ジンが俺をミトさんに預けて、
あくまでも父親でなくハンターとして生きる事に徹したのを、俺は恨んでいなかった。
不思議と、ちっとも。それは俺がジンの息子だから、ジンの考えというのが、
少なからず理解できていたからだと思う。

だからといって、もし。
自分に奥さんができて、その人が俺の子供を生んだとしたら。
俺もその人と別れて、子供を誰か頼れる人に預けるかといったら、それは違うと思った。

たとえその事を、子供は恨まなかったとしても。
俺はやっぱり、子供はそれなりの覚悟を持って作りたいし、
ハンターも勿論続けるけど、
父親としてもシングルとかダブルの称号を貰えるくらいになりたいと思っていた。

俺はジンのことを父親として誇りに思っているし、ミトさんも最高の母親だと思ってる。
だからこそ、キルアのように、家族の愛というのをあまり知らずに育った哀しさとか、
クラピカのように、家族を失う悲しみというのは、分かっているつもりだった。
俺はいい家庭を持ちたいと思っていたし、そんなことは簡単だと思っていた。




なのに、俺はどうして今、自分の子供を抱いて、
このくじら島に、戻ってきたんだろう。









裏切り











キルアは、大分安心できるところまで精神が安定したようだった。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、今度はクラピカのことが気懸かりになる。
随分顔色が悪かったのに、長いこと一人にしてしまった。
キルアのことがあったとはいえ、よき父、よき夫を目指しているゴンは、
駄目だな、と、自分の頭を小突いた。それに。


―――キルアとのこと、何て言おう。


勢いで、旅をすると言ってしまったものの、
冷静になってみれば、クラピカは身重で、ここ最近は特に辛そうにしている。
とても旅なんてできそうにない、今回パドキアに来るのだって、一苦労だったのだ。

だからってそんな彼女を一人にしておけるはずがないし、
かといって、その間レオリオに面倒を見てもらうのは、
さすがのゴンもそれが名案とは思えなかった。
寧ろ、それだけは避けたい。


―――そうなると。


ゴンは息をついて、クラピカが眠っているだろう部屋の前で立ち止まる。
ふと、ドアの下の隙間から、明かりが漏れているのに気がついた。
部屋を出たときはスタンドライトしかつけていなかったし、
時間から考えても、既に眠っているはずなのだが。

ゴンは念のため、静かにノックし、ドアを開けた。

やはり、部屋の明かりは煌々とついたままで、クラピカはというと、
ベッドの上で、布団もかけずにその上に横たわっていた。
どうやら、起きているようだ。


「クラピカ…」


まだ起きてたの、と声をかけながら、歩み寄る。
クラピカはぼんやりと虚ろな目をして、頬を寝具にあずけていた。


「風邪ひくよ、そんな何もかけないで寝てたら」

「…吐き気がしたから、横になっていたんだ。
 そうしたら、もう動くのが嫌になってしまって」


顔色を見る限り、吐き気はおさまっているらしい。
ゴンに気を使ってか、むくりと起き上がる。
頬に、涙のあとがあるように見えた。


「クラピカ…?」


そのあとを辿るように、指先でなぞった。
咄嗟に、クラピカはその指を、掴む。
はっとして、眉をあげたゴンを、クラピカは気まずそうに見つめ、少し笑った。


「何でも、ない」


何でもない筈がなかった。
長く一緒にいれば、彼女のなにが本当で、何が嘘かくらいは、見分けがつく。

こんな、泣いた跡を見せられれば、あの話は益々切り出しにくくなるのに。
なのに、まさか何かあったのかという邪推が、ゴンの心に棘を刺す。


微かに残る、独特のオーデコロンの香り…
ゴンの嗅覚を誤魔化すことはできなかった。
はじめはごく弱く、しかし、クラピカに近づけば近づくほど、強く。


鞭を打つ。何故隠すんだ、やましいからなのか、と。
心の中で、彼女に、言葉で鞭を打つ。


「ゴン…?」


ゴンの手が、クラピカの襟足を撫でた。
クラピカは目を閉じる間もなく、くちづけされる。
もう片方の手は、シャツの裾から素肌に触れてくる。
擽るような手つきで肌を這うそれは、やがて背中にまわり、下着のホックにかかった。


