白いひなげし
「それじゃあ、とりあえずは大丈夫だ。また調子が悪くなったら、すぐ来いよ」
レオリオは屈託なく笑うと、子供の頭をぽんと撫でた。
子供は上機嫌で笑顔を返すと、ありがとう先生、とはりきって言い、走って診察室を出て行った。
母親が慌てて子供の後を追い、途中、はたと立ち止まり、レオリオを振り返った。
そして、恭しく頭を下げると、息子の後に続いていく。
診察室にまで聞こえてくる、母子の会話に頬をほころばせながら、
レオリオはカルテに目を落とし、そしてそのカルテの患者ではない、別の女のことを考える。
クラピカ。俺はおまえの気持ちを知っていながら。
ボールペンを握る手に力をこめた。
力を入れすぎてついつい壊してしまい、何本もペンを無駄にしてきた。
ペンが不吉な音をたてたところで、レオリオはあわてて力を緩めた。
そして、ペンが壊れていないことを確認し、すぐにまた例の女のことを思い出し、
安堵と辛さの入り混じった溜息をつく。
―――あいつを女と知りながら、その危うさが忍びなく、
いつも必要以上に気にかけてきてしまった。
あいつに過剰な期待をさせた。俺の責任だ。
だからって、直接告白されたわけでもないのに、
おまえのことは友達として大切に思っている、などとは言えなかった。
ペンを握った手を額に押し当て、レオリオは無心に、ノック式のそれの頭を何度も押した。
かちかちと、神経質な音が骨を通して脳に響く。
目を閉じると、クラピカの顔が暗い中に描かれた。
電話でも、時折、意味深なことを言われたことがある。
クラピカの、クラピカ自身の気持ちをほのめかす言葉。
レオリオはそのたびに、そらとぼけて受け流してきた。
その気持ちには応えられない、
けれど、仲間として大切に思っている以上、突き放すこともできなかった。
そんなことをすれば、二度と会わない、などと言い出しそうな女だ。
それは決してあてつけや、嫌がらせではなく、彼女が
“こうなってしまったからには、もう普通の友人として接することはできない”
という考えの持ち主であろうから、そうと予測されるのだ。
―――だからって、今日のあの“調子”が、普通の態度といえるか。
あれじゃ、鈍感なゴンだって気付いてるはずだぜ。
レオリオは、クラピカに懸想しているふしのある、ゴンのことを思った。
重々しい溜息は、際限なく口をついて出てくる。
レオリオは首を擡げ、壁にかけられた時計を見た。
十一時四十五分。午前の診察の受付はもうじき終わりだ。
レオリオは重い腰を上げて立ち上がり、ドアを開けると、次の患者を呼んだ。
待合室では、クラピカが入浴している間暇なのか、
ゴンがソファに腰掛けて、新聞を広げていた。
最後の親子連れが診察室に入ってゆくと、ゴンはほうと息をついた。
待合室まで漏れてくる、親子とレオリオの楽しげな会話。
とても病気の子供を診ているとは思えなかった。
それがまた、レオリオの才能なのだろう。
新聞の一面は、大物芸能カップル入籍の報道。
幸せそうな二人の笑顔の写真が半分を占めていた。
窓から柔らかな日光がさす部屋。時折その光を、
遠い空の飛行船や、ウミヅルの飛ぶ影が横切っていった。
平和な世界。ゴンは初めて、眠気を感じた。そういえば、もう丸一日眠っていない。
この国へ来る飛行船の中でも、不安のあまり眠れなかった。
ゴンは痛む胸を抱え、いやな夢を見そうだと思いながら、静かに眠りの淵へと身を沈めていった。
最後の診察が終わり、親子ににこやかに挨拶をすると、レオリオは息をつき、席を立った。
待合室へ出ると、ゴンがソファの上に横になって眠っていた。
レオリオはぽかんと口を丸くしたが、やがて父親じみて笑い、
そばへ歩み寄ると、白衣を脱いでゴンの上へかけた。
ゴンは心地よさそうに、うん、と声を漏らすと、再び規則的な寝息をたてはじめた。
こうして見ると、四年半前と変わらず、ゴンが幼いままのように感じた。
背が伸びたことや、声変わりをしたことが信じられない。元来の童顔が余計にそう思わせる。
クラピカはそんな彼の変化をどう感じただろう。
成長したキルアの姿を見ても、格別驚いたふうは見せなかったが、
