイスキーのアルコールの香りを纏っている。
クラピカの身体からは、シャワーの直後でないにも関わらず、相変わらず花のような香りが立ち昇っている。

二つの、まったく種類の違う香りが混ざり、それは眩暈を憶えさせるほどにクラピカを酩酊させる。
あまりにも密着した身体に、ばれてしまう、とクラピカは思った。
そして、そう思った直後に、何がだろう、と自問する。
おそらく、これ以上になく高鳴っている鼓動が。
今は、それどころではないというのに。この状況は一体何なのだ。
何故彼は、私を抱きしめている、骨が折れそうなほどに。


そっと、クラピカの手がリンセンの肩に触れる。
抱きしめ返すような強さではなく、かといって離せというような強さでもなく。
ただ、添えるように。


その瞬間、リンセンはクラピカの身体を突き放すように解放した。
お互いの酔いを醒ますように、離れた身体は急激に冷えていく。名残惜しささえ感じるほどに。

クラピカはリンセンの顔を見たが、彼は俯き、その黒髪に隠された表情は伺い知れなかった。
少し安堵する。今、どんな顔をしているか彼に見られたくないと、クラピカは思っていた。



「……十分だ」



リンセンはそう言い、踵を返した。
足早に部屋を去っていく。
スキットルはチェストに置き忘れたままだった。


クラピカは、彼が去っていった部屋の入り口を見、そしてそのスキットルを見、
今起きたことが夢ではなく現実なのだと思い知る。
その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。



身体には、ウイスキーの残り香が染みついている。
クラピカの吐息は酩酊した人間のそれのように、熱を帯びていた。




―――私は、何か、彼にとんでもないことを、してしまっていたのかもしれない。




二人の間にあった出来事を脳裏に蘇らせ、反芻させる。




彼はいつも、私を支えてくれていたのに。









fin.
20221225.




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