「いいよなぁ、ピコは」




クラピカはそう言って溜息をつきながら、ピコと呼ばれた地走鳥の羽根をブラシで撫でつけた。
自分たちが乗るわけでもないのに、大人たちの言い付けでピコの世話をさせられているクラピカは、
たいそう不服そうだ。
隣でまた別の地走鳥の羽根の手入れをしているパイロは、
そんなクラピカの仏頂面を大人びた苦笑で見た。



「どうして?」

「だってさ、買い出しとか用事のたびに森を出て外の世界が見られるじゃん。
 俺も鳥になりたいよ」



クラピカの答えは大方パイロの予想していたものだった。
不機嫌なクラピカに対し、ピコは気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
文句を言いながらもクラピカはいつも丁寧にピコの面倒を見る。
パイロは優しくほほ笑みながら上を見上げた。
緑深い木々の間から差し込む陽光に、一瞬黒い影がさした。鳥だ。



「…僕は、鳥より、海になりたいかなぁ」

「うみぃ?何それ?」



耳慣れない単語に、クラピカは手を止めてパイロを見た。
彼の瞳は、どこか遠い情景を夢見るかのように、光をうつし琥珀色に輝いている。
クラピカは一瞬、どきりとした。
やっぱり、彼の目は緋の目のときより、空の色を映しているときのほうが美しい。
自分のために、目と足を不自由にしたパイロ。そんな彼がいとおしかった。



「この世界の大半は海っていう、塩水で満たされた大きな湖のようなものに覆われているんだって」
「地域にもよるみたいだけど、中には空の色を映してとても美しく澄んだ青い海も存在するらしいよ」
「海になれば、この世界のことが手に取るように分かるだろうね、空の色も…」



まるで強く恋焦がれるかのように、パイロはその瞳を通して空を越えて遠い海に思いを馳せていた。
そんな彼の瞳に映る空が羨ましく思えるほどに。



パイロが海になるのなら、オレは―――…



「いいね、海」



空への嫉妬を心に秘め、クラピカはふと微笑んでパイロの横顔を見つめた。



「いつかきっと、見に行こうな!」



パイロは空から視線を外し、そう言った隣のクラピカを瞳に映し、頷いた。



「うん、きっと。一緒に見よう。クラピカ」




ずっと一緒に。











やさしく歌って









指定されたのは、あの闇オークションの日に介抱されたのと同じホテルの同じ部屋だった。
おそらく長期滞在しているのだろう。
もともとこの辺りの人間ではないのか、それともホテルを自宅代わりにしなければならない理由があるのか、
クラピカは疑問に思っていたが、何故か聞きたいという気持ちは湧いてこなかった。

ホテルのロビーでも、タクシーで聴いたのと同じカヴァー曲が流れていた。
流行っているんだろうか、と、流行に疎いクラピカは頭の片隅で思いながら、エレベーターに乗る。



やさしく歌って、か。



親に叱られた時、長老と喧嘩したとき、
外の世界に出たくて出たくてたまらなく、どうしようもなかったとき。
ハープを奏でるのを得意とするパイロは、よくその音色にのせて歌声を届けてくれた。
あの優しい歌を思い出す。

指定の階のボタンを押すと、一面に張られた鏡に映った自分を見た。
女には見えないな、とクラピカは思った。
しかし男にしてはあまりにも中性的、あるいは女性的な自分の顔立ち。
時々自分でも、男なのか女なのか分からなくなってくる。
あの女はクラピカを男と信じて疑っていない。
しかし、パイロを想うと逸るこの気持ちは紛れもなく女のものであった。



部屋の前に着き、一呼吸を置いてからインターホンを押すと、ほとんど間をおかずにドアが開いた。
パイロの顔を見るなり花が綻ぶように頬を紅潮させたクラピカに対し、彼はやや疲れたような面持ちであった。
笑顔になりかけたクラピカも、そんな彼の様子に眉を顰める。



「パイロ…?」



不安げにその名を呼ぶと、パイロはクラピカの手首を掴み、部屋の中へ引き入れた。
クラピカはどきっとして、そんな彼の仕草の粗暴さを咎めることすらできなかった。
ドアの閉まる音が背後から聞こえると、クラピカは彼の表情を今一度確認しようとしたが、ならなかった。
抱きしめられたからだった。
クラピカは思わず息をのむ。