それはゴンに対しても然り、であろうか。
せめて、ゴンがクラピカと同い年だったら。
いや、年の差が、二、三程度だったなら。
しかし、考えても仕方のないことだった。
自分達は、この年齢で、出会うべくして出会った。
それにクラピカは、レオリオが年齢のことなど話題に出せば、
私はそんなものにこだわっているわけではない、と憤慨するだろう。
レオリオは息をつき、クラピカの病室へ向かった。
ドアの前で、軽く深呼吸をする。
そして、一瞬の躊躇いの後に、レオリオは二回、ドアをノックした。
「おい、クラピカ。戻ってるか」
クラピカは開け放った窓の淵に腰掛け、濡れた髪を自然の風で乾かしているところだった。
気配と足音で、彼がドアの前に立ったのには気付いていたが、
その声を聞くと感情の琴線に触れられたように、
びくり、とクラピカは肩を震わせた。
そのせいで身体がよろけ、あわてて窓の淵に手をかけて、体勢を保った。
「…ああ、戻っている」
クラピカは声を落ち着けてそう言った。
普段どおりの、感情に揺れない声が出せたはずだと、そう思った。
がさつな彼でも病人相手にはやはり違ってくるのか、ドアを開ける音さえ静かだった。
クラピカは振り返る。ドアと壁の間にできた隙間から、彼はひょいと顔をのぞかせていた。
目が合うと、どことなく気まずそうにしながら、無理に笑顔をつくる。
「どうだ、スッキリしたか。顔色は良いな」
そう言いながら部屋に入ってくるレオリオの様子が先程と違うのを感じながら、
それでもクラピカは不審を顔に出さず、笑いかけた。
「ああ。十日も眠っていたとはいえ、それはあくまで疲労からきていたものだ。
私は病人ではない。寧ろ意識を失う前よりも調子がいいくらいだよ」
「馬鹿野郎、過労だって病気みたいなもんだぜ」
レオリオはベッドの端に腰をかけた。
クラピカは彼の一挙手一投足を目で追っていた。
彼の黒い髪―――初めて見る、眼鏡をかけた姿。
白衣を脱いだ彼はスーツではなかった。これもはじめて見る姿。
ヨークシンの後、一度も会わなかったわけではないけれど、それでもかなり久しかった。
記憶の中で追い続けた姿が、今、目の前にある。
クラピカは視線で、彼の指先や鼻先、爪先までを、撫でた。
―――どうしてしまったんだ、私は。
念能力を失って、クルタ族や蜘蛛から、解放されたような気になってしまっている。
このまま、この国で過ごす時間に身を委ねていたいと、願ってしまっている。
彼と二人、この小さな診療所で。
私には、復讐と仲間の眼の奪還という大儀が残されている。
ごく平凡な幸せを求めることなど許されぬと分かっていながら、
それでももし、この時間を許されるとしたなら、私は―――
「…クロロはなんで、お前を見逃したんだろうな」
レオリオは窓の外の景色を眺めながら、呟くようにそう言った。
思考を彼方へと追いやっていたクラピカは、動揺し、少し言葉を詰まらせた後、
空咳をしてから、口を開いた。
「…それなら、分かりきったことだよ。やつ自身が去り際に残した言葉。
この能力を返してほしくば、蜘蛛に入団しろ。
それができぬならここで死を待つか、凡人として生き延びるかだ、と」
「んな」
レオリオは面食らい、ぎょっと顔を上げたので、眼鏡がずれた。
クラピカは続けた。
「私の能力は緋の目に頼るものが多い。ジャッジメントチェーンもそうだが、
それ以外にも、ホーリーチェーンという力がある。
自己治癒力を高めるその能力を緋の目の状態で使えば、どんな重傷でも一瞬で完治する。
戦いの最中にその能力を見られたのでな。殺すには惜しいと思ったのだろう」
「…なるほどな。けど、おまえが旅団に入団したところで、宿敵を傍に置くようなもんじゃねえか。
ヤツはそのことも承知だったってのか?」
「…おそろしく頭の切れる男だ。
私に変な気を起こさせぬ為の適当な脅迫材料を用意することなど、容易いだろう。
たとえば…おまえを人質にとる、だとか」
レオリオはクラピカの話に聞き入り、思案するように視線を落としていたが、
最後のその言葉に、落ち着きなく床を叩いていた爪先の動きを、ふと止めた。
