凄まじい絶叫の余韻が、いまだに響いているようだった。
キルアの青白い顔は血の飛沫で汚れ、ぼとり、と肉塊が二、三落ちた。
少しの間、胴体から切り離されても、まだ意思を持っているかのように、
その小さな肉片は、びくびくとひきつり動いていた。
床を這うように動くそれを、キルアは落ち窪んだ目をぎょろりとさせ、見つめた。
そして、その肉片が先程までついていた場所へ、視線を移す。
どくどくと、とめどなく溢れ出る赤黒い血。
こんな社会の底辺で生きる男の血も、カナリアと変わらぬ色をしている。
そのことが、無性に許しがたかった。
「…折角、一本ずつ切り落としてやろうと思っていたのに。
暴れるもんだから、一度に三本も落ちたじゃねーかよ。勿体無い」
ジャンの喉が恐怖に引きつり、不規則な呼吸をする。
醜い顔は血と涙と涎とでぎらぎら光り、慄いている。
「もっ、も、もうっ…や、やめて、くれ…」
キルアは目を細めた。
―――こんなものか。平凡に生きてきた人間なんていうものは。
爆弾魔との戦いで、勝算を得るために、腕も喉も一度は犠牲にしたゴン。
暗殺の修行で、悲鳴を上げることすら許されなかった俺。
幻影旅団を捕えるための力を得るため、命をかけたクラピカ。
残酷な拷問を受けながら、間違ったことはしていないと、
許しを請うことはしなかったというカナリア―――
なら死ぬ前に一度、本当の恐怖というものを味わわせてやるのが、この男のためだろう。
キルアは電動鋸のスイッチを切ると、無造作に投げ捨てた。
そして、吊り上げられているジャンの、三本指を失った手の、残りの二本に手をかけた。
ジャンの顔が硬直する。最早、次の痛みを覚悟して、固く目を瞑るばかりであった。
生々しい音が響き、まず、人差し指の爪を剥がれた。
「ぐっ」
手が大きく痙攣し、切断面から、どぷ、と血が溢れた。
力ない音を立てて、爪は床にはらりと落ちた。
キルアはそのさまを、感情の篭らない目で見つめ、
そしてすぐにまた、小指の爪を剥がした。
ジャンは小さく、しかし耐えられないものを耐えるような、
おどろおどろしさを込めた声で、呻いた。
また、爪が床に落ちる。
次は、人差し指を折った。続いて、小指も。
その度に、金属を擦り合わせたような絶叫に近い悲鳴が、木霊するのであった。
キルアは、錯乱する思いで、その叫びを聞き、赤い血の色を見つめていた。
分からなくなりつつあった。
カナリアを殺したこの男を憎んでいるから、この男の苦しむのを見たいのか。
絶叫と血の色が、削り取られていく脆弱な命が、自身に喜びを与えんとしているのか。
しかし、共通していることは、この男を痛めつけるべきであるということ。
そう、俺は、少なくとも今の俺は。
唯一悦びを感じるのは、人の死に触れるとき。
裏切り
「…急ぐか」
クラピカのその言葉は、走るか、といいう意味だ。
「そうだな、ちんたらしてるうちに何かあったらまずい」
そう言い、ネクタイを少し緩めるレオリオ。
普段からスーツを着用するこだわりは、今も変わらないらしい。
そんなレオリオを見て、慌てたようにゴンは言った。
「レオリオ、大丈夫?急ぐって、物凄く早く走るって意味だよ?」
「なっ、なんだよゴン、まるで俺がついていけねーかもしんねえみたいな言い方じゃないか」
「…確かに、レオリオには少々厳しいかもしれんな、スピードは出し過ぎないようにしよう」
「なっ…クラピカまで」
レオリオは言葉を失い、渋々といったふうに、肩を落とし、言った。
「まぁ…結局足を引っ張ることになりかねねーかんな」
「…ううん、正直脚力に念を使って走るのは、
今のクラピカにも負担になるはずだから、ちょうどいいよ」
本当にいつも無茶するんだからクラピカは、と溜息まじりに言うゴンに、
クラピカは叱られた子供のように、すまない、と肩を竦めた。
そんな二人を、レオリオは剣呑に目を細めて見る。
「まったく、甘いな」
「え、何が?」
