ドアがノックされ、返事をする前に開いた。

椅子に掛けて、考え込んでいたクラピカは、慌てて立ち上がり、
部屋に入ってきたゴンに駆け寄った。



「…キルアの様子は」

「気を失ったまま、っていうよりは、眠ってるよ。
 レオリオに診てもらったんだけど、精神的にも体力的にも相当消耗してるみたいだから、
 きっと暫くは目覚めないだろうって」

「そうか…」



クラピカは俯くと、癖のように口に手を当てた。
その仕草を見て、ゴンが気遣わしげに、クラピカの背をさすった。



「つわりは、酷いの?」

「ん…いや、私のは酷いというほどではないよ、
 なにか強い匂いを嗅いだときに吐き気が特に酷くなるというくらいで、普段はそんなに」

「…ごめんね、大変なときに、無理させて」

「いや、このくらいは…私のことなどより、キルアが心配だ」



そう言い、力なく首を横に振る。
ゴンは言葉で返す代わりに、クラピカの腹部に触れた。
まだあまり目立たない膨らみ。これがそのうち赤ん坊と羊水のぶんだけ大きくなるとは、
なんだか信じがたいようだった。



「…俺、キルアの様子を見てるよ。
 起きてこっそり抜け出さないとも限らないし、レオリオも休ませないと」

「…ああ、そうだな、ゴンこそ、無理はするなよ」

「大丈夫」



二人は触れるだけのキスを交わし、ゴンは部屋を後にした。


クラピカは、ゴンの触れていった唇を指先で撫で、考えあぐねた。



―――カナリアがいなくなった今、キルアが目覚めたら。
ゴンはどうするのだろう、私たちは、一体どうなるのだろう―――









裏切り











「レオリオ、かわるよ」


キルアの額に手を当てたまま、瞑想するように目を閉じていたレオリオは、
ああ、と顔を上げ、つけたままだった聴診器を外し、
救急箱がわりのセカンドバッグの中にしまいこんだ。


「疲労と栄養失調だな。とりあえず点滴は打ったし、
 病気や怪我っていうんじゃないから身体は大丈夫だけど、
 なにしろ精神がな…恋人を失ったんだ、当然だが、こっちの回復は相当時間がかかるぜ」



鞄から薬を取り出しながら、レオリオは言った。
ゴンは腰を屈めて、サイドボードのスタンドライトの明かりだけが頼りの中、
キルアの顔色をうかがうように覗き込む。



「一人にしておくのは心配だよね」



ゴンの言葉に、レオリオは肩を竦めた。



「ああ…こんなことキルアが起きてたらとても言えねーけど、理想なのは…
 早く新しい恋人ができることだな。それが無理でも、
 ずっと一緒にいてやれる誰かがいなけりゃ」

「?何言ってるんだよ、俺たちがいるじゃん」



どうしてそんなことを言うんだ、とでも言いたげなほどにあっさりと、ゴンはそう言った。
レオリオは、目を見張って、間近でこちらを見つめる目を見た。
二人の交わされた視線の間に、火花でもない、好意とも違う、
決定的な意見の食い違いが、生じていた。

やがて、レオリオが折れて、視線を外した。



「…いや」



鞄の鍵を閉め、椅子から立ち上がる。



「…そうだったな」



あとはよろしく頼む、そう言い残して、部屋を後にした。

ゴンは、解せない面持ちで、レオリオの去って行ったほうをじっと見つめていたが、
やがて、床に臥せったキルアの蒼白な顔を見つめ、痛ましげに眉根を寄せた。



「…キルア…」




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




廊下を歩く足音を聞きながら、それが誰のものかを察する。


―――レオリオ。


自身の耳に染み付いた記憶に罪悪感を抱く。
もう頻繁に会う事がなくなってから、随分経つのに。
一度覚えてしまったその音を聞くと、安堵してしまう自分が嫌だった。

そしてその足音は、クラピカのいる部屋の前で止まる。
それを期待していたのか、それとも避けたく思っていたのか。
クラピカ自身にもわからなかった。



「…今、いいか」

「…ああ」



―――どうして、断らない。

拒絶ならいくらでもできる。
可能な限り接触を避けることができる、私にはその権利がある。
彼と二人きりで話すことなど最早何もない、弱みに付け込む気ならどうしてくれようか。