「ゴン…!」


クラピカは慌てて唇を外し、しかし確かに色づき始めた声で、咎めるように言った。


「こんなときに…不謹慎だ」

「ごめん、我慢できない」


強い口調で言うゴンに、クラピカはびくりと肩を強張らせた。
心なしか、脱がせる手が、指が、唇が。
乱暴な気がした。


―――まさか。


先程、レオリオとの間にあったことに、気付いているのではないか。


クラピカの吐き気を誘った、オーデコロンの香り。
ゴンの嗅覚ならば、それの残り香を嗅ぎ付けないとは限らなかった。

ぞっとして、顔から血の気が引いていく。
ゴンの顔を見ることができない、
なのに、酷い顔をしているに違いないことに、気付くことができる。



―――そんな顔を、するな―――



そんなことは、言えなかった。
彼の乱暴さすら、咎めることはできない。

優しいゴン。彼が怒りと嫉妬に身を焦がし、怒鳴り散らす姿は見たくなかった。
なんでもいい。彼の怒りを静めることができるなら。
言いなりになる。その手に身を任せてしまえる―――



あっというまに一糸纏わぬ姿にされた。


「ゴン、あの…せめて、電気を」

「見られるのは嫌?」


いつもの、少しはにかんだ、茶化すような笑みが微塵も見られない。
怖い。しかしクラピカはそう思うと同時に、どうしようもなく、
彼の低い声に子宮の奥が熱を持つのも感じた。


「いや…嫌じゃない、けど」


―――明るすぎる。


そう思ったが、口に出せなかった。
ゴンは口の端に笑みを浮かべた。
なにか、悦びを見出したかのような、笑み。


「そうだよね」


ズボンのチャックに手をかけ、下ろしながら、ゴンは言った。


「いつも凄いいやらしい格好を見られてるんだもん、今更恥ずかしくなんかないよね?」

「そ、そんな」


言い方って。
そう言いかけて、クラピカは言葉を詰まらせた。
目の前に、いきり立ったペニスを突きつけられる。



「…して」



今まで、そんなことを頼むことなどなかったゴン。
どちらかといえば奉仕するのを好み、クラピカが快楽に酔い痴れるのを見たがった。

しかし、有無を言わさぬ声。
屈辱的で、悲しいはずなのに、クラピカの喉はそれに反して、ごくりと鳴った。


赤い舌先を出して、そっと、亀頭に触れてみる。
そのさまをじっと見つめる視線を感じて、クラピカは固く目を閉じた。
舌の側面で、くびれた部分を探るように舐め、先端を口に含んだ。
その形にそって舌を這わせると、根元まで飲み込むように咥え込んで、吸い上げた。


ゴンの喉が、苦しげに引きつるのを、耳で感じた。
そして、彼のゆっくりと吐き出される息も。
ぞく、とクラピカの四肢が脈打つ。


「もういいよ」


急に、後ろ髪を掴まれ、引かれた。口からペニスが抜け落ちる。
クラピカははっとしたように、顔を上げた。
ぞんざいな扱いに、傷ついた表情を隠すことができなかった。


「…ねえ、こういうこと、レオリオとのときも、してたの」


怒りとも、悲しみともつかぬ、歪みのない表情で、そう問われる。

クラピカは答えなかった。答えられなかった。
答えはあるけれど。そんなことを問われたことに、愕然としていた。


「ねえ」


頭を揺さぶられる。
ずきん、ずきん、と、胸が痛みを伴って震える。
現状から逃げ出したくて、クラピカは顔を背け、涙を零した。


「泣いたってわかんないでしょ。それとも言えないの」


―――分かっている。ゴンが理由もなく、冷たくなるはずがなかった。


ゴンは、自分の頭がふつふつと煮え立つようになるのを、感じていた。


この数年間。ずっと疑い続けていた、クラピカとレオリオの関係を、心のどこかで。
しかし、二人が会い見える機会が、今までなかったから、
それは妄想と同じくらい頼りないものでいられた。
そんな疑いを持つことは愚かだと、自分自身に言い聞かせることができていた。


