俺は、くたばるのか?
意識があるのかどうかもわからない、どこかで、ノブナガは己に問いかけた。
どういうことだ、おい、この俺がくたばったって?
冗談じゃねえ、ようやく団長の除念も済んで、これからってときによ。
確かに俺は特攻だし、死ぬのも義務だ。
だから死を恐れたことなんてねえ、死ぬのは一向に構わねえ。
けどよ、俺はまだ、鎖野郎を殺ってねえんだ。
ウボォーの仇をとってねえんだよ。
死んでも死にきれねえよ、あの世のウボォーに、顔向け、できねえ。
冗談じゃねえ、冗談じゃねえよ。冗談じゃ…
復讐に生きた罰を受けよ
険しい山道―――否、山道とは言えない。
クルタの里は人目につかぬ場所にある必要があったから、
道という道は断たれていた。あえて道と呼ぶのであれば、それは獣道だった。
それを、クラピカは黙々と登っていた。
ここを歩いていると、様々なことが思い出された。
五年前から毎年、里の襲撃のあった日、つまり仲間達の命日に、登攀してきたこと。
狩りのために初めて山を歩いた日の恐怖、リスや小鳥たちと遊んだこと。
日が暮れてから、仲間と冒険と称してこっそり里を抜け出し、このあたりで迷って泣いたこと。
赤い木の実を齧ってみたら、予想に反して苦く、べそをかいて父親に笑われたこと。
襲撃の日、目の無い仲間たちを埋葬した後のこと―――
しかし、あの日、自分がどのようにして山から下りたのか、思い出せない。
あの日の苦しみは、悲しみは、怒りは、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
それ以外のことは、一切覚えていなかった。
今、登っていても、なかなか険しい山と感じるのに、
幼かった自分が、魔獣や怪獣を掻い潜りながら、
一体どのようにして麓の村まで降り立ったのか。
何もかも―――
ふと、クラピカの鼻を、血の匂いがついた。
それも、人間の血の匂い。まだ新しい。
一体なぜ、こんなところで血の匂いが。
いや、今はそんなことより、一体この匂いは、どこから。
クラピカは反射的に、鎖のある手を構え、凝と円を行った。
しかし、クラピカのできる円の範囲内には、昆虫や小動物以外の気配はなく、
目がとらえるのも、そういった類の生物たちばかりであった。
血の匂いを頼りに、探すしかない。クラピカは走り出した。
おそらく、相当の深手を負っているのであろう。
あるいは、既に死んでいるかもしれない。
生きているのなら、密猟者ならば捕らえるべきであるし、
ハンターや、迷い込んだ一般人なら、救出しなければ。
どのみち、重傷を負っているなら、手当てが必要だ。
それに―――…
脳裏を、ひとつの希望が過ぎり、それをかき消すように、クラピカは首を横に振った。
そんなはずがない。
同胞たちはみな、死んだのだから。
あの日、幻影旅団に惨殺されて。
瞳が赤くなる。
ああ、よくない。今はこの血の匂いを辿らなければ。
感情に囚われて、人を死なせてしまうわけにはいかない。
クラピカは立ち止まり目を閉じた。
瞼の裏の闇に包まれ、緋色は徐々に穏やかなブラウンに戻っていく。
再び目を開いたときには、クラピカは更にスピードを上げて、血の道標を辿り、走った。
いちだんと、血の匂いが濃くなったあたりで、クラピカは足を止めた。
―――このあたりだ。
見上げれば、切り立った崖。
不運なクルタ族の人間が、ここで足を滑らせ、絶命したことがあった。
特殊な念能力でもない限り、この崖の天辺から落ちたらひとたまりもないだろう。
こんなところに足を運ぶ人間は、手練れのロッククライマーか、
クルタ族について研究しているハンターか、UMAハンターか。
考えている暇はない。崖にそって、クラピカは走った。
すると、かすかな、人間のいのちの気配がした。
今にも途絶えてしまいそうな、弱々しい生命の灯火。
―――まずいな。
ホーリーチェーンを使って治療を施したとしても、
体外に流れ出た血液までは補充できない。
こんなところまで足を踏み入れることができる人間だ、
生命力は並みの人間とはかけ離れているだろうが、
それでも、下手をすれば後遺症が―――
クラピカの思考はそこで途切れた。
どくん、と心臓が脈打つ。
緋色が瞳孔に舞い戻る。
…見つけた。血まみれで気を失っている、
しかし、僅かながらに呼吸をつないでいる人間。
一分一秒の手当ての遅れが命取りになりかねない、
それなのに、即座に行動に移すことができなかったのは―――
瀕死の人間が、幻影旅団の男だったからだ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
冗談じゃねえ、冗談じゃ……
「冗談じゃねえ…」
―――声。声が出せている。
その事に驚き、飛び起きたいところだったが、
全身を走る激痛と、極度の疲労が、ノブナガをそうはさせなかった。
―――こりゃ、死んだほうがマシだったかな。
そう思うのに、それでも呼吸ができていることに安堵し、ほうと息をつく。
なんとか持ち上げた瞼の隙間から、全身の状態を確認しようとした。
しかし、本当に首から上しか動かない。まるで痺れ薬でも飲んでしまったかのように。
―――いつかの、ウボォーみてぇだな。
まだぼんやりとしている頭で、そう思って笑った。
しかし、毒で痺れただけなら、まだましだ。
