―――人を殺すつもりだった。肉親をだ。
家業を継ぐつもりはなかったが、家のことが全く気がかりでなかったわけじゃない。
ずっと家にいたくはなかった。けれど、嫌いな人間ばかりがあそこにいるわけじゃない。
少なくとも、家族以外は。
俺の家族の首をハンター協会につきつけて、
ブラックリストハンターとしてシングルの称号を頂くつもりだった。
使用人たちも俺の方針に同意してくれるはずだ。
誰もうちの家業のほうを崇拝しているわけではない。
給料を上げるといえば誰も不平不満を連ねたりしないだろう。
幸い、執事たちは皆、俺についてくれている。勿論、極密にだ。
そう、ゾルディック家のあり方を、根本から変えていく必要があった。
家族さえ、家業さえなくなれば、居心地の良い家だ。
それに、彼女がいる。
親父たちが居なくなったあかつきには、彼女を妻に迎え、
新しいゾルディック家の歴史が幕開けとなるはずだった。
少なくとも、ほんの数日前までは。
裏切り
浴槽を見て、思わず赤面してしまった。
泡風呂になっている。
これは、私たちの間の、ある“合図”だった。
確かに、誘ったのは、私のようなものだが。
「ゴン、その…」
その、済ませてから、シャワーというのでは。
そう言いたかったが、その言葉は彼の唇に飲み込まれた。
服を脱がされる。白いシャツからはじまり、ベルトを外され、ファスナーを下ろされ、
胸を包む下着のホックを外され…ズボンは自ら脱いだ。
彼は唇を離さないまま、私の胸に触れ、片手で自身のシャツを器用に脱いでいた。
いつから彼が私を支配するようになった。
わからない。しかしそれは、私が自ら望んだことではないか。
まだこういう関係になる前、彼が私の背を追い越すか越さないかの頃。
ゴンとキルアと私の三人で談笑していたとき、不意に、
キルアが意味深な笑みをゴンに向け、席を外した。
あのときの、ゴンの恥らった赤い顔。
キルアの計らいによって二人きりになったとき、あのときから―――
純朴なはずの青年に支配されることで、私の欲望はより高みへと上り詰めさせられるのだ。
ゴンは、一緒に入浴するときには決まって、私の身体を丁寧に洗ってくれた。
だから私も、彼の身体を洗ってやるようにしている。
髪だけは、上手くできずに耳や鼻の穴に湯を入れてしまうので、お互いに自分で洗う。
それにしても。
彼の黒い髪や、眉や、そのほかの体毛を見ながら、私はふと別の男を思い出す。
男というのは、女の身体を洗いたがるものなのだろうか。
「クラピカ」
不意に名を呼ばれ、私は胸のうちを見透かされたのかと思い、どきりとした。
上を向くと、ゴンが蒸気にあてられたのか、赤い、困ったような顔をしてこちらを見ている。
「そんなにまじまじと見られると、さすがに恥ずかしいんだけど…」
言われて、はじめて気がついた。
彼のペニスを握ったまま、私は固まっていたのだ。
私は躊躇わず、それに舌を這わせた。
驚き、彼は短く叫んだ。
「クラピカ、そんな…いいよ」
「したいんだ、私が」
腰を引こうとする彼の脚の付け根を掴み、引き寄せた。
「っ…クラピカ…」
苦しげな彼の声に、私は満足する。
できるだけ根元深くまで口に含み、舌先で擽るようにして、吸った。
無意識なのだろう、喘ぎながらゴンは私の髪を掴み、より強く押し付けようとした。
他の男の裸を思い出していたことを詫びるつもりでしたのではない。
ゴンはきっと、私以外の女と性干渉をもったことなどないだろう。
私とこうなる以前は、どうだったか知れない。けれど、過去のことは重要ではない。
今、彼が私以外の女を見ていないことが、重要なのだ。
長らく私以外に触れていない、綺麗な身体。
ゴン。私はレオリオには、こんなことまでしてやらなかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
ホテルまでのタクシーを拾おうかとも思ったが、
観光がてら徒歩で行こうと思い直したので、
到着した頃には随分と日が暮れてしまっていた。
パトギアに来るまでは、飛行船も直行便のチケットを取り、急いで来たのに、
ここまで来て、つい足取りが重くなってしまっている。
病院をいつまでも閉めておくわけにはいかない。貧しい、病気の子供達が、
今も破格の診察料の医院の再開を待ちわびているに違いないのに。
クラピカに会うのが怖いのか。それとも、幸せそうな二人を見るのが怖いのか。
大切な友人二人が愛し合っている。
こんないいことはないのに、心から祝福できない自分がいる。
―――“誠実な”二人のことだ。ゴンも成人したし、クラピカも適齢期だ。
おそらくじきに婚約するだろう。
あるいは、もう。
彼女を失ったのは自身の過ちが原因であるのに、であるからこそ。
彼女に会いたくなかった。
