ミルキの部屋から睡眠薬をくすねてきた。
それを、ふるえる手で瓶から手の平にうつした。五錠。
思わず致死量を取り出しそうになったが、薬殺はつまらない。
これは、心の底からの怒りと憎しみとで練り上げた殺人計画のほんの下準備にすぎない。
ワインのコルクを抜き、その中に睡眠薬を投入し、元通りにコルクを詰め、軽く振る。
アルコールが薬の効き目を増強させる。五錠で十分だ。
そうしてワインのほうの準備が整うと、
今度は壊れたデスクから落ちたメモ用紙の端切れに、ペン先をはしらせた。
文字が震えたが、かまっていられない。急がなければ、奴が戻ってきてしまう。
キルア様がおまえの部屋でご乱心のようだったぜ。
おまえ、何かしたのか?
面白いネタを仕入れたなら、また教えてくれよ。
ワインはほんの気持ちだ。
もっともらしい文章を書く。
あれだけの情報を持っているやつだ。
誰か同じ楽しみを共有できる仲間を持っているに違いない。
得意になって、話さずにはいられないはずだ。いちいちその仲間を調べるまでも無い。
そしてその情報を商売にしているのだから、
何かしらの物々交換がなされていると容易に想像ができた。
キルアは唯一無事だったサイドボードに、ワインを錘にしてメモを置いた。
準備はまだ残っている。急がなければ。
キルアは何か使命感にかられるように、部屋を再び後にした。
裏切り
部屋のブザーが押された。
はっとして顔を上げたのも、腰を上げたのも、二人同時だった。
クラピカを制して、俺が出るよ、とゴンは言った。
クラピカは、やや気懸かりな色をその目に湛えていたが、
そんな彼女を安心させるように、ゴンは頭をぽんと叩いてやる。
昔、クラピカがよくゴンにした仕草だった。
十代前半の頃こそ、嬉しそうにしていたゴンだったが、
次第にそれをさり気なく避けるようになっていた。
今思えば、年下であることと、
私より背が低いことがコンプレックスだったのだろう、とクラピカは思った。
今、身長差が逆転し、ああやって頭を叩くことは、
クラピカ自身を安心させるための仕草であると同時に、
ゴン自身の自尊心と満足感を満たし、不安を除くものであるようだった。
クラピカは彼を引き止めたい衝動にかられたが、己の身体を抱くように肘を抱えると、
ベッドから立ち上がり、隣室に設えられているソファへ腰かけた。
この部屋は入り口からは死角になる。
ドアの開く音がし、そしてその直後に、
懐かしい声が聞こえた。クラピカの胸がずんと重くなった。
おお、ゴン。本当に久しぶりだな。すっかり大人になった。
久しぶり、よかった来てくれて。レオリオはあまり変わらないね。
元々老け顔だったからな。おまえみたいに童顔だと、
いずれ老けたなってよく言われるようになるぞ、今のうちに覚悟しておけ。
あはは、仕事抜けて大丈夫だった?突然連絡してごめん…
二人の会話が徐々に近づいてくる。クラピカは指をかんだ。
二人は昔と変わらぬ言葉を交わしている。私は果たして昔のようにできるのか。
ゴン、助けてくれ―――
「クラピカ。レオリオだよ」
ゴンがドアから顔を出し、分かりきったことを言った。
朗らかな、しかしどことなく空気を探っているような笑みを浮かべて。
クラピカは微笑み返した。否、笑えたかどうかは分からない。
努めてそうしようと考えてはいたが。
ゆっくりと立ち上がる。
レオリオの大きな身体が、窮屈そうにドアをくぐった。
クラピカの鼓動が波打った。昔と変わらない彼の風貌に。
変わったのは、いつも身につけていたサングラスが、眼鏡に変わったことくらいか。
「クラピカ―――久しぶりだな」
懐かしい声が、その名を呼ぶ。
レオリオもまた、クラピカの名を呼ぶのは一体何年ぶりだろうか、と考えていた。
―――四年と三ヶ月ぶりだ。
クラピカと離れてから、毎日、彼女と会っていない月日を思い、数えていた。
だから、今更数えなおさなくても、すぐに思い出せたのだ。
「ああ―――レオリオ。四年ぶりだな。四年と三ヶ月か」
クラピカは曖昧に微笑みながら、右手を差し出した。
レオリオはその握手に応えながら、彼女の意外な返答に驚き、
そして胸の奥深くで奇妙な喜びを感じた。
彼女もまた、別れてからの月日を数えていたのだ。
もう、二度と会うことはないと思っていた―――
二人は今、同じ思いを胸に抱いていた。
その二人の間を、ゴンの腕が遮った。
「昨日緋の目になりすぎてたんだ。座らせてあげていいかな」
そう、クラピカの肩を抱いて、ゴンは言った。
