落ちる、堕ちる、おちていくよ、全ては暗いほうへ、人がやがて土に還るように
そして這い上がる、暗い胎内から赤ん坊が這い出るように、冷たい土を掘り返し、人は土から甦る
それはひっそり、ひっそりと、人ならざる所業を隠すように、暗いほうへもっていく
暗いほうへ暗いほうへ、秘密は全て闇の中、真実も全て闇の中









裏切り










―――光を求めている時ほど、なかなか覚醒は訪れてくれない―――




誰かがじっと見つめている。

暗闇の奥から手を差し伸べようとして、躊躇っているような。

控えめだけれど執拗に、隠れているけれど確実に。
それは私を見ている。私を狙っている。
欲しいのは私の目か、それともこの身体なのか。

そんなに欲しければくれてやる、ただしお前の命と引き換えに。
それが嫌なら私は逃げる。だからお前も私を追うな。
全て無駄だ、無駄なんだ、全てはいずれ土に還る―――





「クラピカ!」





暗闇に差す一条の光のような声に、目が醒める。
視界はあまりに明るくて、一瞬、天に召されたのかという錯覚に陥った。
途方もない絶望と、何かから開放されたかのような喜びが同時に訪れ、そして去っていった。

妙な心持ちで上体を起こす。眠気はすっかり吹き飛んでいた。
不気味な夢から連れ出してくれた声の主は、
目の前で訝しげに眉を顰めているゴンだったらしい。
あどけなさの抜け落ちた顔立ちになっていたが、
それでも大きな一重の目はいまだ純粋さを湛えている。

私がとうの昔に失ったものを持ち続けていられるというのは、
純粋さであろうと愚かさであろうと、羨ましいものだ。
ゴンといると、私は時々、自身がとてつもなく穢れた存在に思えることがある。
事実、そうなのかもしれないが。妙な罪悪感を感じずにはいられない。



「クラピカ、大丈夫?」

「…私は、魘されていたのか」



気遣ってくれている彼にかけてやる言葉の一つも浮かんでこなかった。
汗が全身を覆っていた。いやな寝覚めだ。
眠気は無い筈なのに、頭の中はいまだにぼやけて虚ろだ。



「うん、大分」



ゴンはそう言い、肩を竦めた。
私は一体、どんな夢を見ていたのだろうか。
不意に夢からうつし世に戻された衝撃で、全て忘れてしまったらしい。
ぼんやりと、心地よいものではなかったことだけが思い出される。あの空間―――
―――暗かった。ひどく。



「そうか…」



ベッドから立ち上がろうと床に足を投げ出した。
しかし、たったそれだけの動作でも眩暈がして、立ち上がるのを躊躇する。
すると、慌てたようにゴンが両手を私の肩に置いた。



「まだ駄目。昨日は緋の目になりすぎてたよ。寝てなきゃ」

「しかし…」



ぐらつく頭を、手の甲で額を押さえて止める。髪まで汗で濡れていた。気分が悪い。
ゴンも、手に触れた寝間着が濡れているのに気づいたのだろう。
慌てたように手を離し、部屋の隅にある箪笥に向かう。



「待ってて、替えのパジャマを出すから。あと濡れタオルも」

「ゴン、いい。シャワーを浴びたい」

「駄目だよ、立つのも辛いくらいなんだから…でも」



ゴンは引き出しの中をまさぐる手を止め、頭を垂れた。



「…でも?」

「お、俺と一緒に入るなら、手伝ってあげられるし…」



背後から見ても、ゴンが今、真っ赤な顔をしているだろうことが分かる。
羞恥を全身から発している彼を見て、恥ずかしがるくらいなら言わなければいいのに、
と苦笑してしまいたくなったが、彼なりに譲歩した答えだったのだろう。



「…ゴン、誰かになにか変な影響を受けていないか」

「ち、ちが…俺は、クラピカがシャワーを浴びたいっていうから」



案の定、りんごのように赤くなった顔で振り返ったゴンの頬に手を添える。
私が気配を消して忍び寄っていたことに気づいていなかったらしい。
彼らしくもない。それとも、余程恥ずかしかったのだろうか。
ぎょっとしたように目を丸くした彼の一瞬の隙を見て、
少し爪先立ちになり、その口に軽く唇を重ねた。
唇を離し、互いの目を交差させるときには、再び大きな視界の揺らぎが私を襲う。
私の名を叫びながら、彼が厚く筋肉のついた腕で背を抱きかかえてくれるのを感じた。