もし、過ちを犯したのが自分ではなく彼女だったなら。
赦しただろう。泣いて謝る彼女を胸に抱き、
大丈夫だ、全て忘れろと言って、キスをして。
それで終わるはずだった。自分には、
不安に心が揺れる人間の弱さを理解できる強さがあると自負している。
それとも。
自分自身の過ちに、“不安に心が揺れた弱さの結果”という、
免罪符を与えたいだけなのだろうか。
一瞬の疑心暗鬼が、取り返しのつかない裏切りを生んでしまった。
彼女を信じることのできなかった自分の非だ。彼女を責めることはできない。
まして、自分自身も新しい恋人と暮らしている今は、なおさら。
簡素で、ホテルと呼ぶにはややこぢんまりとしていたが、
まだ新しく、掃除の行き届いた綺麗な内装だった。
フロントに、ゴン・フリークスとその連れの友人で、ここで待ち合わせている、と伝えると、
受付嬢はマウスとキーボードで部屋の確認をした後に、電話をかけた。
短いやりとりが終わると、受話器を置き、確認がとれましたので、どうぞ。
とだけ、にこやかに言い、部屋番号を告げられる。
短く礼を言うと、エレベーターに乗る前に、自動販売機で煙草を買った。
ロビーの椅子に腰掛け、一服する。
医者になってから、久しく吸っていなかった。
何度か咳き込みながら、一本を吸い終えると、立ち上がった。
エレベーターに乗り、伝えられた部屋番号の頭の数字のボタンを押した。
ドアが無愛想に閉まる。箱は無慈悲に昇っていく。
絞首台への階段をのぼっていくとしたら、こんな気持ちだろうか。
クラピカとは、別れを告げられて以来、会っていなかった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「レオリオが着いたみたい」
受話器を置き、ゴンはそう言った。
ドライヤーで髪を乾かしていたクラピカは、なんて言った、と聞き返したが、
このタイミングにフロントからの電話。どういう用件かなどというのは容易に想像がついた。
ドライヤーのスイッチを切り、洗面台に置いた。
部屋に戻ると、ゴンは既に白いTシャツにデニムのパンツというラフな格好に着替えていた。
電話から離れたゴンにすれ違いざま、頬に短いキスをした。
ゴンは、レオリオが来たって、ともう一度言った。
今度は、だから早く服を着て、という意味も込めて。
クロゼットから新しい下着を取り出し、身につける。
薄い水色のシャツに、白のストレートパンツをはいた。
動くたびに、ペンダントの鎖が音をたてた。
先端にはルビーの石が。彼女の耳飾りと似ているという理由で、
ゴンがプレゼントしたものだった。
あくまでも、耳飾りと相性のいいものを、と考えて、
沢山の店をまわり、何度も比較をしてプレゼントを決めたゴンと、
つけていて邪魔にならないものを、と考えて、山積みの雑誌をチェックし、
若い女性に人気のブランドの、華奢なネックレスを選んだレオリオ。
流石にプレゼントの趣味までかぶらなかったことに、クラピカは内心ほっとしていた。
ベッドの端に腰掛け、何か考え込むようにしているゴンの隣にクラピカも腰を下ろし、
彼の太腿を労わるように撫でた。
「どうした?」
「いや…ちょっとね」
気遣わせたことをすまなく思ったのか、
努めて明るく振舞おうとする彼に、クラピカは心が痛んだ。
彼の考えていることなどすぐに分かる。
何故って、すぐに顔に出るからだ。本人は気付いていないらしい。
「…レオリオに会いたくない」
そんな彼の表情につつかれたように、クラピカは言葉を滑らせた。
ゴンは顔を上げ、クラピカを見ると、年上じみた笑顔をつくり、彼女の肩に手を回した。
「大丈夫だよ。会えばどうってことない。また元のようになるって」
「ゴンは平気なのか?私が」
昔の恋人と会うことが。
否、分かっている。平気なはずがない。
だから今、彼はこうしてふさぎ込んだ様子を見せている。
それを分かっていて聞いてみたのだ。やはり、年下の恋人を困らせたり、
自分のために嫉妬させたりするのが趣味のようだった。
ゴンは丸い目をさらに丸くした。シャツの裾を掴む、彼女の白い指。
思わず笑って、彼女を抱き締めた。
「なんだか今日のクラピカは、いつもと違う。
違う一面を見れたみたいだ。俺、嬉しいよ」
「茶化すな、ゴン」
「…そりゃ、ちょっとは思うところがあるよ。
でも俺は、二人がいつまでも気まずいままで、
出会ったばかりの頃にすら戻れないのは、嫌だからさ。
俺にとってはクラピカもレオリオも、どっちも大切な存在だから」
そう、大切な。
それだけではなかった。
目の前で証明して欲しかった。もう、何もないと。
二人の間には、自分が疑っているような裏切りは、一切ないと。
会いたくない。
それは裏をかえせば、それだけ以前は愛していたということ。