「パイロ…」



抱きしめられた、というよりは、凭れかかってきた、というほうが正しいかもしれない。
パイロの全体重を受けたかのような重みに、クラピカは体勢を崩しかける。
背に感じるパイロの手から、ほのかな温もりを感じる。
女にしては背丈の高い方で、身体もやや筋肉質なほうだ。
自分より小柄な男を沢山見てきたし、パイロも子供のころは自分より小さかったと記憶しているクラピカは、
この身体を包みこんでなお余裕のある彼の肩幅をじかに感じ、
改めて二人離れて過ごした時の長さと、変わらぬ自分の想いを知った。



「一体、どうしたんだ?」



クラピカがそう問いかけると、一息つくだけの間を置いて、身体が離れた。
覗き込んだその顔色は陶器のように白かった。
琥珀色の瞳は、目の前にいるクラピカを映していないようだった。
それより向こう側の、誰か違う人間を見ているかのように、うつろで捉えどころがない。
クラピカの胸を一縷の不安が過ぎる。
パイロがふと自嘲気味にほほ笑んだが、そんな弱々しい笑顔では拭えなかった。



「ごめん」



クラピカの肩にかけたままだった手を外し、パイロはふらりと一人掛けのソファに腰かけた。
とすん、と、彼の体格にしてはやけに軽い音を立ててソファが沈む。



「君に慰めてもらおうとした。最低だな」

「パイロ?」



クラピカはパイロの背後に歩みより、いたわるようにその両肩に手を添える。
肘掛けで腕を支え、頬杖をつくとパイロは重く口を開いた。



「…振られちゃってね、恋人に」



クラピカの手が一瞬、強張る。
部屋に入る前までの浮ついた気持ちが、一瞬で奈落の底に突き落とされる。
視界が緋色に染まり、しかしすぐに暗く霞む。



「…恋人がいたのか」

「ごめん」



隠すつもりはなかった、でももう過去形だから、と。
パイロは繋げた。



「結構長い付き合いだったんだけどね」
「別れは一瞬、あまりにもあっさりしたものだったからむしゃくしゃしちゃって」
「他に好きな男ができたらしくってね」



は、と息をついて、パイロは足を組んだ。
クラピカの手に身体を預けるように、ソファの背凭れに体重をかける。



「…僕は優しいだけで退屈なんだと」



暗く沈んだ視界が再び朱色に染まる。
ぐらり、と身体が揺れてよろめきかけたのを、
パイロの肩に添えた手に力を入れることで耐えた。
…あまりにも身に覚えがある、その別れ文句。



「それに、僕は一人でも大丈夫、やっていけるだろうって」



パイロはぎり、と奥歯を鳴らした。



「…一人でも大丈夫?一体そんなの誰が決めたっていうんだ」



喜ばしくない偶然だった。
まさか、あの女が…あんな女が。


クラピカは膝を落とし、彼を後ろから抱きすくめた。
クルタの里を去る時、引き止めることもせず、パイロは笑顔で手を振ってくれた。
そのパイロが、今度は手も振らず、背を向けようとしている、そんな気がした。
もう二度と離れたくない。



「…一人じゃない。私がそばにいる」



そう耳元で囁いた。パイロは何も言わない。
クラピカは続けた。



「そんな馬鹿な女のことは早く忘れろ。
 いや、私が忘れさせてやる」



何も答えず、振り返ろうともしないパイロに、クラピカはやきもきした。
じんわりと赤い炎が焦がす嫉妬が胸中に渦巻く。
真っ赤だったそれは徐々に黒く波打つ、あの女のブルネットのように。
彼の心の中にはまだあの女が住んでいる。

だからノックをしても居留守を使っているんだ、二人きりの時間を邪魔されたくないから。
―――早く出ていけばいいのに。

あの愚かな箱入り娘は、優しい黒髪の男じゃない、
ブロンドのマフィアの端くれに夢中なのだから。
馬鹿な女には馬鹿な男と愚かな結末がお似合いなのだから。
パイロに釣り合うような女じゃあないのだから。


肩にまわした腕に力をこめても、
パイロは心ここにあらずといったふうに、いっこうに反応を示さない。
胸を嫉妬で焦がし、頭でどうしてくれようかと考えを逡巡させながら、
クラピカはぐるぐると目玉をまわして部屋中を見渡した。

ふと、目にとまったのはデスクの上の彼のノートパソコンだった。
今はスクリーンセーバーに蝶が舞ってるが、
彼のデスクトップは確か真っ青な空と海のパノラマ写真だったことを思い出す。