「…確かに俺ぁ、ゴンやキルアよりも人質にとられるようなミスをおかしそうだけどな」
そう、できるだけ卑屈っぽく聞こえるように言うと、ベッドから立ち上がり、
クラピカの横に並んで、窓の淵に腰掛けた。
至近距離に、クラピカは心臓を跳ね上がらせた。
俄かに、頬が染まってゆくのを感じ、外に目を向ける。
赤くなった頬を、熱い日光のせいだと言い訳ができるように。
「…まあ、でも。おまえは勿論、旅団に入団する気なんてないんだろ?」
「無論だ。連中の仲間になるくらいなら、自ら命を断つ」
急に、きりと眉を顰めてそう言うクラピカの横顔を、レオリオは不思議そうに見た。
そして、ふと微笑むと、再び外に視線を戻し、言う。
「ゴンも、おまえらの仲間になるくらいなら死んだほうがましだ、
みたいなことを連中の誰かに言ったらしいぞ。
ヨークシンの時の話で、キルアから聞いたんだが、
あいつも大胆不敵つうかなんつうか、意外なところでおまえと似てるよな」
「私と?ゴンが?…おかしな話だ」
クラピカは思わず笑った。
「私とゴンは、全く正反対に位置する人間だと思っていた。
似ていない、だからこそ惹かれるのだとな」
「そりゃ、全部が全部似てるってわけじゃねえよ。
例えばゴンはおまえみたいに頭は良くないしな。
ゴンはお前と違って理屈っぽくねえし。
そのくせ、おまえは理屈の通じねえときもあるんだからな」
「悪かったな」
「全くだぜ」
レオリオはそうおどけたが、ふと、真顔になって、言った。
「おまえももう、さ。これが良い区切りだったんだと思って、復讐なんてやめろよ。
能力が奴らの頭に盗まれた。これで決着はついたんじゃねえか。
お前の負けだ。けど、お前は生きてる。
一度死んで、生まれ変わったんだと思ってさ。
これからは自分の幸せだけ追い求めりゃいいんじゃねえの。
ほら、例えば、恋でもしてさ」
レオリオのその言葉は、クラピカの冷然とした表情の仮面を破るには、十分すぎた。
その仮面すら突き抜けて、彼女の肉体を突き刺し、心臓までそれは達した。
不意なる痛みに震える四肢は、次第に声まで侵した。
「…恋、だと」
「そう、ラブ」
ふざけてそう言ったが、無論、彼女の動揺をレオリオは感じ取っていた。
間を空けずに、レオリオは次の言葉を繋げた。
「そういや、恋で思い出したけどよ、ゴンの初恋の話、聞いたことあるか?驚きだぜ」
「…?いや」
楽しげにそう言うレオリオ。
突然話題が別の人物を焦点に当てたものに摩り替わったので、
クラピカは不思議に、そして少し残念に思いながら、首をかしげた。
しかし、おかげで震えていた声は、もとの落ち着きを取り戻していた。
「ゴンのやつ、意外とマセガキだったらしくてな。ハンター試験を受ける前、
たまに、くじら島に来る漁船から降りてきた、いわゆる年下好きの女に連れまわされた、
まあ、つまり、所謂デートってやつだよな。それに付き合ったことがあるんだってよ」
レオリオの告げた真実に、クラピカはぎょっと目を見開いた。
そして、あのゴンが、とでも言いたげに額に手を当てると、少しよろめいた。
が、すぐにもとの冷静さを取り戻すと、言った。
「…しかし、くじら島に居た頃のゴンといったら、まだ十一歳、あるいはそれより下だろう。
そんな子供が好きだというのか。まあ人の性癖に口は出すまいが」
「世の中広いからな。まあでも、ゴン自身、元々年上の女が好きらしくてよ。
そういう女たちの中で、一人、ゴンも本気で惚れちまった女がいたんだと」
「ふふふ、本当に、ませていたのだな」
クラピカはそう言って笑ったが、
年上の女性を慕ってあとをついて歩く幼いゴンを想像して、微笑ましく思った。
レオリオも笑っていた。
「その女は、色の白いブロンドの女で、いつも優しく笑っていたんだと。
今まで出会ったどの女とも全く違うタイプだったその女に、
ゴンはあっという間に夢中になっちまったんだとさ」
「今まで出会ったどの女とも…なんだか末恐ろしい子供だったのだな、ゴンは」
多少の脚色はあるのかもしれないが、レオリオの話により、少なからず、