その目は相変わらず邪気がなく、親しげだった。
言葉にも、ただ彼女を気遣うだけの色しか見受けられなかった。
しかし、有無を言わさぬ強さがあった。
彼女に触れる権利を持つ男は変わったのだと。
そう言っている様に、レオリオには聞こえた。
「…ああ」
レオリオは肩をすくめた。
「このまま立ち話で済むようなことでもなさそうだしな」
ゴンとクラピカはソファに掛け、レオリオは鏡台の前の籐椅子を引っ張り、
二人に向かい合うように置き、座った。
クラピカが、コーヒーを入れよう、と言って立ち上がりかけたが、
その手をゴンが掴み、いいよ座ってなよ、俺がやる、と言って入れ替わった。
クラピカは困ったように顔を顰めたが、
彼の言葉のもつ力の強さに負け、再び同じところに座り込む。
所在無げに面を伏せ、レオリオと目を合わせようとはしなかった。
レオリオも、なんとなく居心地の悪さを感じ、
外観のわりに広い部屋の中を、感心したように見回していた。
しかし、やがて沈黙に耐えられなくなり、口を開く。
「…大切にされてるんだな」
その言葉に、クラピカの顔が強張った。
恋人の誠実さを侮られたような気持ちになったその怒りと、
目の前の男の過去の裏切りに対する、未だ赦しがたい屈辱とが、
彼女の表情をそうさせたのかもしれない。
「…安心したぜ」
取り繕うように、レオリオはそう続けた。
再び沈黙が降りる。
何か。
レオリオは思った。
ずっとクラピカに、確かめたかったことがあったはず。
「クラピカ」
そう、名を口にしたときだった。
「レオリオ、ブラックでいいんだっけ?」
キッチンスペースから、ゴンの声がレオリオの声を遮った。
レオリオは慌てて口を噤み、そして思い出した。
ゴンの耳が、野生の獣のそれと同じように、敏いことを。
「ああ、頼む」
そう返すと、レオリオはゴンが戻ってくるまで、口を開くことはなかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
有刺鉄線のかたちをした鞭を手に取り、まじまじと見つめた。
古びて錆び付いたその棘は、なおのこと鋭さを増しているように見える。
所々に残っている赤黒い跡が、
手酷い拷問に課せられた裏切り者たちの絶叫を呼び起こさせるようだった。
試しに、灰色の煉瓦造りの壁を打ってみる。
鋭い音をたてて、壁に爪痕のような傷を作る。
キルアはそれを適当な場所に置いた。
手枷と足枷の具合を見る。螺子が一つ見当たらない。
念のため、補充しておく必要がある。
視界の端で、鋭い刃が光った。ギロチン台。あんな退屈なものを使う必要はない。
電動鋸…拷問というよりは惨殺に使うようなものだが、何かしらの役目を果たすかもしれない。
キルアはそれを、鞭の隣に、丁寧すぎるほどの仕草で置いた。
球体を銜えさせる形状の猿轡と、強酸の瓶。
各種麻薬が入った小袋。それをワゴン型の台の上に置く。
ふと、父のベンズ・ナイフ用のジュラルミンケースが目に付いた。
暗い色の戸棚の横に、それだけが異質のもののように置かれている。
父があれをこんなところに放置しておくなんて、と妙に思ったが、
深く考えずに、それも電動鋸の隣に並べた。
あらかたの準備が整うと、キルアは拷問部屋を一通り見回し、息をつき、部屋を後にした。
薄暗い廊下を歩いていると、ふと、向かいから誰かの気配が近づいてくるのを感じた。
この感じ―――この機械音。母のキキョウだ。
キルアは一瞬で沸点まで達した殺意を、すぐさま絶ち、極めて平静を装って、廊下を歩いた。
母の姿がようやく目の前にあらわになる。
他ならぬ目の前の息子の手によって負わされた傷で、
キキョウは最早自分の足で歩くことすらかなわなくなっていた。
今は電動の車椅子が彼女の足。目も、視力を失っているだろう。
既に頼りは自身の感覚と聴力と嗅覚のみ。
しかし、母は気配で息子と対峙していると気付いても、臆する様子は見せなかった。
寧ろ、先ほどこの息子が発した凄まじい殺気に、喜びさえしているようだった。
「まあ、キル、この先は拷問部屋しかないはずだけれど。一体何をしていたのかしら」
声すら、おぼろに霞んでいるようだった。
そんな母の姿を痩せた頬で笑い、侮るようにキルアは言った。
「さあね。あんたの喜びそうなことさ」
そして、その包帯に覆われた耳元に口を近づけて、
「あんたの望むような殺人鬼になってやるよ。最初の犠牲者はあの薄汚いジジイだ。