あの崖の上から転落して、四肢が全てイッてしまったのだとしたら、
治るまで、どれくらいかかる。こんな山奥で食料を調達することもできず、
結局死を待つことになる。それならば意識など、戻らないほうがましだった。
考えているうちに、徐々に意識がはっきりとしてくる。
そこでようやく、身体がどうなっているのか、確認する気力が起きた。
そして、その四肢を確認して、ノブナガは思わず、は、と間の抜けた声をあげてしまう。
右腕は包帯で吊られ、他の部位の怪我も、全て包帯に覆われている。
痛み以外の感覚すらない、全快時の一割も力が出ないにしても、
負ったはずの怪我は全て手当てされている。
気分は最悪だったが、それでも瀕死の状態だったのを考えれば、
意識が戻っただけでも奇跡だろう。
ノブナガは、妙な気持ちになった。
家族など知らない。恋人というのもよく分からない。
仲間は幻影旅団。自身はA級賞金首。
旅団メンバー以外の人間の見る目は、当然そういう色になる。
流星街を出て、他人の厚意を受けたことなどない。
寧ろ、親しげに近寄ってくる人間を警戒していた。有無を言わさず殺したことも数知れない。
辺りを見渡してみると、どうやら山小屋の中らしい。
自分は、どうやらありあわせのもので作られているらしいベッドに横たわっていた。
空腹を刺す、うまそうな匂いが漂っている。その匂いを辿って視線を動かすと、
そこには簡素な暖炉があり、燃える薪の上の黒い鍋の中で、シチューが煮えていた。
こんなところまで、とうてい小柄とはいえない男の腑抜けた身体を運ぶなど、容易ではない。
物好きな奴がいたもんだ、ノブナガはそう思い、溜息をついた。
―――恩に報いるってのは性じゃない。
とっとと治して、とっとと出ていかなけりゃ。
けど、もし、腕の立つ奴なら、入団を推薦してやってもいいかな。
ウボォーの抜け番は、まだ埋まっていない―――
「気がついたようだな」
がらにもなく、和みかかっていた気持ちを、
不意に過去へと引きずり戻す、冷酷な声がした。
反射的に、刀を抜こうと腕を腰に回した。激痛が腕といわず全身をつらぬいたが、
それでもそうせざるをえなかった。
しかし、当然そこには刀はなく。無意味に自身の身体を痛めつけただけに終わった。
ノブナガは悔しさに奥歯を噛み締め、殺意を込めて、声の主を睨みつけた。
「まさかおめぇだったとはな……鎖野郎……!」
鎖野郎と呼ばれた女―――無論クラピカは、
同胞の仇を目の前にしているとは思いがたいほどの冷静さで、ノブナガを見据えていた。
「その身体で、それでもそこまで動こうとするとはな。
その精神力、体力、驚嘆に値する」
「てめえに誉められたところで浮かれる俺じゃねえんだよ!
一体何のつもりだ、何を企んでる、恩でも売ったつもりか!」
クラピカの柳眉が、ひく、と動いた。
「恩?」
嘲笑を頬に浮かべる。目の前の男を自分の意思で救ったにも関わらず、
親しみの一切感じられない、笑み。
寧ろそこには憎しみしか宿っていない。
しかし、どういうわけかそれを懸命に押し殺しているらしい。
「貴様に恩を売って、一体どんな見返りが期待できるというのだ」
言いながらクラピカは、満身創痍のノブナガを、それでも警戒して、
十分に距離をとりながら、暖炉のほうへと歩いていった。
手には、木製の椀と大ぶりのスプーンが握られていた。
「私の命は狙うな、と?あるいは、死んでくれ、とでも?」
クラピカの一挙手一投足を、ノブナガは見落とすまいと、警戒して見つめる。
どんなに警戒したところで、今の自分では、太刀打ちできないだろうが。
相手の念能力の弱点を知っていても、この状況では何の役にも立たない。
「殺戮や強奪をやめろと?同胞の命と眼を返してくれ、と?」
クラピカは、煮え立つ鍋の中身を、玉しゃくしでかき混ぜた。
瞳孔の色が赤いのは緋の目になっているからではなく、炎を映しているからだ。
「……じつに無意味な邪推だ」
クラピカはシチューを椀によそった。
それを持って、ノブナガのほうへと歩み寄る。
もちろん、凝は怠らない。今のこの男相手には必要ないかもしれないが、
それでもどういう念能力を持っているのか分からない以上、警戒はするに越したことはなかった。
ノブナガは、憎しみを込めてクラピカを睨みつけていた。
それだけのことも、今の彼には辛いのだろう、額に夥しい汗がにじんでいた。
十分な距離をとって、クラピカは手にしている椀にスプーンを刺し、床に置いた。
その距離を保ったまま、再び口を開く。
「しかし、私が貴様らに厚意でこんなことするわけがない。
それは貴様の考えているとおりだ。ただ私は…瀕死の、
しかし助かる見込みのある人間の命をあえて断つような真似は、できなかっただけだ」
それまで、黙って聞いていたノブナガの、堪忍袋の緒が切れた。
「ふっ……ざけるんじゃねえぇ!!」
強化系らしい、怪我を負っていても凄まじいその怒声に、
クラピカは念のため、耳を塞いだ。
その余韻が引くと、クラピカは耳から手を離し、
冷たい眼で興奮しているノブナガを見つめた。
クラピカの冷然としすぎているその態度が、余計にノブナガの怒りを煽る。
「てめえなんざに情けをかけられるのはまっぴらだ!なめやがって、
てめえはてめえの美徳に酔い痴れてるだけだろーがよ、
助かる見込みのある人間の命をあえて断つような真似はできなかった、だ?