…否。
何故、レオリオが、今、私が弱っていることを、知っているのだ。


…そうだ、彼は、ほんの短い間すら、私を待っていることのできなかった男だ。
耐えられずに、他の女と寝るような男だ。

もしかしたら、私が今“ゴンが離れていってしまうかもしれない”と感じていることに、
気付いているのかもしれない。
そのことに私は気付いているから、
“弱みにつけこまれるかも”などと考えてしまうのだ。
レオリオは、そんなことをする男ではないと知っているのに…
…まさか、私は少なからず期待しているというのか、
彼が、私の弱みに付け込んでくることを。


…彼の裏切りが、あの一度だけでなかったことを、私は知っていた。
それでも、知らないふりを続けられる間は、私は私自身を保つことができた。
私には譲れない目標があった。しかし、
そのために彼との約束を幾度も反故にしなければならなかった。
多忙が原因で会えない間、彼を慰めてくれる女たちに感謝しなければとすら思っていた。

しかし、彼が裏切りを重ねれば重ねるほど、会うのが苦痛になっていき、
私は許容範囲を超えるほどの仕事量を、スケジュールに詰め込んでいった。
あの悪循環を止めるためには、あの時、ああなるより他になかったのかもしれない―――


ドアが開いた。遠慮がちに、踏み込まれる足。
クラピカはドアに背を向けたまま、椅子にかけていた。
サイドボードの電気だけをつけ、本を読んでいるふりをする。


「…暗いな。まだ眠る気がないなら、電気くらいつけたらどうだ」


呆れてそう言い、スイッチを入れるレオリオ。

変わっていなかった。

クラピカが本を読みふけって、
いつの間にか陽が落ちて部屋が暗くなっていた、ということが幾度もあった。
レオリオが仕事から帰宅するたびに、
薄暗い中でうずくまって本を読んでいるクラピカに驚き、
呆れて電気をつける、という方程式が、いつの間にか成り立っていたのだ。

クラピカは振り返らずに、口を開いた。



「…いつも思っていたのだが、私は少し薄暗いほうが、落ち着いて本を読めるんだ」



レオリオは、ふと表情を固まらせた。
クラピカの言っている“いつも”が、二人の過去を指していると気付いたからだ。
レオリオは、動揺を悟られぬよう、落ち着いた声で言葉を返した。



「…自分は快適と思っていても、視力は確実に悪くなるぞ。
 一度下がった視力ってのは簡単に取り戻せるもんじゃない、
 おまえもハンターの端くれなら、視力聴力っていうのは大事にしろよ」

「相変わらずおせっかいな男だ…」



本から顔をはずさぬまま、クラピカは疲れた声でそう言った。
レオリオはベッドの端に腰掛けた。速読術を身につけているはずのクラピカが、
まだ一ページも捲っていないことに気付いていた。


「…なあ」

「何だ」

「おまえ、具合が悪いんじゃないのか」


レオリオの問いに、クラピカは答えなかった。
最も、無視を決め込んでいるのではなく、何と答えるべきか思案しているからなのだが。

返事を待たず、レオリオは続けた。


「一日中顔色が悪かったし…キルアのこともあるからなんだろうけどよ。
 試しの門を開けたときも、まあ三の扉まで開けてたとはいえ、随分辛そうにしてたし。
 樹海を走っている間の動きのキレも、なんつーかお前らしからず、鈍かったっていうか…
 お前のことだ、隠居して身体がなまったってんでもなさそうだしよ」

「…さあな、実際最近は殆ど身体を動かしていない、なまったというのは否定できんな」

「いや…俺はお前がなまったとは言ってねえんだけど。
 にしたって、身体を動かしてないってどういうことだよ、
 ゴンと一緒にハンターは続けてるんだろ?」

「どのみち、医者のおまえに心配されるような病にはかかっていないよ」

「それ、返事になってねーんだけど…」



見当外れのことばかり言っているクラピカを見て、
レオリオは、彼女がらしくもなく動揺を隠せていないことに気付き、ますます怪訝に思う。

しかし、もしかしたら、何が何でも言いたくないのかもしれない。
だから、見当外れの回答でごまかしているのだ、そう思えば納得できた。
言いたくないことを、クラピカがそう簡単に口を割って話すとは思えない。