その次はあんただ。喜べ、思いつく残酷の限りを尽くして殺してやることをな」
そう吐き捨てるように言い放つと、窪んだ眼を見張って、重傷の母の身体を突き飛ばした。
車椅子ごとひっくり返り、キキョウはヒステリックな叫び声をあげた。
キル、キル!息子の名を何度も呼ぶ。
しかし、彼の気配が本邸から一切消えたことを認めると、電池が切れたように無言になり、
むくりと起き上がり、なんとかかんとかして再び車椅子に座ると、
キィ、キィ、と不気味な機械音をたてながら、
もと来た道を戻り始めた。
「なんだかキルは醜くなっていたようだわ、
いやね、折角可愛く産んであげたのに…許せないわ…」
その双眼は最早何を映すこともかなわぬ筈なのに、まるではっきりと見たかのように、
そうぶつぶつと呟きながら、キキョウの姿は闇に溶けていく。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「…恋人を失って自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯す例は珍しくないな」
レオリオは辛い面持ちで言った。
「まして、キルアは思いつめやすいタイプだから…
さっきクラピカとも話したんだけど、変な気を起こさないか心配で。
カナリアと過ごした部屋に戻りたい、一人にしてくれって言うから帰したけど、後悔してる。
やっぱり直接ゾルディック家に行くべきだ。今の俺達の力なら、
執事の館までなら今から急いで夕方までには着く」
二人の会話に、たった今まで加わっていたクラピカは、
信じられない思いでレオリオの言葉を聞いた。
恋人を失って自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯す例は珍しくない。
そうと分かっていながら、どうしてあのとき、私を裏切るようなまねができたんだ。
「…ピカ…クラピカ!」
ゴンに強く名を呼ばれ、はっとして顔を上げる。
気遣わしげに様子をうかがう、ゴンの顔が目の前にあった。
「どうしたの?ちょっと疲れた?」
「あ…いや」
額に手を当て、軽く頭を振ったクラピカに、レオリオは尋ねた。
「昨日のキルアの様子を、もう一度詳しく話してほしいんだが」
レオリオは医者の目になっていた。
なのに、クラピカは何故か患者ではなく、
裁判の席でで証言台に立たされた証人のような気持ちになる。
被告人は、キルアか。さしずめレオリオは裁判官か。
クラピカは大きく息をつくと、気持ちをおちつかせ、口を開いた。
「…私たちがホテルにつくと、キルアはすっかり憔悴しきっていて…
何と言えばいいかな、とにかく言葉に言い表せないほど、その…辛い様子だった。
ほんの数日の間に痩せ細ってしまったのだろうというのが、一目にわかった。
顔色は悪く、頬は扱け、目は落ち窪んで…何日も寝ていなかったのだろう。
彼は静かにカナリアの身の上にあったことを話してくれた。
しかし、そのうちに落ち着きをなくし、取り乱して、泣き叫んで…」
ふと、クラピカの様子に異変を感じ、レオリオは眉を上げた。
そして、はっとしたように目を見張る―――緋の目だ。
ゴンは慌てて、クラピカに話すのをやめさせようとする。
「クラピカ、もういい、もう思い出さなくていいから」
そう宥めるように言って、彼女の頭を胸に抱いた。
必死に、その肩を、背をさする。
彼女は震えていた。震えながら、助けを求めていた。
ゴン。ゴン―――助けてくれ。
「ごめんね、クラピカ。辛いことを思い出させたね」
ゴンはそう言い、クラピカの額に唇を落とすと、彼女を抱いて立ち上がり、
レオリオを睨みつけ、寝室へ向かった。
―――なんで。
レオリオは腑に落ちない。
何で俺が、睨まれなきゃならないんだ?
そんな思いが胸を過ぎったとき、ひとつの光景が、フラッシュバックした。
『浮気はどこまで行っても浮気だよ、レオリオ―――裏切りは裏切り』
あの氷のような、グリーンの瞳。
『裏切りを肯定しようっていうなら、俺もあんたを軽蔑するね。
俺は別に、浮気はばれなきゃ浮気じゃないって思ってる。
俺が浮気をするかしないかは別として。
けど、あんた―――“あの”クラピカだよ。
浮気が“ただの”浮気で済まされるわけがないだろ。
それくらい分かってて、あんたは過ちを犯したんだろ』
蔑視を極力向けまいとして、伏せられた白い瞼。それを縁取る銀糸の睫。
『あんた、好きな女すら幸せにできないで、患者を幸せにできると思うか?