クラピカの中のゴンのイメージ像にひびが入ったのは確かだった。
しかし、それだけのことを経験していながら、あれだけ擦れずに育ったゴンは、あっぱれである。
あのゴンのことであるから、女性についていったのも、
邪な気持ちではなく、単なる好奇心からだったのだろうが。
レオリオはそこで、急に表情を険しくさせた。
「しかし、悲劇は起こった。清純そうに見えたその女は、ゴンの純情をたぶらかすだけたぶらかし、
最後には忽然と姿を消しちまったんだ。ゴンに何も告げずに」
「たぶらかすだけたぶらかし…レオリオ、脚色しているだろう」
クラピカは呆れてそう茶々を入れたが、レオリオは構わず話を続けた。
「しかし、何も告げずに出て行ってしまったのにはきっとわけがあるんだろうと、
純情少年ゴンは信じた。だが、待てども待てども、連絡は来ない。
そうして月日は過ぎ、やがてゴンは悟った。
俺の初恋は終わったんだ……と」
レオリオは、口上言いのような口調でそう物語を締めくくると、
そのときのゴンの心の切なさを思ってか、しみじみと瞼を閉じた。
クラピカは、しんみりと切ないその物語を思って悲しむべきか、
レオリオの芝居じびた口調に笑うべきか迷い、曖昧な表情を見せた。
「…ゴンはその時に、恋愛の酸いも甘いも経験してしまった、ということか。
どうりで、子供にしては妙に悟りを開いたようなところがあるとは思っていたが、
それで、恋なんてこんなものだと、諦めてしまっていなければいいが」
「ああ、いや、その心配はないみたいだぜ。その後も恋はしてるらしい」
「おや」
クラピカは意外そうに言って、潮の匂いのする風を吸い、半乾きの髪を押さえた。
「それでは、私たちと出会った後のことかな。ゴンが好きになるのはどんな女性だろうな。
興味深いものだ。私たちも会ったことのある方なのだろうか」
「さあ、でも、その初恋で、自分は金髪が好みなんだって分かって、
それ以降、ブロンドばかり好きになるって言ってたぜ」
本当はゴンは、優しく笑う人が好きで、
今でも金髪の人を見るとつい振り返ってしまう、と言っていたのだ。
金髪に振り返ってしまうのは、おそらくその初恋の所為だけではないだろう。
しかし、レオリオはあえてそういう脚色を交えて、話した。
「ブロンド、か。髪の色というのはそんなに重要なものかな」
クラピカは優しく笑いながら、指先で風になびく髪を弄んだ。
レオリオはクラピカから顔を背けた。そのブロンドが、視界の端にすら、入らないように。
仲間として大切に思うその気持ちは、時として、冷酷にならねばならぬ心を邪魔する。
否。これは。曖昧な態度を取り続けた、その結果だ。
「…ああ。存外にな」
レオリオはそう言い、息を吸った。
「俺も少年時代に黒髪の女に恋して以来、黒髪しか好きになれない」
クラピカの、髪を弄ぶ指が、ぴたりと止まった。
無論、レオリオには見えない。しかし、呼吸の音すら聞こえなくなった空間は、
確かに、何かが凍りついたことを伝えてくる。
レオリオは緊張に胸が締め付けられ、掌に汗をかいた。
「…おまえの初恋は?」
あんなことを言った後で、良くそんなことが言えると、自分で感心してしまう。
本当はそんなこと言いたくはない。
しかし、中途半端な優しさは辛辣な言葉より酷である。
そのことを知ってしまった今、最早、これを言うしかなかったのだ。
「……黒髪」
長すぎる沈黙の後、掠れた声でクラピカはそう答えた。
―――すまねえ。
復讐から解放された今、もう自分の幸せだけを追う事を許されているのに。
俺はおまえを受け入れてやれねえ。
傷つけたいわけじゃない。けど、もっと取り返しのつかないことになってからじゃ、遅すぎる。
おまえだって、こんな馬鹿を好きになったりしなけりゃ。
レオリオは唇を噛み締め、なんとかかんとか、笑顔を作り、ようやくクラピカに向き直った。
幸い、クラピカの表情は、カーテンの濃い影がおちて、
視力の落ちつつあるレオリオには、見てとれなかった。
「…そーか。それじゃあ、ブロンドが好きなゴンと、黒髪が好きなクラピカ。
ゴンも結構いい男に育ったことだし、案外お似合いなんじゃねえか?