だからこそ、彼の裏切りを赦せなかったのだろう。
クラピカには、恋人や配偶者以外の異性との性交渉、俗に言う浮気という概念がない。
そこに愛があるのか、ないのかは重要ではない。
レオリオが、クラピカとの約束が反故になったその後、
本当なら二人で会う筈だった夜を、他の女性と共に過ごし、過ちを犯した。
そのことをクラピカが知ったとき、彼女はもう駄目だと悟った。
彼ではなく、自分が。彼と一緒にいたら駄目になってしまう。
暗いほうへ落ちていく。やがて人が土に還っていくように。
駄目になる。全て駄目になってしまう―――
クラピカだけでなく、それをキルアづてに知ったゴンも、
レオリオを避けるようになった時期があった。
やはり、クラピカと同じで、浮気という概念がなかったというのがまずあり、
それ以上に、赦せないと思った。あんなに素敵な女性と恋人になることができて、
それでもまだ飽き足らないのかという蔑視と妬み嫉みが、レオリオを遠ざけた。
クラピカはレオリオを愛していたから。
そしてレオリオもクラピカを大切にしていると信じていたから。
自分は身を引いた。殺した自分の恋心はどこへ葬ればいいのか。
悩み苦しんだ時期があった。
しかし、今こうして、クラピカと恋人同士になることができ、
彼女が自分の子を身ごもり、幸せな未来を約束された今、
ようやくレオリオの立場を客観視することができるようになった。
レオリオがまだクラピカと交際していた頃、
彼自身の口からも、クラピカの話を聞いていた。
愚痴という名の惚気話を、正直辛い思いで聞いていた。
そんな、自分が聞いていて辛くなるほど、二人は愛し合っていたのに。
愛し合っていたはずなのに。
レオリオの過ちには、何か極めて人間的な、
彼自身の力ではどうしようもない原因があったように思えてならなくなった。
だとしたら。
再び愛し合えるかもしれなかった、二人の間にあった可能性を、自分は摘んだことになる。
本来、そんなことを問題視するような男はいない。現に、レオリオは過ちを犯したのだ。
けれどそこは、ゴンだ。
親友の恋人を奪ったのかもしれないと思って、
知らぬふりをできるような男ではなかった。
「ゴン。大丈夫か?顔色が悪い」
優しく額を撫でる、暖かな指先に、
ゴンは思考の彼方に飛んでいた意識を取り戻し、顔を上げた。
しかし今は。
何があっても失いたくないと、彼女は言ってくれる。
昔の恋人のことではなく、今目の前に居る自分のことを。
信頼を築いている。新しい命をその身に宿した。
レオリオとは築けなかった未来を、自分とでなら築くことができる。
きっと、証明してくれる。もう“昔の恋人”ではない。“友人の一人”であると。
真実がどうあれ、もう彼女を渡すつもりはない。
けれど、せめて再び元の友人同士に戻ることができるなら。
そうなってほしい。それが望みだ。
そうすれば、この胸に燻り続けている不安の火種も、消えてなくなるはず―――
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
雑役たちの住まう家は、本邸や執事の館からは隔離されている。
まだ昼だというのに、ククルーマウンテンは薄闇に包まれていた。
この鬱蒼と生い茂る木々たちに光を遮られているからか。
キルアは、木の枝や背の高い草にさんざん汚れた顔を時折拭いながら、
瞬きもせず、一心にジャンの部屋があるだろう家へと向かっていた。
昨日はじめて顔を見たあの男から、妙なものを感じ取った。
勘でしかないが、キルアは自身の直感を信じていた。
これまでも、それに幾度となく救われてきたし、あの男を見たとき、胸騒ぎを覚えたのだ。
死んだカナリアが語りかけてきたのだ。キルアはそう信じた。
父や母、兄弟たちには絶対に知られないよう、根回しをして彼女との逢引を重ねてきた。
誰かが裏切ったのだ。裏切るとしたら、まだ自分と信頼関係を築いていない、新参者。
そして、ゾルディック家三男の恐ろしさを知らない、無知で愚鈍な人間。
しかし、そんな愚かな人間の耳にカナリアとの関係が噂として入ったのだとしたら、
また別に裏切り者がいることになる。
それは考え難い。ゾルディック家の使用人は例え下っ端の下っ端であっても、
そこまで馬鹿なやつはいない。
いたとしたら、既に生きていない。
―――あいつの、部屋を覗きに来たときの、あの目―――
こそ泥や、覗き魔や、詐欺師と同じ目をしていた。
闇の世界で生きてきた自分を欺こうとしたって無駄だ。
あんな下品な男が執事の面接を通して雇われるわけがない。
ゾルディック家直系の誰かが、金で密に雇ったに決まっていた。
ゾルディック家の人間であって、そうでない―――ゾルディック家の血の流れていない女。
―――あのクソアマ!