だのに、そんな誠実さをあざ笑うかのように、
彼自身の聞き及ばぬところで、裏切りがあったのだとしたら。


「…私は…こんなことは、おまえにしか…」


そう、涙に震える声で答えるクラピカに、
ゴンはどういうわけか、怒りが更に沸き立つのを感じた。


「…じゃあ、クラピカからレオリオの香水の匂いがすることについては?」


クラピカは押し黙った。
今のゴンに、なんと言って話せばその逆鱗に触れずに済むか。
すぐには答えが出なかった。

しかし、それが余計にゴンの気に障ったらしい。


「なんで黙るの?やましいことが無ければ言えるはずだよね?
 それとも、レオリオのこと庇ってるの?」


クラピカは、弱々しく首を横に振った。
涙を懸命に堪えようとする。しかし、それはクラピカの意思に抗い、零れ続ける。
今はこんなふうに泣いたって、ただ彼の怒りを煽るでしかないのに。

それに、やましいことがあったのには変わりない。
レオリオとのくちづけ。心が、ゴンを裏切りつつあったこと。



「……な…んで、庇うんだよ!!」



空気が張り裂けるような声で、ゴンは叫んだ。
クラピカはたまらず、竦み上がる。
ゴンに対する、感じたことの無い恐怖が四肢をおそった。



「レオリオじゃないだろ、まず俺だろ!!俺に対して何か言うことがあるだろ!!
 俺がこの匂いに気付かないわけないだろ!何があったか勘繰らないわけないだろ!!
 レオリオに散々傷つけられたこと忘れたのかよ!!」



―――耐えたのに。


だってゴンは、ここに居なかったじゃないか。
私が一番傍にいてほしかったときに、居なかったじゃないか。

きっと、私のもとから離れていくつもりのくせに。
ハンターを捨てきれないくせに。私は平穏に暮らしたいだけなのに。
おまえの父親のように、私と子供から、離れていくくせに。


クラピカの胸の中を、様々な思いが過ぎる。頭痛がする。何がなんだかわからない。
しかし、それはゴンも同じかもしれなかった。


「俺を逃げ道にしただけだったのか!まだレオリオのことが好きだったのかよ!!
 ずっと俺を騙してきたのか、愛されてるって勘違いしてた俺を嘲笑ってたのか!!」


まだ何も決まったわけではないのに。


今までずっと、知らぬふりをし続けてきた猜疑心に直面して、
時折、ふとそうと感じたことのある悪い考えが暴走する。
自分が物凄く惨めな存在に思えてくる。
何もかも、まだ、想像の範疇でしかないはずなのに。


クラピカの瞳が、緋色に揺らいだ。
時折、朱色になったり、琥珀色に戻ったりする。
感情の揺れと、戸惑いと、波をそこへ如実に反映させている。

歯が、震えてかちかちと音を鳴らす。
はじめて見る、彼の怒りを爆発させた姿から、
おそろしいはずなのに、目を外せなかった。



「わ…私は、お前を…ゴンだけを」



愛しているのに。


その言葉は、震えて喉の奥につまり、出てはこなかった。
ゴンのためなら、レオリオともう二度と会わないことなど、容易かった。
ゴンがそうしろと言うのならば、喜んでそうするだろう。
レオリオと会えなくなるのがまるで苦痛を伴わないわけではない、
それでも、ゴンを、彼を失わないために。

しかし、レオリオとのことで、心が一瞬でも揺らいだのも、事実だった。
嘘を言えば、全て悟られてしまう気がした。
しかし、百パーセントの真実を口にすることは、できなかった。