童顔のお前と並びゃあ、それほど年の差があるようにも見えねえし。
…うん、いいな。純朴な野生少年と、
黙ってさえいりゃ儚げなヨルビアン美女ってかんじで」
何かを誤魔化すように、早口になって捲くし立てるレオリオ。
彼の言葉に、クラピカは、そうと分かるか分からないか程度に、頷くだけであった。
レオリオは言葉を失った。
しかし、不自然に間をあければ、自分が彼女の気持ちをわかっていて、
あえて遠まわしなことを言って逃れようとしているのが露呈してしまう気がした。
レオリオはクラピカの肩に、ぽんと手を置くと、
「…ダチの母ちゃんに、帰って大丈夫だって伝えてくるわ。
おまえ、もう体調は大丈夫か?怪我とかねえよな?」
そう尋ねるレオリオに、クラピカは小刻みに頷いた。
早く一人にしてくれと、言っているようだった。
「…それじゃあ、何かあったら遠慮なく呼んでくれよ」
レオリオは決まりきった台詞を言うと、クラピカの肩から手を外して立ち上がった。
こつこつと、ローファーの踵を鳴らし、病室を後にした。
レオリオの靴音が遠ざかると、クラピカは静かに嗚咽を漏らした。
右手に食料の入った紙袋、左手に花束を抱え、診療所の自動ドアを潜り、待合室に入った。
すると、ソファに寝そべって、ゴンが眠っていた。
レオリオがかけてやったのだろう、白衣を掛け布団がわりにしている。
キルアは思わず苦笑しながら、
不自由そうに別の椅子に荷物を置くと、ゴンの肩をそっと叩いた。
「おい、ゴン。こんなとこで寝てんなよ。メシ買ってきたぞ」
最初は軽く身を捩っただけだったが、執拗に肩を叩き、ゴン、ゴンと名を呼ぶと、
やがてゴンは重い瞼を持ち上げ、目を覚ました。
寝惚け眼でキルアを見ているゴンは、
まだ現状を把握していないというか、まともに覚醒する気がないらしい。
「キルア…どうしたの?」
「どうしたの、じゃねえよ。ここ待合室だぞ、分かってんのか?飯買ってきたつってんだろ」
「え…ん…あ、そうか」
ゴンはようやく身体を起こすと、ぐぐ、とのびをした。
それで幾らか頭の中がすっきりしたらしい。
ゴンは不思議そうに首を捻り、待合室を見回した。
「…患者さん、いないね」
「今昼休み中だろ、多分。おまえホントに寝惚けてんな」
キルアは呆れながらも、
以前のようにゴンと接している自分に、そしてゴンに、ほっとしていた。
荷物を置いた椅子へと歩み寄ると、それらを再び抱え上げ、ゴンに見せた。
「メシ買ってきたから、クラピカの部屋で食おうぜ」
「その花束は?」
ゴンはキルアが左腕に抱えている白い花束を指差し、言った。
キルアは、ああこれ、と言ってその花を見ると、照れ臭そうに花を鳴らし、
「俺の柄じゃねえけどな。病人つったら花だろ。なんとなく。
たまたま通りすがりに花屋があって、折角だし、と思って」
ゴンは、なるほど、と妙に納得しながら、立ち上がった。
ようやく眠気も飛び、思考を巡らすことのできる程度になっていた。
「…キルア、今までごめんね」
ぼそり、と呟くようにゴンは言った。
勿論、キルアにはそれが何についての謝罪なのか、すぐに分かった。
ゴンの声は最後に会った時より低くなっていた。そして、自分も。
離れていた月日がそれだけ長かったということだ。
しかし、自分たちは何も変わっていない。
「…いや、気にしてねえよ。俺もまずかったなと思ってたし」
キルアはそう言って踵を返し、花束を持った手で後頭部を掻いた。
―――関係ないから。ゴンはそう言った。
確かに、関係なかったのかもしれない。
俺はあの頃、ゴンを失うくらいならその他の何もかもを切り捨てることができただろう。