ならば、と。


レオリオは深呼吸をして、この国に足を踏み入れたときから、
クラピカに尋ねてみたいと思っていたことを、切り出そうと決めた。



「あの…よ、クラピカ」

「なんだ」



まだ何か用なのか、と言いたげに、クラピカの声は苛立っている。
レオリオは躊躇ったが、この機会を逃すわけにはいかなかった。
意を決して、口を開く。



「…イワサキリュウジのこと、なんだけどよ」



ただの静寂が、凄まじい重さを持った沈黙に摩り替わったのを、レオリオは空気で感じた。

暗い水の底から響いてくるような声で、今更その男がなんだ、とクラピカが言う。
びりびりと、空気が鋭さを伴って、レオリオの肌を刺した。しかし、怯むわけにはいかない。



「…やっぱり、何もなかったんだよな。俺の、思い込みだったんだよな。
 だとしたら、やっぱり俺は、お前のことを取り返しがつかないくらい、
 傷つけちまったんだよな」

「だから、今更なんだというんだ」



クラピカは努めて冷然としていようと試みていたが、どうしても声が震えてしまう。



「仮に私が氏と関係を持っていたとしても、本当にそうでなかったとしても。
 今となってはもうどうでもいいことだ。お前にとっても、私にとっても」

「いや、よくねーんだよ、俺が」



これ以上言えば、激怒したクラピカにどんな制裁を加えられるか分からなかったが、
だからといって、最早引き下がるわけにはいかなかった。
第一、自分自身がまだ、納得がいっていない。



「不用意にお前を追い詰めちまったんだとしたら、俺にはそれを償う義務がある。
 ていうか、償わなきゃ俺の気がおさまんねーよ。
 俺たち、あんな終わり方だっただろ。すっきりしねえよ、
 これじゃ死んでも死にきれねー。いやまだ死なねえけど。
 だからお前にも知っててほしいんだよ、俺があの日、
 お前に会えなくて本当に辛かったこと、
 いや、あの日だけじゃない、約束を反故にされて、
 会えるはずだったのに会えなくなっちまった日が続いたこと、
 俺はまじで辛かったんだぜ、だから、まさかイワサキと、なんて疑っちまったんだよ。
 お前には果たさなきゃなんねーことがあるのは分かってたし、
 理解してたつもりだったけどよ、俺は、それがなきゃ、
 毎日ずっとおまえといたいくらいだったんだ、ていうか、俺は」



捲くし立てるようにそう一気に言うと、次の言葉で言葉を詰まらせた。

クラピカを突然、激しい眩暈がおそった。

心臓がばくばくと鳴り、頭がぐらぐらと煮え立つ。
全身が熱を発して、冷たい汗が肌に浮かぶ。
目の前が真っ赤に染まる。緋の目になっている。


―――ゴン、ゴン。


クラピカは心の中で、必死にその名を呼んだ。


―――ゴン、どうして今、おまえは私のそばにいないんだ。
どうして私を抱きしめていてくれない。
なぜ、この男が、レオリオが、私の隣にいるのだ。
一体なぜ―――


レオリオは、すっと息を吸うと、それを吐き出すようにして、同時に声を発した。




「…お前と結婚したいって、ずっと考えてたんだよ」




―――ああ、ゴン、ゴン、ゴン―――



しかし、その名に助けを求めても、眩暈は酷くなるばかりであった。


―――なぜ、何故だ、私の心臓は締め付けられて破裂しそうだ、
誓約を破ったわけでもないのに、
今、隣にいるこの男に握りつぶされようとしている、ゴン、お前に止めてほしいのに。


今更そんなことを言ってどうするつもりだレオリオ、どうしたいというんだ。
キルアから聞いた、今はもう他の女性と結婚を前提に暮らしていると。
明るく、いつもふざけたことばかり言っていたくせに、
その実、寂しがりの甘えたがりで、孤独を何より嫌っていたおまえ。
そんなおまえに相応しい、いつも傍にいてくれる女性が現れたというのに、
今更そんな話を私にしてどうしようというのだ。