まったくわからない、というふうに首を傾げるゴンに、レオリオはやれやれと溜息をつき、
いいかげん急ぐぞ、日が暮れちまう、と、先立って走り出した。
ゴンとクラピカも、その後に続く。
以前は、カナリアが立っていた場所に、見知らぬ顔の少年が立っていた。
キルアが以前、カナリアも執事見習いを卒業したと言っていたから、
おそらく代わりの執事か、執事見習いだろう。
当然のように、ここから先は私有地、入ることはまかりならない、と決まりきった台詞を、
カセットテープを再生するような無機質さで言い放つ少年。
一目で、ゴンやクラピカの力量が分からないはずもなかったが、
それでも少年は、主の命令に従うだけであった。
勿論、そんな少年の命をゴンが容易く奪うような真似をするはずもなく、
素早く少年の腕を掻い潜り、鳩尾をついて気絶させた。
「…執事の館の場所、覚えてる?」
少年を抱きかかえ、途方に暮れたようにそう言ったゴンに、
覚えてるわきゃねーだろ、何年前の話だと思ってるんだ、とレオリオが言い、
対してクラピカは、何とか、と、要領を得ない面持ちで、曖昧に頷いた。
しかし、クラピカの記憶はやはり頼りになるようで、無事、執事の館に辿り着く。
すると、前回と同様、一体いつの間にゴンたちの来訪を嗅ぎ付けていたのか、
執事たちは横一列に並び、深々と頭を下げた。
執事たちの真中に、ゴトーが立っていた。
他の執事たちの顔ぶれは、以前と同じにも見えたし、
何人かは入れ替わっているようにも見えた。
ゴトー以外の執事とは言葉を交わさなかったので、記憶力の良い方であるクラピカやゴンも、
さすがに失念してしまっていた。
「お待ちしておりました。お久しぶりです、ゴン様」
面を上げたゴトーを見て、ゴンは、少しやつれたな、と思った。
言ってはなんだが、こんな家の執事として働いていて、
神経が削られないほうがおかしいとは思うが、
多少はキルアのことも関係しているように思えた。
「外で立ち話もなんですから、どうぞ中へ。
お急ぎでしょうが、本邸へはそう簡単には辿り着けません、
本家の人間でさえ、執事が数人付き添ったり、
本邸まで直接気球に乗って行かれることがあるくらいですから」
そうにこやかに言い、ゴンの腕に抱き抱えられている少年を見て、
お手を煩わせてしまい申し訳ない、と頭を下げ、他の執事に、
少年を寝かせておくよう言いつけた。
執事の館は、八年前に訪れたときと同じ荘厳さをもって、三人を迎え入れた。
そして、八年前と同じように、ロビーのソファに腰掛ける。
ゴトー以外の執事は席を外し、暫し静寂が辺りを満たした。
やがて、空咳をし、ゴトーが口を開いた。
「…キキョウ様から連絡がありまして、あなた方が再びこちらへ向かっていらっしゃると。
それで私たちは、あなた方を出迎えるよう言いつけられていたのです」
「なんだって?一体いつ気付いたんだ」
「キキョウ様の頭部に装着されているメカには通信機能がございますので。
特定の範囲でのことでしたら、ある程度は把握していらっしゃいます。
ご安心ください、ここはその範囲には含まれておりませんから」
ぎょっとしてそう言うレオリオに、ゴトーは冷然として答えた。
「そんなことを教えてしまっていいのか」
「特別、隠されていることではございませんので」
「それより、キルアは?」
先んじて、ゴンが言った。
ゴトーは暫く黙り込んだ。言葉を探している、というよりは、
事態の深刻さの余り、それを口にするのを躊躇っているようであった。
「…おそらく、ご想像の通り…酷く塞ぎこんでおられます。
それだけでない、時折気がふれたように暴れたり、物を破壊したりするようになって…
先程も、使用人の家のドアの鍵が全て壊されていたと、報告があったばかりです」
「それで、キルアはどこにいるんだ?」
レオリオが身を乗り出す。
ゴトーは眉根を寄せた。
「…それが、昨日の夜までは、この館の中にいらっしゃったはずなのですが…