「ううん、俺が悪いのは分かってた。あの時は本当に、目の前が真っ赤になって…
キルアは俺を止めようとしてくれてたんだって分かってた。
だから離れてからもずっと、キルアからの連絡を待ってたけど、
俺から連絡するのは何だか気が引けて、
待っているうちに、だんだん電話の一つも寄越さないキルアが薄情者に思えてきて、
そうすると余計にふつふつと…」
「あはは、薄情者!」
キルアはゴンの言葉に思わず笑ったが、薄情者、確かにその通りかもしれない、と思った。
そのとき、廊下の奥から、レオリオと見知らぬ初老の女性が歩いてきた。
ゴンは、レオリオの言っていた手伝いの女性だろうと思った。
レオリオは二人の姿を認めると、女性に二人を紹介した。
挨拶を交わすと、女性は笑顔を絶やさぬまま、診療所を後にした。
これで、ここにはこの三人と、病室のクラピカだけになった。
レオリオは、キルアの荷物に目をやり、それは何だと尋ねた。
「四人分の昼飯と、こっちはクラピカに」
「ほお、ひなげしか」
レオリオは微笑みながら、花に顔を寄せ、香りを嗅いだ。
持っていってやれ、とキルアを催促すると、
ジェスチャーで、俺はゴンと話がある、と説明した。
キルアはレオリオとゴンを交互に見、探るような目つきをしたが、
特に何か尋ねるでもなく、軽く頷いて、踵を返した。
キルアの姿が廊下の奥へ消えると、レオリオは空咳をして、口を開いた。
あいつは勘が良いし、あれで案気のつくやつだ。
「…ゴン。唐突なんだが、おまえ、クラピカのこと好きか」
「え?!」
ゴンはあからさまな反応をした。顔を真っ赤にし、肩を飛び上がらせる。
こうも分かりやすいとからかいたくなるが、生憎事態はシリアスだった。
「そうかそうか、そりゃあ良かった」
「そりゃあ良かったって、俺はまだ何も言ってないけど」
「好きなんだろ?」
「………」
レオリオが念を押すようにそう尋ねると、ゴンは黙りこくった。
次第に耳から煙が出てくる。これがキルアの言っていたショートか。
レオリオはくっくと笑いながら、ゴンの肩を叩いた。
「なら、チャンスだぞ。あいつは髪の黒い男が好きなんだと。
あいつが弱っているうちに、慰めに行ってやれ」
「うう…」
ゴンはまだ、認めかねるように、俯いていたが、
ふと、レオリオの言葉に不審な点を感じ、目だけで彼を見上げた。
「…黒髪?」
それはレオリオのことを言っていたのではないか、クラピカは。
そして、クラピカが弱っていると。慰めが必要だと。
二人が何故、好みの髪色の話をしていたのか。
鈍感でも、クラピカのこととなると敏くなるゴンは、きっとレオリオを睨みつけた。
「…レオリオ、クラピカに何を言ったのさ」
突然態度の変わったゴンに、レオリオはたじろいだ。
今の言葉から、どうやって二人の間にあったことを察知したのかは謎だったが、
野生児並の嗅覚や聴覚、動体視力をもつゴンが、ちょっとした表情の変化や声の変化で、
人の心理を読み取るのは容易いのかもしれない、とレオリオは思った。
そして、慌てて取り繕うように、言う。
「…まあ、それは俺ら二人の問題だからよ、ゴンが気にするようなことじゃねえ」
「クラピカに酷いこと言ったの?」
ずいずいと詰め寄ってくるゴンに、
レオリオはほとほと困り果て、ものものしい溜息をついた。
ゴンはその溜息を、肯定だととったらしい。
気色ばんで、レオリオを見上げた。
「クラピカを悲しませないで」
「…あのな、ゴン。俺だってあいつを悲しませたくなんかねえよ。
けど俺にはあいつを幸せにしてやることはできねえ。それは俺の役目じゃねえよ」
「どうして?クラピカはあんなに」
ゴン自身、どうしてそんな言葉が口をついて出てくるのか、分からなかった。