そうだ、どんなに強がっても、仕方ないと割り切ろうとしても、駄目だった。
私は本当に、おまえのそういう不誠実なところが嫌だったんだ。
耐えられなかった、寂しさを口実に、他の女性とも関係をもつおまえが。
私を傷つけながら、同時に、その女性たちをも傷つけているかもしれないおまえが。

本当に、嫌だったんだ。
私がおまえの寂しさを理解してやれなかったというのなら、
私がお前の裏切りを心底悲しんでいたことを、
おまえはどうして理解してくれなかったんだ。


だのに、私は―――私は、裏切りを心の奥底から憎んでいながら、
今、私の気持ちはゴンを裏切ろうとしている、ゴン―――


はやく、はやく戻ってきてくれ、この部屋に、私のとなりに。
折れそうな私の心を支えてくれ。叱ってくれ。



もう嫌だ、レオリオの本当の気持ちなんて知りたくない、
もうあの日の出来事を思い出したくはない、
この男と過ごした日々に、今更安らぎや愛しさを見出したくはない―――




ぐらり、と揺らぎ、椅子から崩れ落ちんとした身体を、大きな腕に抱きとめられた。



ゴン。

その名を呼ぼうとした。しかし、赤い視界にうつった顔は、ゴンのものではなかった。
だから、その顔をもつ名を呼んだ。レオリオ。



視界に影がさす。
もう何も考えられなかった。



―――



懐かしい厚みの唇が離れた。
何も考えられなかったが、何が起きたかは理解していた。

すうっと、視界がもとの明るさを取り戻すのを感じた。
赤さはなかった。興奮したあとの気だるさが四肢を襲う。
オーデコロンの匂いが鼻をつく。
クラピカは吐き気をもよおし、うめきながら口を押さえ、反射的にレオリオから離れた。

レオリオは勿論、彼女の、口付けに対する拒絶反応だと思い、咄嗟に、すまない、と謝る。
どうかしていた。これでは、彼女の弱みに付け込んでいるも同じだった。
それとも、自分は最初からそのつもりで、この部屋を訪れたのか。

…否、ずっとこの機会をうかがってきたのかもしれなかった。
彼女にずっと聞きたくて、聞けずにいたこと。
終わったことなのに、それをどうしても確認したかったのは、
和解から何かが生まれるかもしれないと、期待していたからに違いなかった。

しかし、クラピカも。

抵抗しようとすればできたはずだ。
レオリオも、抵抗されればそれまでと思っていた。
否、理性を飛ばしてしてしまったことだから、そこまで考えていられたかは分からないが、
それでも、体調を崩している、
いわば病人に無理を強いるようなことはしない、これでも医者の端くれだ。

それが、腕の中のクラピカは、みずからそれを望むかのように、目を閉じた。
だから―――


いや―――いや。言い訳はするまい。自分には結婚前提に交際している恋人がいる。
クラピカだって、ゴンと―――二人とも、どうかしていた。
クラピカだって、気だるさに身をまかせた結果だろう。
咄嗟に離れたのは、後からおそった罪悪感からだ。


しかし―――しかしだ。


理性ではわかっていても、それでも抑えられない、先走る気持ちがあった。
男の、いや、人間の性なのか。欲しいものが目の前にある、それに手を伸ばしたくなるのは。
それが禁断の果実と知りつつ口にしたくなるのは、
人の歴史が始まった瞬間から不変の、人間としての性なのか。



「クラピカ…俺は」



乾いた声は、しかし熱を帯びて、喉から発せられる。

クラピカは、何も答えることができず、力なく首を横に振る。
口元を押さえたまま、その場から動くことすらできず、項垂れているクラピカに、
レオリオはようやく、その様子のおかしさに気付く。



