目が覚めると、何も見えなかった。
と、いうよりは、目の前に何もないようだった。
ただ、ぼんやりと白い。
うつろな思考で、何故目が覚めたのだろう、とクラピカは考えた。
何故なら、眠りについたという記憶もないからだ。
「あ、気が付いた?」
寝起きで人の気配を察知することも忘れていたクラピカは、
突然そう声をかけられ、どきりとした。ふたつの意味で。
眠りにつく直前にも、この声を聞いた気がする。
「急に倒れるからびっくりしたよ」
白い視界のなかに、青年の姿が現れた。
警戒心を解くような笑みを湛えたその表情を、まともに正面から見るのは初めてだった。
改めて思う。
「パイロ…」
「え?」
青年は眉をあげた。
何か聞き間違いをしたかと思っているかのように。
「パイロなんだろ?」
「パイロ…?」
聞き慣れない名前だ、というように、青年は今度は怪訝そうに眉を顰める。
しかし、クラピカのその願いをこめたような物言いに、
すぐにまた元の穏やかな笑顔に戻る。
「君がそう呼びたいなら」
スーツのポケットに手を入れて態度を崩す。
この瞬間に、青年もまた、クラピカに少し心を許したようだった。
少なくとも、クラピカの瞳にはそう映った。
「そう呼んでもらってかまわないよ。
この世界では、名を知られると何かとまずかったりするからね」
心を許した、というのもまた自分の身勝手な願望なだけなのかもしれない。
クラピカは思った。
本当に心を許したのならば本名を名乗るはず。
彼はやはりパイロではないのか。
―――でも、本当に?
隠さなければならない理由が、何かあるのではないか。
記憶をなくしてしまっている、とか―――
青年と出会ったときから抑えることができない、パイロとの共通点を探すこと。
まるで癖のようになっている。
こうして思考を巡らせている間でさえ、彼の仕草のどこかがパイロと似ていないかと、
記憶の底にあるパイロの面影を探っている。
「君の名前は?」
青年がそう尋ねる。
白い天井の片隅にある彼の表情が歪んで見えた。
ぼやけた白も、さらにその存在が曖昧に映る。
「クラピカ…」
これが本名だと伝える必要もない。
彼も、まさか本名だとは思うまい。
ただ、パイロ―――かもしれない彼に、
彼の声で、自分のほんとうの名を呼んでほしかった。
浅はかな願望。
「クラピカと呼んでくれ」
そう言うと、せき止めることのできなかった涙が目じりを伝った。
ぼやけた視界が幾分クリアになる。
青年―――“パイロ”が、無邪気にほほ笑んだのがわかった。
「わかったよ、クラピカ」
懐かしかった。
もしかしたら初対面かもしれない。もしかしたら本物のパイロかもしれない。
まだ分からない。
全てが、自分の願望が見せている幻影なのかもしれない。
まだ眠いのだろうか、
もう、深く考えることは嫌だった。
やさしく歌って
「あ、君が競り落とした緋の目ならそこにあるよ」
青年―――“パイロ”は踵を返し、クラピカの傍らから離れた。
まだ横になっていたい気持ちもあったが、パイロの言葉に促され、ゆっくりと上体を起こす。
どうやらホテルの一室らしかった。
元々彼が宿泊している部屋なのだろう、クラピカが眠っていたベッドはシングルで、
決して広くはない部屋に寝具はこれ一つきりであった。
時間はまだ夜らしく、閉められたカーテンの隙間からちらちらと都会の光と闇が見え隠れしている。
緋の目は木製の箱に入れられ、デスクの上、ノートパソコンの横に置かれていた。
その横で、パイロが湯を沸かしコーヒーを用意しようとしている。
ふらつく足取りで立ち上がったクラピカに、
まだ横になってたら、貧血なんでしょう。
と、パイロは振り返らずに声をかける。
大丈夫だと力なく言うと、彼の横に並び、箱をあけた。
丁寧な仕草でガラスの容器を取り出すと、ホルマリン液にただよう緋の目と見つめ合う。
「あまり嬉しそうじゃないね、一億も出して競り落としたのに」
貧血にコーヒーは良くないかな、と付けたし、
パイロはその箱の横にコーヒーが注がれたカップを置いた。
「…眠気覚ましにはちょうど良い。なんだかまだ頭がよく働かない」
だから、こんなものが見えるのかもしれない。
パイロの幻影。
他人の空似か、ただの思い込みか、それとも本人なのか。
目の前の緋の目は気ままにホルマリン液のなかを泳いでいて、真実を教えてくれない。
何故だろう、仲間の瞳が目の前にあるというのに、こんなにも心が散漫としているのは初めてだった。