レオリオとクラピカの間に可能性がなくなるのは、ゴン自身、密かに願っていたことだった。
レオリオは力なく首を振り、ゴンの眼前に手をかざした。
「ゴン、それ以上は言うなよ。同情なんかじゃあいつを幸せにしてやれねえんだから」
レオリオはそう言い、ぽんとゴンの肩を押した。
ゴンはまだ腑に落ちないような顔をしている。
「…行ってやれよ、あいつのとこに。
強情なやつだけど、ゴンには心を開いてるから、あいつも本音を吐露するだろ」
ゴンがクラピカの部屋に入ると、キルアが花瓶に花を生けているところだった。
キルアは振り返ると、花瓶から離れ、椅子の上の紙袋の中から食事を二人分取り出し、
レオリオに届けてくるから後は頼むと言い残し、さっさと出て行ってしまう。
ゴンは途方に暮れたように、キルアの背中を目で追ったが、ドアは無慈悲に閉められた。
ゴンは少々まごつきながら、
先程からずっと窓の外を眺めているクラピカの後姿に声をかけた。
「…クラピカ、具合はどう?シャワー浴びて、少しはすっきりしたかな?」
本当はこんなことを聞きたいのではない。
しかし、慰めろと言ったって、どうやって。
クラピカは髪を風に自由に弄ばせ、人形のように動かない。
「…ああ。おかげさまで」
クラピカ自身が気付いているかどうかは分からないが、彼女の声は掠れ、
先程よりよほど病人じみて、消えかかっていた。
ゴンの胸が痛む。やっぱり、クラピカは。
「…そうだ、クラピカ。見た?キルアが買ってきてくれた花」
「…ああ、先程、ちらと」
クラピカは薄く笑みを湛えて、振り返った。
目覚めた直後の、あの清々しいと言えるほどの笑顔ではなかった。
復讐への執着心を忘れ、軽くなったはずの彼女の肩。
そこに、新たな絶望が降り積もったかのような、儚さがあった。
キルアは気付いたのだろうか。彼がそそくさと立ち去ったのは、
傷心のクラピカを癒すことのできるのは、黒髪の男だと察したからだろうか。
クラピカは窓の淵から降りて、花瓶の立てられているサイドボードへと歩み寄る。
ゴンも彼女の後に続いた。クラピカは一輪、白いひなげしを手に取ると、そっとそれに鼻を寄せた。
レオリオと同じことするんだな、ゴンはその仕草を見ながら、そう思った。
「…窓から望める海。日の光にウミヅルの鳴き声。白い壁に、白いひなげし。
…素敵な診療所に、優しい医者。ここは天国みたいだな」
うっとりと瞼を伏せたクラピカの長い睫毛。
彼女の頬が再び色を失いつつあるのを、ゴンは見た。
「ここで死ねるならば、患者も本望だろう」
不吉なことを言うクラピカに、ゴンは目を見張り、声を荒げた。
「クラピカ!冗談でもそんなこと」
「ああ、すまない、ゴン」
クラピカは言下に謝罪し、自嘲気味に笑うと、ゴンに背を向け、花瓶のひなげしに向き直った。
手にした一輪のひなげしを、その群れの中へ返してやろうと、手をかざす。
「ここで死ねたら、少しは私への慰めにもなるかと思ってな。
…私はレオリオのことが好きだった」
「…俺より?」
クラピカの告白にゴンが驚かなかったことよりも、
彼のその言葉が、クラピカを驚かせた。
クラピカが振り返るより先に、ゴンはクラピカを抱きすくめた。
はっと、手が震え、ひなげしが床に落ちた。
はたり、と儚げな音とともに。
同情でもいい。愛が欲しかった。
それが傲慢だと言うのなら、慰めでも構わない。
落ちたひなげしの花びらが、窓から滑り込む風に、はたはたと揺れた。
まるで笑っているようだった。
fin.
20081104
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