ああいう浮気や不倫の概念のない女には、より誠実な男が相応しい。
そう、よりあの女に相応しいその男を、俺は知ってるから』
そして最後には、躊躇わず、あの冷たい視線を俺に向けた。
『悪いけど、擁護はできない。あんたみたいな男には、
ああいう御堅い女はいずれ重荷になる。
いい機会だったんだと思って、全て…忘れろよ』
―――そうだ。
レオリオははっとして、思わず立ち上がったが、
酷い眩暈を感じ、またすぐ同じ椅子に座り込んだ。
先刻の、あのクラピカの取り乱し方。
あれはレオリオの過ちが露見したときと同じものだ。
緋の目は、キルアの焦燥を目の当たりにし、
自身の辛い裏切りの記憶に重ね合わせたからだ。
悲しみは深く根付き、心を蝕み、やがて土に還ったように見せかけて、
忘れた頃になって、不意に首を擡げる―――胎児が這い出るように。
そして、悲しみは連鎖となる。
クルタ族壊滅の悲しみと怒りとがやがて風化しようとも、
頃合いを見計らって、新たな悲劇が開幕される。
―――なんていうことだ。
息が上がる。ネクタイを緩めたが、それでも息苦しさは変わらない。
俺はあいつの心に、取り返しのつかないトラウマを植え付けちまったというのか―――
病に倒れた友を救うことができなかった。
あのときの、深い自責の念が胸に甦ってくる。否、あの時より酷い。
病魔を植えつけたのが、他ならぬ自分自身なのだから。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ごめんね…」
疲れたのか、あのまま胸の中で眠ってしまったクラピカを抱いたまま、
ゴンもベッドに横たわっていた。
子供を寝かしつけるように、そっと、ブロンドの髪を撫で続けている。
「会いたくなかったんだよね…思い出したくなんか、なかったんだよね…
俺が、クラピカを信じることができなかったから、少しでも、疑っちゃったから。
それに気付いていたから…会わないわけにはいかなかったんだよね」
涙腺に、控えめに涙が浮かんだ。
しかし、泣くわけにはいかなかった。昔、彼女の前でだけ弱音を吐いていたようには。
今は、自分が彼女を護るべき男となったのだから。
彼女が不安になっているとき、自分まで取り乱してしまうわけにはいかなかった。
ゴンは震える息を吐いた。
「もう、疑ったりしない。疑うことも、立派な裏切りだ。
信頼に対する裏切り。そうだよね。
俺は絶対にクラピカを失いたくない。
俺を失いたくないって思ってくれてるクラピカのためにも、
俺は俺自身を見失うわけにもいかない。
俺は何も失いたくない、レオリオのように、失いたくない。
そう、レオリオ…」
ブロンドを撫でる手が、その声に同調して震えた。
「“…恋人を失って自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯す例は珍しくない”…
珍しくない、だと…」
それならどうして、彼女を裏切るようなまねができた。
自殺、犯罪。そんなことを簡単に言えるくらいなら、なぜ。
まるで、診察をするような口調で。
最早、同情の余地などなかった。
それでも、かろうじて残っている理性が、
彼の供述に耳を傾けようという気持ちを起こした。
足音が近づいてきたので、レオリオは顔を上げた。
目の前にいるのはゴン一人だった。
ゴンは、レオリオの表情が、
何故かこの数十分間の間だけで随分やつれたように見え、怒りを殺がれた。
しかし、ともすれば旧友を怒鳴りつけてしまいかねなかったので、
それは良い鎮静剤となりえたのかもしれない。
表情をかたく強張らせて、ソファに腰掛けた。
「…教えて欲しい」
レオリオが、何を、と言いたげに眉を上げたのを気配で感じ取りながら、
ゴンはつとめて冷静でいるようにしつつ、言った。
「その四年と三ヶ月前に、クラピカを傷つけた理由を」
単刀直入な物言いに、レオリオはすっと熱が顔から引いていくのを感じたが、
証言台に立たされた、罪の目撃者のように、彼は語らざるを得なかった。
深く、息をつき、あの日起こった出来事を、順繰りに思い出す。
それは辛い作業であったが、一つ一つを鮮明に思い出し、仔細に渡り話す必要があった。
擦れ違いが裏切りを生んだ。些細な猜疑心が、過ちを犯した。
誠実の塊のような男に話すには、根本から受け入れられないような話を、
自分なりの見解をもって説明をするのは、非常に困難なことのように思えた。
「…分かった。一体、どこから話せば良いか…」
レオリオは重い口を開いた。
to be continued.
20080920
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