「クラピカ…?」

「レオリオ…私は」



搾り出された声が告げた現実。



「妊娠している」



レオリオは、クラピカに伸ばしかけていた手を、止めた。

クラピカの、苦しげな息遣いだけの響く、沈黙。
レオリオは、呼吸や瞬きすら忘れていたかもしれない。



やがて、何も言わず、鞄を脇にかかえ、
ゆっくりと、レオリオは部屋を去っていった。



そして、部屋には、クラピカ以外の誰もいなくなった。



静かに、クラピカの両の目から、涙がこぼれた。


よく、耐えた。
クラピカはそう、自分に言い聞かせた。


寂しさに任せて、すがってしまうこともできた。
まだ残る愛情に、身を任せてしまうこともできた。
レオリオの今の恋人から、彼を奪うこともできたかもしれない。
婚約者すら、あの頃と同じ、クラピカに会えない寂しさを紛らわすための、
長い、しかし一時的な恋人にすぎないのかもしれなかった。


しかし、まるでそんなクラピカの心のうちを見透かしたようにおそった、吐き気。
もの言わぬ胎児の叱責にも思えるそれは、クラピカに理性を、考える力を、取り戻させた。

ゴンを愛している。
彼との間に宿った新しい命も、また。


ふたりを失いたくないから、耐えることができたのに。



何故、ゴンは今ここにいないのだろう。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




… … …



「…誰か、泣いてるのか」



うとうとしていたゴンは、どきっとして、跳ね上がった。

一気に眠気が飛び、慌てて目を擦る。
確かに、今の声はキルアのものだったらしい。
彼は目を開けて、天井の一点を見つめていた。



「誰か、泣いてるのか、ゴン?」



返事をしないゴンに、キルアは辛抱強く、同じ言葉を繰り返す。
ゴンは、戸惑ったように顔を歪めたが、
キルアはまだ何かよくない夢を見た気でいるのだ、と判断した。



「いや…この部屋には俺しかいないし、
 みんな多分もう眠ったから、泣いてる人はいないよ」

「…そうかな…」



キルアはそう、納得のいっていないような返事をしたが、
しかしそれ以上追求もしようとしなかった。
ただ、無表情に天井を見つめていた目を、かすかに伏せる。



「…俺、また人を殺したんだな…」



独り言のように、弱々しい声でそう呟いたキルアに、ゴンは悲しげに眉を顰めた。
そっと、ベッドの端に横たわった彼の白い手を、擦った。



「キルア…俺でもきっと、同じようにしてた。
 あんまり自分を追い詰めないで…もう、忘れたほうがいい」

「忘れることなんてできない。あいつはカナリアを殺した」

「それは…そうだけど」

「そして、あいつには何の罪もない、娘と孫がいた」



ゴンは何も言わず、手を擦り続けていた。
それに促されるように、キルアは言葉を続ける。



「人の命って…なんだろうな、ゴン」



キルアは目を閉じた。



「ゾルディック家は、暗殺を生業として長い歴史を持つ一族だ。
 つまり、金のために人を殺すわけだ。
 そして、カナリアも、金に目のくらんだあの男に、殺されたんだ。
 直接手を下したのはオフクロだけど、俺たちの情報を売ったあの男も、同罪だ。
 そして俺も、必要にかられれば、人を殺すことがあるだろう。今までも、そうしてきた。
 殺す人間の背景に、何があるかなんて考えたこともなかった。
 けど、あいつの部屋から出てきた、家族の写真を見て…」



キルアは、声が震えだすのをこらえるように、歯を食いしばり、
それがおさまると、再び口を開いた。



「…怒りに目が眩んで、そのときはこう思ったんだ。
 カナリアは俺を残して死んでいった。あいつも、
 大切な者を残して死んでいく悲しみを味わえばいいと。
 そして、あいつの家族も、俺と同じ、
 残された者の悲しみを味わい、苦しめばいいと思った。
 なのに、俺は、あいつを殺すとき、悦びを感じていたんだ。
 …人の死に触れる悦びだよ。一瞬の出来事だった。
 一瞬だったよ、カナリアを殺された憎しみを忘れ、その悦びに浸ったのは。
 けど、たった一瞬でも、本物の殺人鬼に身を落とした自分が信じられなくて…
 あの男の遺体を詰めた袋を運びながら、思い出した。あいつの家族のことを。
 そして、今後殺していかなければならない人間のことも考えた。
 あいつの家族のことより、俺には殺すべき人間のことのほうが重要だった。
 おふくろや、あの男と通じていた執事、そしてそれに繋がる人間たち…
 けど、俺はカナリアとの約束も思い出した。
 カナリアと二人で、理想のゾルディック家を築くこと。
 その誓いを破って、俺は人を殺した。そして、これからも殺し続けるかもしれない。
 そう思ったら、もう…俺には、なにがなんだか、わからなくなって……」