使用人たちにも聞いてみたのですが、キルア様を目撃したという者はおらず、
おそらく本邸のほうにいらっしゃると思われるのですが」
「どうして?キルアは、カナリアと過ごした部屋に戻りたいと言って、
こっちに戻ってきたのに?」
気色ばんで言うゴンに、ゴトーの表情が益々曇る。
おそらく、これ以上先を言うのを恐れてのことだろう。
額に汗が滲み、顔面はみるみるうちに蒼白になってゆく。
しかし、やがて意を決したように、口を開いた。
「…この際、言ってしまいましょう。
雇われの身でこんなことを話すのは些か憚られますが…
奥様もおそらく、私どもの思惑を見抜いておられでしょうから。本当の話をします。
カナリアを手にかけたのはキキョウ様です。ですが、妙におかしなことがあるんです」
「おかしなこと?」
クラピカが片眉をあげる。ゴトーは頷いた。
「私たち執事は、否、正直に申し上げますと、使用人の大半は、キルア様についております。
といいますのは、ゾルディック家の伝統を重んじ、その家風のほうを支持するのが保守派、
それとは反対に、キルア様の掲げる新たなゾルディック家方針に従うほうが、
我々使用人の大半が属している新派なのであります」
「と言うと?」
「キルア様は、長いゾルディック家の歴史の中でも歴代一の才能をもちながら、
使用人たちから慕われる人柄でいらっしゃる。これは分かっていただけますね。
私どもも、もはやゾルディック家ではなく、キルア様に仕えているような心構えでありまして。
水面下で、キルア様はこの家を支配する計画を立てておられた」
「…それ、ちょっとだけど聞いたことある。
いずれカナリアさんと結婚して、家族は捕えてハンター協会に差し出してしまうつもりだと」
ゴンは沈痛な面持ちで言った。
その夢は、最早叶わぬものとなってしまったのだ。
ゴトーは眼鏡を押し上げた。
「ご存知ならば話が早い。ともかく、キルア様は既に、家業を継ぐという意味では、
ゾルディック家当主になる心持ちではおられなかったのです。そのうえで、戻られたのです。
しかし、それを知らぬキキョウ様はたいそう喜ばれまして…
一般の家庭と比べれば異様な家ではありますが、
純粋に母親として、息子の帰りを嬉しく思った気持ちもあったでしょう。
そのことを考えると、奥様を賞金首として捕えることになんの躊躇いもないキルア様が、
少し罪作りに思えてもしまうのですが…いえ、その話は置いておきましょう。
ともかく、キキョウ様は八年ぶりのキルア様のお戻りに、今度こそはと意気込みまして。
キルア様を跡継ぎにするための様々な準備を始めました。
流星街へ、キルア様に相応しい奥方を探しに出向かれたり、そして…不穏分子の抹殺」
ゴトーの眼鏡の下の瞳が、冷たく光った。
ゴンははっとして、眉を顰めた。
「それが、カナリア…」
「これは暗黙のルールですが、やはり雇用主と使用人の色恋沙汰はご法度ですからね。
身分もつり合わなければ、力量もつり合わないでしょう。
しかし、これだけ広い敷地ですから…
奥様やシルバ様の目の届かぬところで、何があるかわからない。
まして、私たち使用人はキルア様を擁護するありさまですし。
かといって、そんな私たちを全員処刑にすれば…掃除夫のゼブロからも聞いたでしょう。
キルア様は今、試しの門を最大重量まで開けることができる。
この家を離れている間にキルア様がその身に培った力…
それを思えば、無闇に私たち使用人を片っ端から処刑しては、
キルア様の逆鱗に触れないとも限りませんから。
さすがのキキョウ様も、そこまではできなかったのでしょう。
そして、ここから先は私の勘ですので、確かなことは何も言えないのですが…」
そう言うと、眼鏡を外し、スーツの袖で拭って、かけ直した。
息をつくと、ふたたび口を開く。
「どうも、スパイとしての使用人を、キキョウ様が個別に雇ったようなのです」
ゴンは大きな目を見張った。
レオリオは腕を組み、眉間に深い皺を刻んで、ソファの背に凭れ掛かった。