全ては闇の中で、もがき苦しんでいる。



「…そう」



ゴンは、冷たいほどの声で、そう呟くように言った。



「もういい」



そして、クラピカの肩を、とんと軽く押す。
ぐったりと力の抜けていた身体は、容易くベッドに倒れこむ。
茫然自失としている彼女に覆いかぶさり、ゴンは、その身体を押し開いた。


クラピカの白い顔が、苦痛に歪む。


ゴンは、クラピカを抱きながら、考えた。



このコロンの匂いを嗅ぎながら、
クラピカは別の男に抱かれているのを想像しているのかもしれない。
もしかしたらこの口は、別の男が触れたばかりのものかもしれない。
そんなことを考えれば考えるほど、優しくしたいのに上手く触れることもできず、
ただゴンは単調に、腰を動かした。

苦痛ばかりだったクラピカの表情に、徐々に官能の色が差す。
更に先を求めるように、彼女の腰も揺れた。切なげな声が漏れる。


―――悔しかった。


やっと手に入れた、そう信じていたものが、もしかしたら真っ赤な偽物かもしれない。
本物はいまだ前の持ち主の手中のままで、
自分は二人の手の平でまんまと転がされていたのかもしれない。


二人とも、自分にとって、大切な者であることには変わりないのに。
自分自身の、今まで気付くことのできなかった独占欲の強さや、疑り深さ、
自分勝手さ、思い込みの激しさに、反吐が出そうだった。


クラピカの手が、強くシーツを掴んだ。
駄々をこねるように、二三度、ぶるっ、と首を振る、その後に、
つよい締め付けが、ゴンのペニスを襲った。

ゴンも間もなく、熱い膣の中に、罪悪感を伴った欲望を吐き出した。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




クラピカとのくちづけと、彼女が妊娠しているというのを聞いて。
眠れずにいたレオリオの部屋まで、ゴンの罵声は届いていた。
あんな声で怒鳴るゴンを、初めて知ったかもしれない。


レオリオの思考が焦燥にまみれる。
まずいぞ、俺としたことが、うかつだった。
あいつの野生の獣じみた嗅覚のことを忘れていた。
コロンの残り香があったなんて、
いや、例え何の香りも纏っていなかったとしても無意味だったろう、
あの野生の勘が、何があったかを嗅ぎつける。

とにかく、俺のことが理由であの二人が別れるなんてことには、なってほしくねえ。
だからってどうする、俺がゴンに弁解に行くのか、
そんなことしたって疑いを深めるだけじゃねえのか。
だいいち、俺だって。やましい気持ちがなかったわけじゃない、
いや、正直に言えば、何かを期待していたに決まっていた。
でなければあのとき、クラピカにあんなことは、できなかったはずだ。
そんな気持ちでいたのに弁解したって、なんだって嘘に聞こえるに決まってる。

だからって。だからって、だったらどうすればいいんだ。


寂しさに耐え切ることができなかったことと、
クラピカを裏切ってきたこと、今度は親友と今の恋人を裏切ったこと、
全ての皺寄せが、まさに今、差し迫ってきていた。


無意識に、ベッドから起き上がり、電気をつけ、着替えをし、荷物の確認をしていた。
もうここにはいられない。忍び足で部屋を出る。


館を出る。昨日の今日だ、道はまだ覚えている。
敷地から出て、駅までの道のりは長いが、
自分もハンターの端くれ、急ぎすぎなければ苦ではない。
レンタルした車は、身重のクラピカのことを思っても、
勝手に拝借していくわけにはいかなかった。


―――妊娠、か。


自分はまだ復讐者であるから、と。
足枷になるようなことを増やすわけにはいかないから、と。
避妊具を使わない行為は頑なに拒んでいた、彼女が。どうして。


―――もしかしたら、確かなものが欲しかったのかもしれない。
言い方は悪いが、子供を、自分自身の足枷ではなく、
ゴンをつかまえておくためのものとしたかったのかもしれない。
一度、裏切られた身だから。例え、復讐や緋の目の回収の妨げになるとしても、
それ以上に、もう一度手に入れたものを失うことは、したくなかったのかもしれない。
確かな愛情の証として、子供を。