「キルア!」



ゴンは、興奮して震えだしたキルアの身体を、慌てて押さえた。



「キルアは今、疲れてるんだ。わけがわからなくなるのは、そのせいだよ。
 暫くは、何も考えないほうがいい。カナリアのことも、家のことも、あの男のことも」

「どうやって考えずにいろってんだ、この家で!」



そう叫び、ベッドから飛び出そうとするキルアを、
ゴンは渾身の力で腕を引っ張り、なんとかそこへ繋ぎ止める。
弱ってはいるが、やはりキルアはキルアだ、凄まじい力だった。



「とにかく、キルアはここにいちゃ駄目だ!
 俺と出会う前のキルアに戻っちゃうよ、
 一日、いや、一分一秒でも早く、この家を出るべきだ!」

「この家を出てどこに行けっていうんだよ、
 ゴンにはクラピカがいるし、レオリオだって…」



すっと、キルアの腕から力が抜けた。
ぱたり、とベッドの上に、力なく手が落ちる。


それぞれの歩むべき道を見つけた。
落ち着くべき居場所も。

しかし、歩むべき道を失った自分が、居場所まで失ったら。
一体、どうやって、何を糧に、何を支えにして、生きていけばいいというんだ。
そう言って、肩を落とし、キルアは泣き崩れた。

とても、試しの門を七まで開けた男とは思えないその姿に、ゴンは途方に暮れた。


―――どうして、そんなことを言うんだろう。


レオリオも、キルアも。
だって、仲間なんだから。俺たちと一緒にいればいいだけのことじゃないか。



「何言ってるんだよ、俺たちと一緒にいればいいじゃん」



ゴンは、思ったことをそのまま口にした。

キルアは、はっとして、涙に濡れた顔を上げた。
ゴンは、力強い笑みを見せた。



「そうだよ、キルア。また俺と、俺たちと一緒に、旅をすればいいんだよ。
 そうすれば、また、良くなるよ、色々なことが。きっと上手く行く」

「ゴン…」



キルアの瞳が、一瞬、希望に輝いたが、
しかしその光はすぐに、戸惑いの鈍色に錆びる。



「でも…ゴン」

「だーいじょうぶだって!心配しないでよ、
 そんな自信のないキルアなんて、らしくないって!」



キルアの戸惑いの意味を、まるで理解していないゴンは、
そう言ってキルアの肩を強く叩くのだった。

キルアはまだ、不安な面持ちでいた。



―――旅をする、って…でも、クラピカは。



ゴンは当然、クラピカも一緒に、と思っているのだろう。
しかし、そのことが、ゴンが思っているほどに簡単なことではないこと、彼はわかっていない。


否、気付ける要素は、彼自身の生い立ちにもあるのに。


十年ぶりにくじら島に戻ってきたジンが、赤ん坊だったゴンを預けて行ったこと。
そのとき彼が、妻を連れていなかったこと。別れた、と言っていたこと。



―――ゴンは、ジンの息子だから。



キルアの身体に、父親の、殺人鬼としての血が流れていて、
その性質の一部を、抗いようもなく、受け継いでいるのと同じに。



しかし、キルアもまた、弱っていた。
差し伸べられた手に、希望が満ちていれば、それを取りたいと願ってしまう。
その甘い誘惑には抗えない、己の身体に流れる血に抗えないのと同じように。



「…そうだよな。心配なことなんてなにも、ないんだよな」



そう、曖昧に微笑んで頷いたキルアに、ゴンは心底嬉しそうに、笑った。



―――そうだ。

ゴンはきっと、ハンターという仕事以上に、仲間や恋人を愛している。
クラピカは聡明な女だ。それに彼女は、男以上に男勝りだ。
ゴンの、男性的で、時折無神経ともいえる考えも、理解して受け止めてやれるはず。

この二人なら、きっと、うまくやれる。


そうに決まってる―――



キルアは自分自身にそう言い聞かせ、ゴンの手をかりて、立ち上がった。









to be continued.
20081001




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