クラピカは目を閉じている。
「…新人で、しかも個別に雇われた人間なら、保守派も新派もないですからね。
金に目の眩んだ人間ですから、雇用主の人格云々はどうでもよいのでしょう。
まあ、それもあくまで憶測でしかないのですが。しかし、そういう人間でもいないと、
キキョウ様の耳にキルア様とカナリアの関係が入るはずもないですから。
新派を装って、キルア様とカナリアの関係を聞き、それをキキョウ様に密告する。
そう考えないと、何もかも自然でないんですよ。
キルア様が戻られる前にも、二人は密に連絡を取り合っておりましたし、
カナリアも休みがとれると、キルア様に会いに行ってましたからね。
それでも、これまでずっと、ばれずにきたのですから。
だからこそ、キキョウ様も、キルア様とカナリアの関係は、
一事の気の迷い程度にしか思わなかったのでしょうから。
キルア様のこの度の憔悴と怒りを目の当たりにして、
ようやく二人が本気で愛し合っていたと気付かれたようですし。
キキョウ様も、怒れるキルア様に一度瀕死の状態まで追い込まれましたから、
そうなることを想定されていたなら、さすがにここまでのことはなさらなかったでしょう。
とにかく…今回の件はあまりに不自然です。キルア様もおそらく、それに気付いたのでしょう」
「気付いた、って?」
「ということは?」
「まさか、キルアはそれが誰か分かって…?」
それぞれが身を乗り出して、尋ねる。
ゴトーは頷きすらせず、黙りこくったが、やがて、深い溜息とともに、重い口を開いた。
「…あくまで、憶測ですが。これは私たち執事の間でも噂されていることです。
実は、数ヶ月前、私たちの面接を通過せず、
キキョウ様が直接スカウトしてきた使用人が雇われまして。
その男が、キキョウ様に執事室の掃除を仰せつかったとかで、
よくここを出入りするようになりましてね。
今まで、この館の掃除は執事見習いが行っていましたから、
雑役の男が出入りするなんてなかったのですが、
執事の中でも古株のジェシーもそのことをキキョウ様から直々に伺ったというもので…
あれは信頼のおける男ですから、私もあまり疑問には思わなかったのですが…
どうにも、その雑役の男というのが、妙なのです、
なんともいやらしい目つきをしているというか…独特の…」
そこまで言うと、ゴトーは力なく首を横に振った。
「ジェシーには後々問い詰めるつもりでいます。
もし、やつがその雑役とグルだったというのなら、
カナリアの死の責任は、そのことを見抜けなかった私にも問われるべきですから。
もし、私の憶測が当たっているのであれば、もうキルア様に顔向けできません。
あんなに辛そうなキルア様を見るのは、初めてのことです」
そして、深く項垂れた。
重苦しい空気がたちこめた。それぞれが、最悪の事態を想像した。
もし、自分がキルアと同じ立場だったなら。自害するか。悲しみを堪えるか。怒りを抑えるか。
―――否。裏切り者を、許さない。
「もし、俺がキルアと同じ立場だったら…」
「俺がキルアと同じ立場だったら、その男を許せるわけがねーな」
「私がキルアだったら……憎しみを抑えきれない」
―――殺す。
ゴンが立ち上がった。
こうはしていられない、と、両隣の二人も、立つように促す。
「キルアは駄目だ。もう、人を殺したら」
ゴンは、言葉にするのももどかしい思いで、そう言った。
「カナリアと誓ったんだから、暗殺家業に終止符を打って、
新しいゾルディック家の歴史を築くって」
「例え、憎しみに身を窶しても、辛くても、殺意を抑えなければ」
「…救いがなくなるな。結果としてキルアは、自分を余計に追い詰めることになる」
「案内しますよ」
ゴトーも立ち上がった。
その声には、覚悟があった。
死か、あるいはゾルディック家との決別か。
「私の勘が正しければ、キルア様はその使用人を楽には殺さないでしょう。
おそらく、本邸の拷問部屋で……日が暮れると樹海は抜けにくくなります。急ぎましょう」