暗い道を、レオリオは走った。



―――二度と、会えない。



そんな気がした。




裏切りの代償として失ったものは、あまりにも大きすぎた。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




ゴンは達すると、クラピカの上に倒れこむようにして、覆いかぶさった。
そのまま鎖骨に口付ける仕草は、愛情のあらわれで、
それを受けるたびに、クラピカはほっとするような思いをするのだった。
確かに、愛されているという実感があるにもかかわらず、いつも、だ。

しかし、今日のその安堵というのは、いつもの非にならなかった。
そこにいるゴンの存在を確かめるように、
クラピカは彼の頭を撫でた。これも、いつもすることだった。
子供扱いされることを嫌がり、頭を撫でることをあるときから極端に嫌がるようになったゴンも、
この時のそれだけは、寧ろ安らぎを感じるように、受け入れるのだった。


「ごめん、クラピカ。怒鳴ったりして」


胸に、まだ熱い息を吐きかけながら、ゴンはそう言った。
その声には、先程のような冷たさも、まして怒りもなかった。

そのことに、クラピカは安堵し、口を開いた。


「ゴン、レオリオとは本当に、何もなかったよ」


クラピカは、嘘をついた。
ゴンは、嘘だ、と思った。

ゴンは、数瞬、息を止めたが、またもとのように呼吸をつなぎ、


「うん、わかってる」


と言った。

何もないわけがなかった。
レオリオがパドキアのホテルに来た時から、彼の未練たらしい様子は、
同じ男であるゴンには、分かりやすすぎるほどに見てとれた。
だから自分も、レオリオのことに関しては、ぴりぴりと神経を張り詰めさせていたのだ。

しかし、クラピカが何もなかったと言うのなら、それを信じるしかなかった。
仮に、真実を聞いたらとても許せないだろう事実があったとしても。
彼女がそれを忘れたいと願っているのなら、自分も忘れようとするほかなかった。


「クラピカ」

「…なんだ」


どきり、とした。
なにか、一番聞きたくないことを、彼は話し始める。
そんな予感がしたからだった。


「あのさ」


静かに、宥めるような声で、言う。


「俺さ、また旅をしたいんだ」


―――予感のとおりの言葉だった。
近いうちに、そのことを彼から告げられると思っていた。
だから、驚きはなかった。しかし、早すぎる。
返す言葉も考えてなかった。感情が先走る。


「…無理だ。少なくとも私は、おまえについて行くことはできない」


思っていた以上に、冷たい声が出てしまう。
そんな言い方をしたいわけではない筈なのに。


「勿論、クラピカが子供を生んでからだよ。それで、落ち着いたら」

「落ち着いたら?赤ん坊を連れて旅をするつもりか?」


慌てて取り繕うように言ったゴンの声に被さるようにして、言う。
先程とは立場が逆転しているようだった。

ゴンは、想定していなかったことを突かれて、言葉を詰まらせる。


「それは…」

「…おまえが旅をしたいというのは、ハンターだからという以前に、
 キルアのことがあるからだろう?…キルアを連れて、旅がしたいと。キルアのために」


カナリアを失い、生きる目的を失ったキルア。
同胞を失ったクラピカには、その途方も無い悲しみを理解することができた。

キルアは自分にとっても大切な仲間だ。しかし。
身重である自分の将来のことよりも、差し迫った状況だったとはいえ、
キルアとの未来をその先に描いたゴン。


―――彼に嫉妬したって、仕方が無いのに。


ゴンをとられる。そう思った。
死神にさえ渡したくないのに。
たとえ彼の子供を身に宿しても、彼を縛り付けておくことはできない。

元々は、彼から、本当はずっと好きだったと言われて始まった関係のはずなのに。
いつの間に、こんな依存めいた感情を抱くようになってしまったのだろう。

ゴンは身体を起こして、肘をついた。


「…キルアは今、生きる希望を失ってて、精神的には…瀕死みたいな状態なんだと思う。
 ほっといたら最悪の結果になるかもしれない、だから、今、離れるわけにはいかないんだ。
 でも、それはキルアがまた、やりたいことを見つけるまでの話だよ。
 きっと、そんなに長くはかからないから」