はっ、まるで仏サンみてえだな、有難くって涙が出てくらぁ、
長年の仇を目の前に何を考えてやがる、千載一遇のチャンスだぜ、
いいからとっとと殺せや、それがてめえの望みだろうがよ!」
一気にそう捲くし立てたあと、ノブナガは肩で息をしながら、ぐったりと項垂れた。
身体に堪えた。まともに怒鳴り散らすことも許されないらしい。
ノブナガの息が整うのを待つと、クラピカが口を開いた。
「…千載一遇のチャンス」
冷たい目が、かすかに赤みを帯びた。
「…ウボォーと呼ばれていたあの巨漢も同じ事を言っていたな」
やはり強化系か。
まるで能力を探ろうとするかのように、クラピカは言った。
ノブナガはかっと目を見開き、クラピカに向かって唾を吐きかけた。
ひょいと、事も無げにそれを避け、クラピカは立ち上がった。
「私がお前を助けた理由は、先程も述べた通りだ。少なくとも今は、お前を殺すつもりはない。
しかし、生きる死ぬはお前の自由だ。屈辱に耐えられないというのならば勝手に死ね。
生きていずれ私を殺したいと願うならば、屈辱に耐えろ。
ただ、いずれにしても変わらぬ事実がある」
クラピカはドアへと歩み寄り、ノブに手をかけた。
振り返ったその目は、世界七大美色に数えられる、緋色に染まっていた。
「お前は私に、生かされたのだよ」
ばたん、と閉じられたドアに向かって、ノブナガは叫んだ。
怒鳴った。思いつく限りの罵詈雑言を並べ…
既に立ち去っているのに決まっているのに。
気が済むと―――というのは語弊がある、
いくら恨み辛みを述べても、クラピカへの憎しみは消えない―――
ノブナガは、ぎろりと、シチューの入った椀を見つめた。
そこだけ、緊迫とした状況とは不似合いに、あたたかな湯気がたちのぼっている。
否、少なくとも数分前までは、ノブナガも、和んだ気になって、
暖炉を見たりなどしていたのだが。
―――あのシチューすら、わからない。
毒入りかもしれない。しかしずっと何も食べないわけにはいかない。
毒入りだとしたら食べれば死ぬ、しかし食べなくても死ぬ―――
否、毒入りのはずがなかった。
クラピカは、生きる死ぬはお前の自由、と言っていた。
どちらの選択肢の先にも、死しかない、ということはないだろう。
―――『屈辱に耐えられないというのならば勝手に死ね。
生きていずれ私を殺したいと願うならば、屈辱に耐えろ。』
死にたい、しかし、殺したい。
奥歯を噛み締めすぎて、歯が少し欠けた。
―――生かされた、だと。あの、鎖野郎に、か。
なら死ぬしかねぇ、こんな屈辱は耐えられねえ。
あいつの手当てを受けて生きろと?あいつの手料理を食って飢えを凌げと?
あいつに命を握られながら、生きろと?
そんなこと、できるわけがねぇ。
そんなふうに生き延びたら、ウボォーにますます顔向けができねぇ。
蜘蛛の誇りのために、死ぬしかねぇだろ―――
しかし。
部屋を出るときの、あの目。
“死ね”、と。そう言っていた。憎しみしかないあの瞳。
―――死んだら、あいつの思う壺だっていうのか。
涙が滲むほどの屈辱。この屈辱すらも、あいつの思惑通りだっていうのか。
「…冗談じゃ、ねえぜ…」
目覚めたら、そこは地獄以上の地獄だった。
葛藤の地獄。永遠に答えの出ない押し問答。いたちごっこ。
「…後悔させてやる」
―――俺を助けたことを。
死んでも生きても屈辱ならば。
死んでも生きてもあいつの思惑通りだというのならば。
生きて、その寝首を掻っ切ってやる。
そう決心しても、ノブナガはそのシチューには手をつけなかった。
それを口にするには、まだ生きる覚悟が足りない。
そもそも、あそこまで取りに行くのが容易なことじゃない。
第一、仇の女が憎しみを込めて作った手料理だというのに、
家族を知らない男に、家庭がなんたるかを見せつけようとするかのような暖かさがあり、
ノブナガはその生易しさに、呑まれたくないと思ったのだった。
to be continued.
20081003
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