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
キルアはしかし、既に本邸にはいなかった。
ゾルディック家の人間は、拷問への耐性を高めるための教育を受けてはいるが、
実際に拷問に合うはめになるようなへまはしないし
(家族から受けるお仕置きと称した拷問は別だが、
それも傷跡が永遠に残るようなことはされなかった)、
また、キルアは自身が拷問という行為に興味がなく、また敵を甚振る習癖がなかったため、
拷問というのが具体的にどういうレベルのものなのかあまり認識がなく、加減ができない。
まして、この―――今は麻袋に詰められ、無残な肉塊と化した遺体―――
男への憎しみを思えば、殺してやりたい、より強烈な痛みを与えてやりたい、
その気持ちばかりが先立ってしまい、
予定よりも早く絶命させてしまうことは、想定外でなかったとも言えなくもない。
―――それにしても。
麻袋を引きずりながら、
血に汚れた顔になんの思いも浮かべず、キルアは思った。
―――この男の娘と孫は、もしこの男の死を知ったなら、どんな気持ちだろう。
同じように、俺を憎むのだろうか。
俺がこの男を憎んだのと、同じように。
彼女たちは今後どのようにして生きていくのだろう。
一生、その憎しみを胸に抱いて。あるいは、復讐を誓うのだろうか。
彼女達には何の罪もないのに、その身を悲しみに窶さなければならない。
―――どのみち、金のために他人の命を売るような真似を、平気でできる男だ。
今のうちに始末しておかなければ、また犠牲者が出ていたかもしれない。
それに、自分が味わった苦しみを、この男の娘と孫に味わわせるのは、
この男にとって、死より耐え難い苦しみ、なのかもしれない。
だとしたら、予定外に早く絶命させてしまったことと合わせて、
丁度採算の合う苦しみをこの男に与えることができたわけだ。
―――なのに。
この空虚さは何なのだろう。
何か、大切なことを忘れてしまっている、否、
この男を殺したことで、その大切なことが欠如してしまったような、この気持ちは。
今は、カナリアを失った悲しみと、この男を殺したことへの悦びと。
それ以外の感情なんて、感じることができないはずなのに、否、
その二つの感情なら、感じることができるはずなのに。
不思議なほど、何も、感じていない。
樹海の中ほどまで来ると、キルアはその袋を置いた。
そして、ポケットからこの男のものだった手帳を取り出すと、その袋の上に放り投げた。
忌まわしい男。忌まわしい記憶―――
暫し、その二つを眺めた。
自分自身の何かと決別するかのように。
そして、ゆっくりとしゃがみ、麻袋の紐を握り、電流を流した。
たちまち、炎が生じ、あっという間に紐は燃えつくされ、袋に引火した。
夕日の朱色がうっすらと差し込むだけの密林は、まるでそこに太陽を連れ込んだかのように、
赤々とした炎に照らし出される。
活動を始めた夜行性の鳥達が、ぎゃーぎゃーと鳴きながら、慌てて去っていく。
あたりにたちこめる熱に、小動物や昆虫が、驚き逃げていく。
人肉の焼ける独特の悪臭と煙が、木々たちをざわめかせた。
―――終わったのか、これで。
男への復讐、カナリアとのこと。
全て。
…否。
―――まだ、始まったばかりだ。
キキョウ。あの女の始末、そして、執事のジェシーもだ。
ジェシーがジャンに加担せざるを得ない状況を作ったリンも。
裏切りに繋がっていた人間は、全て消してしまわなければ。
すべきことは、ありすぎる。
なのに、なんなのだろう、この空虚さは。
全てが終わってしまった後のような気だるさ。
何もしたくない、何も考えたくない、何も。
カナリアは死んだ。男も死んだ。
生きる糧も、生きる目的も失った。
やっと見つけた自分のやりたいこと。それが、こんな形に終わってしまった。
母親を殺し、執事を殺し、メイドを殺して、それで?