「キルアのやりたいことというのが、ゴンと旅をすること、だとしてもか?」


クラピカの氷のように冷たい頬が、少しだけ動く。
ゴンは目を見張った。考えの及んでいないことが多すぎた。
なんと答えれば良いか分からず、口の中がからからに乾く。


クラピカはゆっくりと顔をあげた。
ゴンは目を逸らしたくなった。その目に見つめられると、
心を見透かされたような気持ちになる。
今の自分の心の中は、覗かれてもいいと思えるような、綺麗なものではなかった。

揺れている、大きな目。
緋の目にすらなっていない。
深い絶望に打ちひしがれて、寧ろ色を失っているようにさえ、見えた。


「浅はか過ぎる…私も、おまえも」


そう言い、静かに涙を、一方にだけ、流した。
それ以上は流れなかった。喪失感。それは涙すら涸れさせた。

ゴンは、口を開いた。
否、開こうとした。しかし、彼が何か言うより先に、クラピカが口を開いた。


「何とかなる、と言いたいのだろう。自分が何とかしてみせる、と」


力なく、首を振った。


「…家庭を持つということはな、そんなに易しいものではないんだ。
 少しでも、家庭より大切だと思うものができてしまったら、成り立たないんだ。
 どちらか一方を選べば、どちらかが崩れる…どちらも選ぼうと欲を出せば、どちらも崩れる。
 …世の中には、思い込みや前向きな考えだけでは、どうにもならないことがあるんだ」


ルビーのネックレスが、頼りない音を立てる。

その鎖に、ゴンの胸が締め付けられるようだった。
鎖、か。


もしかしたら、その首飾りこそが、今、クラピカを縛り付けているのかもしれなかった。
寧ろ、縛り付けられているのはゴンか、あるいは―――


「…クルタ族が壊滅したとき、私は十二歳だった。
 それから私は四年間、一人で生きてきた。
 そして、お前達と出会い、生きる目的を得た。
 やりたいこと。それがお前達と共にあることだった。
 そして、お前を愛した。分かるか?生きる目的は、一人でも見つけられるんだ。
 私の望みを言おう。キルアはもう大人だ。
 彼自身の自立のためにも、そして私たちのためにも。
 彼には苦しみを一人で乗り越えて欲しい。このままでは、彼は、弱いままだ」


冷酷かもしれない。しかし、クラピカは今度は嘘偽りなく、
自分自身が本当に望んでいることを言った。
また、いつものように。ゴンの意見に折れるしかないようなことになれば。
今度こそ、取り残されてしまう。子供と二人。この世界のどこか目立たぬところへ。


ゴンは考えた。猶予は残されていないようだった。
確かに、クラピカの言う通りかもしれなかった。
そして、彼女が妊娠している今、自分が最も優先しなければならないことも、
自ずと決まっているようなものだった。
しかし、キルアは脆いのだ。脆すぎるくらいに。クラピカ以上に。
そんな彼を、いま、一人にしたら。考えただけでぞっとした。