「だから…寝てなきゃって言ってるのに…」



呆れた声が微かに震えている。私を支えるその逞しい腕も。


私の体調が崩れるほどに、感情のふり幅が大きくなるゴン。
そんな彼を見ていると悲しくなってくる。なのに、私は彼に心配をかけることしかできない。
もしかしたら、心の底で彼が私のために取り乱すことを望んでいるのかもしれなかった。
我ながらいやな趣味だ。

そんなことを、霞んでいく意識の中で考えていると、
肺を押しつぶされるかというほど、きつく抱きしめられた。



「クラピカ…クラピカは、こうやって倒れるたびに俺がどれだけ怖い思いをしてるか知らないんだ…
 大好きだよ、お願いだから俺のもとからいなくなったりしないで、
 俺を悲しませるようなことだけはやめてよ…!」



―――そうだ。
ゴンが「こう」なってしまうようになったのは、私の無茶のせいだけではない。




キルアの恋人が死んだ。


否、殺された。



つい先日のことだ。





「キルアとの関係がばれて。お母さんに殺されたんだって」





もう何年も会っていないとはいえ、私たちの仲間であるキルアにとっては、
恋人を失った以上、ゴンが最も近しい存在であったろう。



「キルアは塞ぎこんでる…見ていられないほどに」



両の目に涙を浮かべ、それを零すまいと耐えているゴンのほうが、私には見ていられなかった。



「暗い部屋に閉じこもってる…」



その部屋とは、キルアの部屋か、それとも彼の心の部屋か。



可哀相なカナリア。愛する主人と羽ばたくための羽をもがれ、愛を唱える喉元を掻っ切られた。
私は二人を見ていたかった。
叶わぬはずの恋を貫く、二人の姿を。身分と掟とを覆して。

けれど、今のキルアの姿は―――


目を背けずにはいられない。



「ゴン、シャワーを…」



私を再びベッドへ寝かしつけようとするゴンの手を制して、言った。



「おまえと一緒に…」



ぼやける視界で、なんとか彼の頬を探り当てる。
褐色の健康的な肌が、今日は少しつやを失くしているように思える。
私の所為か。



「…わかった。お湯をためてくるよ。でも、もうちょっと休んでからだ」



ゴンはそう言い、私の額に手を当てた。

恥ずかしかった。汗ばんでいるはずだ。昨夜は錯乱して身体を洗う余裕などなかった。
けれど、彼は私を汚れているなどとは思わないだろう。
どんなに汚れたとしても、そんな私に触れることを、彼は厭わない。



「クラピカ。誓って欲しい。決して無理はしないって。
 もう、クラピカ一人の身体じゃないんだ」



額と髪とを撫でながら、ゴンは私の腹部に触れた。
まだ服の上からでは分からないほどではあるが、
微かにふくらみ、重みを持ち始めている私の胎内。
それを彼は、慈しむように撫でる。
その手に、私の右手を重ねた。



「ああ。約束する…もう二度と、家族を失うようなことはしたくない。私の過ちで」

「…俺がそんなことさせないよ。ただクラピカは、
 クラピカの望むような母親でいてくれればいいんだ。
 優しかった、クラピカのお母さんのようにね」



そして、私の額に口づけを落とす。
私は不覚にも涙を零しそうになった。

ゴン。私のゴン。



「…愛してる」

「…俺もだよ、クラピカ」



今度はキスが唇に降ってくる。

その深い声で名を呼ばれるだけでも、その口先で触れられるだけでも、
私は四肢に別の熱を滲ませるようになっていた。


出会ったばかりの頃は、彼とこんなことになるなど、考えもしなかった。
考えられるわけがなかった。ゴンは年端もいかぬ子供だった。背も私より低かった。
頭をぽんと叩くと、母親に誉められた子供のようにはにかむ少年だった。

それに私はその頃はまだ、別の男に想いを寄せていたし、そしてその男に愛されていた。
ただ、一人の人間としてゴンに惹かれていた。
それだけではない。幻影旅団に殺された弟にどことなく似ていると思った。
同じ黒髪の、無邪気に笑う、屈託のない子供。
弟のように思っていた。
時には本当に、血の繋がった姉弟のように思えて、ますます愛おしくなった。



その肉親愛が、恋の果ての肉欲の愛に変わるなんて。



不意に、口をついて出てしまった色めいた声に、私ははっとして、口を噤んだ。


ゴンも驚いたようだった。
照れ臭そうに、誤魔化すような笑いを漏らして、



「ちょっと夢中になりすぎたかな」



と、反省の色を含めた声で言う。



「いや」



首を横に振った。



「私のほうこそ。こんなときにまで、こんな」



声を出すことができる。
自分が浅ましい。



「そんなこと…気にしないで。でも、俺もそんな声を出されると」



こめかみにキスをされる。
耳に息がかかり、ぞろりとした。
あがりかけた息を誤魔化すために、私は髪をなでつけた。
しかし、そんなことは無駄な抵抗にすぎなかった。


あとで、触ってくれる?