キルアは怒りで目の前がぐらつき、木の肌に肩を擦った。
布が破れ、下の青白い肌がすぐさま赤みを帯びた。
しかし、そんなことになど気付いていないように、キルアは走り続けた。
雑役の家についた。
ドアノブなど回さず、蹴り開けた。
雑役たちは出払っている時間帯のはずだ。
部屋のドアを片っ端からこじ開け、あの男の匂いのする部屋を探した。
奥から二番目の部屋がそうだった。
初老の男の部屋らしく、必要最低限のものしか置かれていない。
マニュアルや書き散らかしたメモが散乱している卓上に、錆びかかった安物のゴブレットがある。
壁のハンガーによれたカーキの上着がかけられいる。
掃除をきちんとしていないのだろう。電気の傘には埃が厚く積もっていた。
ベッドのシーツは起きたときのままなのだろう、皺が寄っている。
部屋の中をひととおり見回すと、キルアはまず塗装のはげかかった箪笥に手をかけた。
上の段から、片っ端に開けていく。
何年も使い続けているのだろう、色褪せた靴下だの下着だのが顔を出す。
薄汚い守銭奴の根性を見た気がして、キルアは眉間に深く皺を刻み、舌打ちをした。
サノバビッチ、という汚い言葉が口をついて出た。手は更に焦燥を増す。
下から二番目の引き出しを開けたとき、22口径の銃が姿を見せた。
キルアの手が止まった。静かに、それを手にしてみた。嘲笑が唇に浮かぶ。
―――こんなものに頼らなきゃ、自分の身も守れない程度の男。
キルアは見えない敵を射るように、眼光をきらめかせ、
銃口をベッドの枕に向け、構えた。
ドン、ドン、ドン、と、乾いた音が狭い部屋の空気を貫く。
枕の羽毛が、引き千切られた天使の羽のように舞う。
引き金が、がちっ、と金属の擦れる不快な音を数回たてたところで、
キルアは弾がなくなったことを認めた。
煙を吐き出す銃口をじっと見つめると、
他の引き出しに弾の予備を見つけ、再び同じように消費した。
ベッドには雪のように羽がつもっていた。
箪笥に目当てのものがないと分かると、
キルアは今度は木製のデスクの引き出しにかかった。
それは容易く見つかった。一番上の引き出しだった。
茶封筒に包まれたもの。中身は推して知るべし。
躊躇わず、それに手をかけた。中を覗く。
全て万札として、目分量で、ざっと二百万ジェニー。
キルアは怪訝そうに眉を顰め、中身を取り出した。
真新しい札を、片っ端から数えていく。十、二十、三十…百、百五十。
「…二百…」
最後の一枚を指先で弾いたとき、キルアは途方にくれたように、そう呟いた。
他の引き出しも探ってみる。
稀に丸まった千ジェニー札や小銭があった以外、まとまった金は見当たらない。
最後の引き出しを開け、そこにもやはりないと悟ると、キルアは再び口を開いた。
「たった、二百…?」
二百万ジェニーの情報料。
カナリアの命は、その程度の価値だったのか。
キルアは再び、札の枚数を数えた。変わらない。二百万ジェニー。
怒りが全身を凌駕した。たった。たった二百万ジェニーのために。
こんなはした金のために、彼女は殺されたというのか。
キルアは言葉にならない叫びを上げ、札束をベッドに投げつけた。
先ほどの銃を再び手に取り、羽の上にばら撒かれ、積もった金に向かって銃口を向けた。
しかし、当然弾丸は発射されない。がむしゃらに、
何度も引き金を引いた後、銃を金の山に叩きつけた。
紙幣と羽とが、妙なコントラストをなして舞い上がる。
箪笥を蹴り、机を手刀でなぎ倒した。
書類が舞い、ゴブレットが鈍い音をたてて床に落ちる。
この部屋の全て、あの男の手の触れたもの全てが汚らわしく思えた。
汚い罵り言葉を吐きながら、全てを破壊しつくそうとした。
あの男に、拷問の果てに殺されたカナリア以上の、屈辱と、苦痛と、恐怖を。