ゴンにとっては、クラピカとその中に宿る命と同じに、キルアは失いたくない存在だった。



―――ハンター試験のことを思い出した。
選べない二択。どちらかを選ばなければならないとき。
あのとき、自分は答えを出すことができなかった。




そして、今も―――




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




―――あのとき、どちらを選んだのか。



それが、どういうわけか、思い出せなかった。
そして、その後のことも。
気がつくと、一人でいたのだ。


しかし、今、どちらも自分の元にいないということは、自分は欲を出して、
どちらも選ぼうとしてしまったに違いなかった。



数ヶ月前に、センリツからこの子供を預かった。
センリツは、あなたの子よ、と言っていた。



―――先日、クラピカが私のところへ来てね、この子を預かって欲しいって言ったのよ。
彼女は嘘偽り無く、本当のことを全て話してくれたわ。
私と話すときは、嫌でも本当のことがばれてしまうから、仕方がなかったのでしょうけれど。
どうして、誰の子なの、と聞いたら、
一人で育てても悲しくて、子供に辛く当たってしまうから、って。
この子はゴン、あなたとの間にできた子だって。そりゃ驚いたわよ。
私の記憶では、あなたはほんの小さな子供だったもの。
それで、あなた一人で何をする気なの、って聞いたのだけれど、
それには、まだ分からないって答えるばかりで。
心音を聞いても、酷い困惑と憔悴感ばかりが悲しい音色を奏でていて、
私はそれ以上何も聞けなかったわ。
けど、それが間違いだったのね、彼女はいなくなった。
もう、連絡もとれないのよ、音信不通なの。
どこにいるのかも、何をしているのかも…
…不吉なことを言うようだけど、生きてるかどうかすら分からない。
でも、とにかく私は、あなたと話をしなくちゃ、と思って。
まだあなたには、この子の顔も見せていないと言っていたから。
だって、やっぱり家族って近くにいなきゃ駄目だと思うの。
あ、お父様と離れて暮らしていたあなたにこんなことを言うのは、無神経だったかしら…
でもね、折角あなたのような素敵な人がパパなんだもの、
知らずにいたらこの子だって可哀想だわ。
けど、とにかく話してほしいわ、どうしてクラピカと離れなきゃならなかったのか。
だって、あなたたち、本当に愛し合っていたのでしょう。
この子を預けに来たクラピカだって、
まだあなたのことを変わりなく愛してるって、心音が言っていたわ。
あなただって、同じ気持ちのはずでしょう。
ねえ、どうしてなの。当事者だもの、分からないはずがないでしょう。
なのに、ねえ、どうして。どうしてあなたの心音からは、何も聞こえてこないの―――



―――ごめん、センリツ。実は俺にもよく分かってないんだ。


どうして失わなきゃならなかったのか。
大切なものを失いたくないって思うのは、至極当然のことだ。
それを守ろうとして、何が間違いだというんだ。


もしかしたら、そういう考えがそもそも間違いなのかもしれない。
良かれと思ってしていることが、思わぬところで裏切りに繋がるのかもしれない。
キルアが俺と来ることを、一瞬躊躇っていたわけ。
もしかしたらキルアは、クラピカが考えるだろうことを、
予測できていたのかもしれなかった。

だとしたら、やっぱり俺は間違っていたんだろうか。



俺はこれから、この子供をミトさんに預けに行こうとしている。
まるで、ジンと同じ道を辿っている。
だとすると、この子供は俺と同じ道を辿ることになるのだろうか。
俺がジンとそっくりに育ったように。
どういうわけか、また黒髪に黒い目の男の子で。
クラピカが育てるのが辛くなったのは、この子が俺に瓜二つだったからかもしれない。


この選択もまた、間違いなのかもしれない。
しかし俺はもう、自分の心さえ裏切ることは、したくなかった。


クラピカとキルアとレオリオを探す。
三人とも、かなりの実力を持つ、ハンターだ。
ジンと同じように、俺が追うと分かれば、逃げるかもしれない。
何年かかるか分からない。もしかしたら、三人を見つけ出したときには、
もう俺の息子が俺を追い始めている頃かもしれない。
それでも、見つけ出さなければならない。


三人との連絡が絶えてから三年になる。


あの日から、まるで眠っているかのように、暗闇をさまよい続けてきた。
それは死人が動いているだけのような生き様だった。
けれど、こうして生きる目的を見出せた。
死人は墓場から這いずり出る。いつか訪れるだろう、本当の目覚めを求めて。





―――光を求めている時ほど、なかなか覚醒は訪れてくれない―――










fin.
20081006




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