そう囁かれた私は、もう駄目だった。
ベッドの下の底知れぬ闇に沈んでいくような感覚をおぼえる。

早急な仕草で頷く私を確認すると、ゴンは立ち上がり、
気を取り直すように、ぱん、と膝を叩く仕草をして、
お湯をためてくる、と部屋をあとにした。

彼も急いているのだ。

彼がバスルームに入っていったのを耳で認めると、
寝返りを打ち、枕に頬を押し付けた。
おそるおそる、胸から腰、臀部までのラインを撫でた。
我慢できない。私は熱を孕んだ吐息をついた。



勢い良く、バスタブに打ち付けられる水音を聞きながら、私はキルアのことを思い出した。
彼は大丈夫だろうか。彼は非常に、精神的に脆いものがある。
変な気を起こしたりはしないだろうか。キルアのことはゴンのほうが良く知っているはずだ。
後でまたキルアの話をしよう。



けれどそれは、私たちの“約束”が済んでからの話だ。



二人の悲恋を思えば思うほど、私の身体は滾り、
二度と失いたくはないと、ゴンの背に立てる私の指先を思うのだった。




ゴン。私のゴン。誰にも渡さない。
死神にさえにもだ。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




―――暗いな。

まだ夜なんだろうか。早朝かな。
なあ、起きてるか。ちょっと確かめて来てくれよ。



試しに声に出して言ってみた。
声は返ってこない。寝ているのだろうか。
夜の間じゅう覚醒している闇だけが、無言で頷いているようだった。



―――なあ。



もう一度、力のない声で尋ねてみる。
やはり返事はない。声が小さすぎるのだろうか。




「…確かめて来いと言ってるんだ、カナリア!」




キルアはそう怒鳴り、思い切りサイドボードを殴りつけた。
サイドボードは積み木を崩すように砕け、スタンドライトが落ち、けたたましい音をたてた。
すぐさま、部屋のドアが開き、電気がつけられた。
キルアは咄嗟に起き上がり、入り口のほうを見開いた目で睨みつけた。
殺す準備はいつでもできている。
キルアの表情は狂気と殺意に満ちていた。
カナリアを殺したのは誰だ。



「…音がしたもので」



ドアを開けたのはジャンという新人の雑役だった。
見たことのない顔。それだけで、ジャンが新人だということがキルアには分かった。
この屋敷には数え切れないほどの使用人がいる。
顔を覚えているのはごく一部の執事くらいのもので、
カナリアは最近ようやく一人前の執事と認められたばかりだった。

そんな彼女の顔だけは覚えていた。
子供の頃、彼女にプレゼントした小猿の頭蓋骨を、
彼女は愛用のステッキに仕込んで、ずっと大切に持ち続けてくれていた。
女の子にあげるには悪趣味だった。ごめんな。
そういうと彼女ははにかんだように笑い、それでも嬉しかったと。
誰にも言えなかったけれど、
キルア様にプレゼントを頂いたことのある使用人が私だけだということを、
私は密かに得意がっていた、と。そう言っていた。

今度は彼女が骸骨になって、俺の心にしまわれる番だ。



「…なんだ、おまえは」

「は…ジャンと申します」



目を細めるキルアに、萎縮したように男はそう言った。
新人とはいっても、深く皺の刻まれた顔を持つ、初老の男だった。
仕事着として上等のスーツを与えられているにも関わらず、
貧相な頭髪と内気そうな口元は、みすぼらしく、卑しい印象を見るものに与えた。

キルアは嘲るように笑った。



「名前なんか興味ない。新人のくせに、気安く俺の部屋のドアを開けるんじゃねえよ。
 え?一体誰の差し金だ」



俺の部屋、というのは間違いだ。彼は混乱している。ここは本邸ではない。執事の館だ。
彼はゾルディック家に戻ってから、
ほとんどの夜をこちらで過ごしていたのに、覚えていないのだろうか。
これが、記憶の抑圧というものなのだろうか。