そうだ、と声をあげて、クラピカは片腕をほどきスーツの内ポケットに手を忍ばせた。
手に入れたばかりの封筒の角が指先にぶつかると、迷わずそれを取り出した。



「これ」



目の前に差し出された縦長の封筒に、パイロは怪訝そうに眉を顰める。



「…これは?」

「あけてみろ」



クラピカはにやりとした。
眉を上げて、パイロは封筒を開き、中の紙切れ二枚を取り出した。
時間が止まってしまったかのように、彼はそれを見て目を見開き硬直した。



「驚いたか?」

「…これは」



わずかにだが、彼のチケットを持つ手が震えていた。
彼の中の止まった時間が、徐々に秒針を刻みだす。



「素晴らしい青い海と空が見れる島への飛行船のチケット。
 約束しただろう、いつか絶対に二人で見に行こうって」

「…この船室は」

「ああ、良い船室だろう?やっと二人の夢がかなうんだから、
 記念になるかなと思ってな」



―――ああ、私はよくもこんな嘘を、つらつらと。



どこか遠くで、昔の自分がそう非難する声が聞こえた。
しかしクラピカはその声を聞こえないものとした。
何故ならクラピカは殺人鬼となって本来の自分を殺したのだから。
そんな声は、聞こえるはずがなかった。




「パイロだってあんな写真をデスクトップにしてるんだから、
 ずっと行きたかったんだろう?」

「…ああ」



そう相槌を打ったパイロは、なのに先ほどよりもさらにうつろな声をしていた。
クラピカの言葉に乗って漂ってくる香りに、彼は深呼吸をした。
吐き出す息は心なしか震えている。



「…クラピカ、君、香水をつけるようになったの?」

「…え?」

「…別れた恋人のと同じ匂いがする」

「あ…あ」



そうだ、シャワーを浴びる間も惜しんで会いに来てしまったから。
クラピカは狼狽した。パイロ相手でなければ、このようなミスは犯すまい。
言い訳を考える。通じるだろうか?パイロはいつでも、クラピカの嘘を見抜いていた。



「たまにはいいかなと思って、つけてみたんだが…
 同じ香水とはまさか思わなくて、すまない」

「…」

「…おかしいか?」



―――おかしい?
一体何を、何が、おかしいと思われていると?
私は一体何を聞いているのだろう。

香水などつけている私が?
それとも、偶然にも同じ香水の匂いがしていることが?
いや、両方。


クラピカの背筋を冷たい汗が一筋伝った。



「…いや。おかしくはないよ」



果たして、パイロの答えは一体どちらの問いに対するものか。
クラピカの喉が鳴る。



「ただ」



一呼吸置くパイロの仕草がやけに長く感じた。



「…辛いね。その香りは。色々と、思い出すから」



クラピカは、悟られぬよう、ゆっくりと時間をかけて、息をついた。
無意識のうちに呼吸を止めていた。
パイロの答えは、前者の問いに対するものだった。
しかしそれはクラピカを安堵させると同時に落胆もさせた。



この香りを纏い続ける限り、パイロは何度でもあの女のことを思い出す。
俺と一緒にいても、俺があの女と会い続ける限り。
水で流せるか、この香りは。
水に流せるのか?パイロとあの女の過去は。
そして、俺がパイロとあの女の間にしたことも。



―――流せないのなら、消してしまえばいい。
二人の過去も、パイロの想いも…あの女も。



「…シャワーを借りてもいいか」

「ああ」



そう返事をしただけで、パイロは相も変わらず振り返らないままだ。
振り返る余力すらないほどに沈みきっているのか、他の理由があるのか、
クラピカには推して知ることもできない。

肩にかけた手を、温もりが離れるのを惜しむかのようにゆっくりと離し、クラピカは立ちあがった。
ユニットバスへ向かうまで、さして広くないこの客室ではそこまで時間もかからない。
あの女と逢瀬するために用意した、華美なスイートルームを思い出した。
新しい恋に浮かれきったあの女に似合いの部屋。それとは対照的な、この無機質な部屋。

ドアをしめ、スーツを脱ぎ、下着を脱ぐ。
蛇口を捻ってシャワーが熱くなるのを待つ。
狭いユニットバスではタイルに水が叩きつけられる音が轟音となり響く。
スーツと下着をすり抜けて、肌にまでしみ込んだあの女のきつい香水の匂い。
シャワーを浴びても、あの女がしな垂れかかったスーツはこの匂いを覚えている。



こんなに近くにいるのに、彼を遠く感じた。
あんなに近くにいたのに、この数年間であまりにも沢山のことがありすぎたのだ。
それは二人を変えた。二人の関係も、それぞれの人間性も。



ならば全て消してしまえばいい。
そうすれば、また元の二人に戻る。
簡単じゃないか。


シャワーはなかなか温まらずに冷たいままだ。










to be continued.
20131205




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