その後、一体どうすると。復讐を終えた後に、何をしろと。
分かったことは一つだけだ、やはり自分は人殺しだ。
殺し屋以外の何者にもなれない。カナリアと誓ったことも守れず、
全てはキキョウ、シルバ、イルミ…やつらの思う壺だったわけだ。
ゾルディック家は暗殺一家、それ以外の何でもない、と。
思い知っただけだった。
自分は今は亡骸と化したこの男を痛めつけているとき、何を感じていた。
正直に答えろ、一体何を感じていた―――
「キルア!」
キルアを思考の渦から引き戻す、声がした。
誰の声だか、聞きたがうはずもなく、しかし今のキルアには、
振り返る気力も、まして勇気も、なかった。
今はこの気だるさに身を任せ、遺体の発する熱に身を委ねていたい。
「キルア、いったい…」
「キルア様…!」
「キルア、まさか…」
樹海の一部が突然、煌々とした明かりを発したので、
すぐさま一同は軌道を変え、こちらへと向かった。
ゴンは、そして他の三人も、燃えている何かと、キルアを交互に見た。
辺りにたちこめる悪臭に、クラピカは思わず口をおさえ、蒼白になってよろけた。
慌てて、そんなクラピカの肩を、レオリオが支える。
「キルア…」
振り返りもせず、微動だにしないキルアへ、そっと、ゴンは手を伸ばした。
「触るな」
突き放すような、棘のある声に、その手はびくりと止まり、行くあてを失くす。
ゴンが止まったのを気配で確認して、キルアは言った。
「…俺は人殺しだ。今の俺に近づいたら、たとえお前達でも、殺しちまうかもしれないぜ」
言いようのない沈黙が降りる。
薄々と感じてはいたものの、それでは―――やはり、燃えて悪臭を放っているこれは、やはり。
「キル…」
「やっぱり俺は、人を殺せるか殺せないかでしか判断できない…
この男を殺すのは、腕鳴らしにもならないほど、容易いことだったぜ。
恐怖にもがき、泣き叫びながら息絶えていくさまは、俺に至上の悦びを与えた…
ゴン、おまえはどうかな。俺を楽しませてくれるかどうか…
俺とおまえ、どっちがより強いのか」
「キルア!」
クラピカの蒼白な顔に、さっと赤い色が過ぎる―――緋の目だ。
よせ、とレオリオがクラピカを羽交い絞めにする。
クラピカはその腕を振りほどこうと暴れたが、
再び吐き気が襲い、口元を押さえて、大人しくなる。
「…キルア…」
「…なんだ」
キルアが言葉を言い切るか切らないかのうちに、
ゴンが素早くキルアの腕を掻い潜り、胸を肘でついた。
キルアはあっさりと意識を手放し、ゴンの腕の中に倒れこむ。
クラピカもレオリオも、ゴトーも、その様子を息を呑んで見守っていた。
腕の中でぐったりと、死人のように体重を預けてくるキルアを見て、
ゴンは、悲しみにくれた声で、呟いた。
「…本当にそう思っているなら…こんなに隙だらけなはずがないよ」
俺の知っているキルアは、もっとずっと強い。
ゴンはキルアの身体を肩で担ぎ、歩き出した。
三人も、ゴンの後に続く。
キルアを休ませる必要がある。ひとまず、執事室に戻ることにした。
to be continued.
20080929
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