眼下にくっきりと隈をつくり、頬のこけたキルアの顔は、
元来美しい顔立ちだったがために、尚更壮絶で狂気じみたものになっていた。
ジャンは俯き、口篭らせた。



「いえ、差し金だなんて、そんなことは…」



そう言いながら、雇用主のうちの一人である女のことを、思い出していた。
整形を重ね、最近になってようやく外せた顔の包帯を、
今回の事件で再び巻くはめになった、ゾルディック家当主の妻。
以前の傷も、そして今回の傷も、目の前のうら若い男がつくったものだという。

あれだけの力量を持った自分の母親を、残忍に、
完膚無きまでに虐げ、自身は傷一つ負わなかった。
長男でないにも関わらず、次期当主と謳われる、恐るべき才能を持った男。

現当主であり、彼の父であるシルバが止めに入らなければ、
この男は、躊躇い無く実の母親を殺したであろう。

ジャンは今更のように、この一家の内情に足を踏み入れてしまったことを後悔した。


キルアは鼻で笑った。



「見え透いた嘘をつくなよ。ろくなことにならない。
 あの…女と同じ身体になりたくなかったらな!」



スタンドライトが飛んできた。
ジャンは思わず身を竦めたが、はじめから当てる気はなかったらしい、
ライトはドアにぶつかり、盛大な音を立てて砕け散った。


キルアが立ち上がった。ジャンはぞっとして、一礼だけすると、
足早に去り、最寄の階段を駆け下りていった。


とっとと失せろ、今なら誰でも殺せる、殺してやる、
そんな叫び声が聞こえてくる。キキョウが聞いたら狂喜乱舞しそうだ。
きっと声だけで人を殺すことができるのならば、
ジャンとキルアの母キキョウは、彼にとり殺されていただろう。
叫び声が聞こえないところまでくると、ジャンは肩で息をしながら、その場に崩れ落ちた。



「なんなんだ、この家は…冗談じゃない」



給料がいいし、侵入者さえなければ面倒な仕事もない。
ちょっとした情報を仕入れるだけで、莫大な小遣いが貰える。
こんなにいい仕事はないと思っていた。
だが、殺されてしまっては元も子もない。



「…ずらかろう」




額に滲んだ汗を胸ポケットのハンカチで拭いながら、そう考えを声に出した。


あの、猫又のような男に、真実が知られぬうちに。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




駅のホームに降りると、懐かしい匂いがした。

緑が多いせいだろう、空気が澄んでいる。
その中に、仄かに柑橘系や潮の香りが混じっているのを感じた。
街に並ぶ出店から漂ってくる野菜や果物、そして魚の匂いだろう。
パトギア共和国のデントラ地区は、
暗殺一家が住まうククルーマウンテンが根を生やしていることを除けば、
街並みの美しい、ごくありふれた観光地であった。


先日、ゴンから電話があった。
キルアが大変なんだ。俺とクラピカも慌ててパトギアに来たところなんだ。
四日前に電話があって。キルアは恋人が殺されて錯乱してる。
またお母さんを刺して出てきたみたいだ。今は街にホテルをとってある。キルアも一緒だ。
分かってる、精神科は専門外だよね。でも仲間だろ、連絡しないなんておかしいじゃん。
そんなのおかしいよ、レオリオ…



―――俺とクラピカの間にあったことを、知らないわけじゃないだろう。
それでもゴンは、変わらず連絡をくれた。
変わらず接してくれたし、会いたがってくれた。ゴンはそういうやつだ。
キルアとも親交は途絶えてなかったが、あいつの近況報告は、大体がゴンを介してなされていた。
薄情、っていうわけでもないんだろう。多分、仲間は離れていても仲間、例え連絡をとらなくても、
っていう考えが、あいつの中じゃ強いんだと思う。

だからって、連絡をなおざりにしすぎじゃないか。
あいつに恋人がいたってこと自体、初耳だ。
しかも、前にゾルディック家に訪れたときに会った、執事見習いの女の子が相手だなんて。
こう言ってはなんだが、キルアのような男が好みそうな…美人とは、
言い難かったように記憶している。
しかし、あのとおり心の優しい少女だった。キルアの心に語りかけるものがあったのだろう。
時の流れの早さを身にしみて感じて、思わず感傷に耽りそうになる。
そうか、キルアはもう子供じゃないんだな、ゴンだって。



―――。



レオリオは、ふうと息をつき、歩き出した。
飛び込み台から、深い水の底を覗き込んでいるような面持ちであった。
少なくとも、旧友に会いにいくような表情ではない。









to be continued.
20080919




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