隣にいるこの青年のせいだろうか。
意識がどうしても、緋の目より、そちらに向いてしまう。
「それより、ごめんね」
何が、というように、クラピカがパイロを振り返る。
「女の子だとは思わなくて、服を着替えさせようとしちゃったんだよね」
一瞬、クラピカは考えを逡巡させ、ああそうか、と納得する。
特に女である必要がないときは、クラピカはいつも男を装っている。
今回着ているものも男物のスーツにワイシャツだ。
襟元などを確認してみたが、元のように整えられている。
特に変わったことは感じなかった。
「怒らないの?」
「?…なぜ?」
パイロの質問の意図が心底わからないというようなクラピカの問いかけに、
パイロは、だってさ、と言い苦笑する。
「男と間違えただけでも失礼なのに、服の中まで見ちゃったんだよ?」
「別に…紛らわしい格好や口調なのは私のほうだからな」
「なんで紛らわしくしてるの?」
「こういう世界だ。
本名と同じで、知られて面倒なこともある」
「なるほどね」
「それに、昔から男っぽかったし」
緋の目を木箱の横に置く。
―――そうだ。
パイロは一番そのことをよく知っているはずじゃないか。
オレはパイロよりずっと好奇心旺盛でお転婆で、口が悪かった。
思い出すと、恥ずかしくなるくらい―――
「え…クラピカ?」
クラピカは無意識のうちに、パイロ―――青年の背に抱きついていた。
青年はコーヒーをとり落としそうになり、慌てて体制を立て直す。
立ち上げたままのノートパソコンのスクリーンセーバーが振動で止まり、
地平線の境目が分からないほど青く美しい海と空の写真がデスクトップに映し出された。
「パイロ…」
「うん?」
「パイロなんだろ?」
クラピカは、彼の腰にまわした腕に力を込めた。
青年は戸惑い気味にカップをデスクに置いた。
腰に回された、震えるクラピカの腕を見おろす。
「クラピカにとって、その、パイロって人は…」
なんていったらいいのかな。
青年は言葉を詰まらせる。
所在無げに宙に浮いていた手を、ためらいがちに、クラピカの手に重ねた。
「その…すごく、大切な人、だったんだね」
「そうだよ」
クラピカは一瞬もためらわずにそう答えた。
「大切で、大切で、大切すぎたよ」
「ずっと好きだったのに…」
そう口にすると、おさえきれないほど声が震えだした。
何故だろう、幼い頃は恥ずかしくて照れくさくて、ずっと言えなかった想いを
今は素直に言えた。
青年の、“パイロ”の黒いスーツにまわした手に、更に力がこもる。
「伝える前に、私をおいて死んでしまうなんて、ひどいじゃないか」
そう言うと、クラピカはわっと泣き出した。
パイロのスーツが涙で濡れるのも気にせず、子供のように泣いた。
あの、新聞の記事で同胞たちが皆殺しにされたのを知った時も、
実際に故郷に戻ってその凄惨な姿を目にした時も、
現実を目の当たりにしてもそれを受け入れられず涙を流せなかった。
誰の胸を借りることもできなかった。
それは幼いころからずっと、パイロの役目だったからだ。
出会って間もない異性に突然抱きつかれ、突然大泣きされ、
青年は困惑し焦燥したような表情になる。
「クラピカ、僕は…」
重ねた手に力を込め、彼女の手をほどこうとした。
が、一瞬思いとどまったように力を抜く。
しかしやはり、思いのほか強い力で握られたその手を、強引に引き剥がした。
そして、ゆっくりとクラピカに向き合うかたちになり、彼女の肩に手を置いた。
涙を湛えたその両の目は不自然なほど暗い色をしていたが、不思議な美しさを奥に秘めていた。
クラピカは肩を強張らせ、瞳を緊張させた。涙が止まる。
その視線に貫かれる。
「…僕は死んでない。いま、君の目の前にいるじゃないか」
そう言い、青年―――パイロがほほ笑むと、クラピカの薄く開かれた唇がわなないた。
そして再びパイロに抱きつき、先程のように声をあげて泣いた。
パイロは赤子をあやすような表情で、少し困ったようにほほ笑んだが、
すぐにそれを消し、デスクからじっとこちらを見つめている緋の目を見た。
クラピカの背に手をまわし、肩に指をつよく食い込ませる。
緋の目はなにも語らず、ただ漂うばかりであった。
to be continued.
20130726
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