あいつが今まで培ってきたもの、
薄汚いその身体に流れる血の一滴まで踏み躙って、殺さなければ。
恋人をこの男の密告により殺された自分には、そうする権利と義務がある。
あの害虫に、これ以上自分の心を蝕まれないように。
カナリアの仇を討たなければ。心が朽ちてしまう前に。
ふと、爪先になにか堅いものが触れた。
キルアは一瞬、正気に戻り、下を向いた。手帳のようだ。
床に膝をつき、それを手に取り、開いた。何やらびっしりと書き込まれている。
キルアは目に付いたいくつかの文章に目を通してみた。
○月×日、メイドのリンが執事のジェシーと密会。
○月△日、ミルキ様の専属コックのオブライエン、
中堅ブランドの肉を最高級品と偽り料理に出す。
×月□日、栄養士のミシェル、献立を書き換え、浮いた経費を着服。
しょうもないゴシップが書き連ねられている。
中には、ゾルディック家次期当主として気付くべきだった横領事件などもあったが、
よくもまあ、短い勤務の間にこれだけの情報を集めたものだ。
それともこれが、この男の念能力なのだろうか。
念を覚えているような気配は感じなかったが。
セレブゴシップを専門に扱う雑誌の編集者にでもなればいい。パパラッチのつもりか。
キルアはその最低最悪の野次馬根性に心の底からの軽蔑を向けながら、
つぎつぎとページをめくっていった。
そして、あるページで指を止めた。
×月○日、執事のカナリアが館の自室で、キルア様と密会。
…キルアは、失望と後悔と憤怒を、全て込めて息を吐いた。
かたく瞼を閉じる。もっと、うまくやっていれば。
―――俺ならできたはず。誰にも見つからないように…
執事たちへのすぎた信頼が、おぞましい結果を生んだ。
そうだ、何故こんな雑役風情が、執事の館すら我が物顔で出入りできるのだ。
上手く、執事たちを言い包めていたに違いない。
これだけの野次馬根性があれば、それくらいの労力は厭わないであろう。
おそらく、執事のなかでも古株のほうであるジェシーを、
リンとのことをネタにゆすったのだろう。
リンはコック長の妻だ。当主たちは、
使用人たちのいざこざにいちいち口を出してはいられないが、
不倫が露呈すれば執事長のゴトーが黙ってはいまい。クビにされるのがおちだ。
どこにでもいるクズ以下の男。そんな男に。
己の軽率な行動を悔いても悔やみきれない涙を双眼に浮かべながら、ページを繰っていると、
手を誤り、何かが挟まっていたページにとんでしまう。
そのとき、その挟まっていた何かが落ちてしまい、
怪訝そうに眉を顰めながら、キルアはそれを拾った。
裏返しにすると、それは写真だった。
ジャンと、娘だろうか、三十代半ばほどの女、そしてその女の腕に抱かれている、
まだ幼い少女。その三人が、笑顔でうつっていた。
写真が挟まっていたページを見た。
まだ殆ど空白の状態のページに、一行だけ。
△月○日、孫の誕生日。
キルアはうつろな目でそれら二つを見比べると、
まるでなにも目にしなかったかのごとく、その手帳と写真を床にほうりだした。
手帳は無残に落ち、写真はベッドの下に滑り込んだ。
ふと、あの錆びたゴブレットが、キルアの目にうつった。
空虚な目と、空のゴブレットが交錯する。
キルアは、ある一つのことを思いついた。
思いついたら動かずにはいられない。キルアはすぐに立ち上がった。
そして、部屋を後にするときには既に、
あの写真と、手帳の一文を見たときに一瞬湧き起こった、微かな気持ちを、忘れていた。
to be continued.
20080920
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