白いひなげし





一晩中、クラピカの手を握り続けていたゴンの祈りが届いたのか、翌朝、クラピカは目を覚ました。
クラピカはまだ何も言葉を発していなかったが、痩せた手がもがき、
瞼が開いて虚ろな目があらわれたのを見ると、ゴンはすぐさまレオリオを呼んだ。
レオリオと共に、キルアも駆けつける。

彼女の病室では、些か興奮気味に彼女の傍に立つゴンの姿と、
目覚めた、というにはあまりにその虚脱状態の目につく、
ぼんやりと横たわるクラピカの姿があった。

しかし、レオリオはほっとした。
予想していたようには、その瞳からは生きる意思は失せていなかったし、絶望の色も見受けられなかった。
ただ、長いこと眠りこけていて、風呂にも入っていず、鈍った身体。
それをうとましく思うさまと、寝起きの寝惚けた様子だけが、見て取れた。


「クラピカ、どうだ気分は。悪くないか」


言葉を発しようとしないクラピカに、レオリオはそう声をかけた。
その声に気付くと、クラピカはゆっくりと首を捻り、レオリオとキルアの姿をみとめ、
ゴンにそうしたように、ふと微笑んだ。


「レオリオ、キルア……なんだ、皆いたのか」

「なんだ、じゃねえよ。ぶっ倒れてたって聞きゃあ、そりゃ驚いて駆けつけもするさ」


肩を竦め、呆れたようにそう言うキルアを、レオリオは肘で小突く。


「クラピカ。おまえは大丈夫なつもりでも、一応怪我人なんだからよ。
 恢復するまで横になってなきゃぁ駄目だぜ。下手に動こうとするなよな」


レオリオがそう言うのを聞くと、まるでそれが過保護だとでもいうように、クラピカは乾いた笑いを漏らす。


「いや、私だって一度はハンターとなり念を習得したことのある身。
 あの程度の傷、とうに癒えているよ。あるのはだるさと空腹だけだ」


念を習得したことのある身。
その言葉が過去形であることは、その場に居た三人、全てが気付いた。
クラピカは念能力を失ったことに気付いている。
そのうえで、これだけ落ち着きを持って、笑っているのだ。
安堵と共に、拭えぬ疑心が三人の心の中で首を傾げたが、キルアが先にその空気を破った。
意外だ、と言いたげに、吹き出し笑いをする。


「空腹?腹へってんのか、あんた。何でも食えそう?何が食いたい?」


そう言い、前に歩み出たキルアを見、クラピカを見、レオリオは顎に手をあて、考え込む。


「…いや、一応消化のいいものがいいぞ、クラピカ。暫くはまともに動けもしないだろうから」


言下に、クラピカはむくりと起き上がった。
レオリオとゴンは慌ててそれを制そうとするが、彼女は構わず、
腕から伸びている栄養剤の点滴の管を引きちぎるように抜いた。

唖然としている二人に向かって、こともなげに肩を竦めてみせる。


「…食事は、食べられれば何でも良い。風呂にも入りたいんだが、レオリオ」


レオリオの白衣を見て、ここが彼の診療所だと察したのだろう。
院長である彼に、暗に風呂があるかどうかを尋ねていた。
レオリオは戸惑い、まごついた後、お湯をためてくる、と言って病室を後にした。

レオリオの去って行ったドアを、クラピカはまだ幾らか虚ろな目で、不思議そうに見つめている。


「…ここには、看護士はいないのか」

「ほら、あいつの診察料って安いし、時にはそれを貰わずに診ることもあるだろ。
 看護婦を雇う金がないんだっつって嘆いてたたよ」


キルアは友人のお人好しさを、呆れ半分、尊敬半分にそう言うと、くせのように肩を竦めてみせた。
キルアの言葉に、クラピカは、おや、と言って目を丸くし、そしてやがて、優しげに微笑んだ。


「それでは、大忙しだろう。安くて良い医者など、すぐに名を馳せるに決まっている。
 若くてよく働く看護婦を一人くらい雇ったほうが、かえって効率がいいのではないか?
 全く、ライセンスを有していながら金に困っているプロハンターなど、あいつくらいのものだぞ」


クラピカはそう言って笑ったが、そこには呆れよりも安堵があった。
その安堵の理由がゴンには分かった。
今、彼に近しい女性の存在がいないということを、クラピカはそれだけで悟ったのだろう。
クラピカは壁に凭れて、窓の外を眺めた。

白いカーテンを開け放った窓から、眩しいほどの日の光が差し込んでいる。
海面がそれを反射して、山頂で臨む夜空のように輝いていた。
ゆったりと波に身を委ねている、黄色やオレンジ、赤のヨットの帆がうかがえた。
クラピカはほうと息をつくと、その景観に見入った。


「けど、こんな良いところに医院を構えることができたのだな、良かった…」


ゴンの胸は痛んだが、しかし彼女の思いのほか丈夫な様子に心が救われたのも確かだった。
彼女はゴンたちとは反対の方向に足を下ろすと、立ち上がり、窓を開け放った。

ゆるやかな風が入り込み、三人の髪や衣服を煽った。
白いシャツとズボンを寝間着がわりに着ているクラピカは、そのまま光の中に消え入りそうだった。
本人は気付いていないのかもしれないが、その身体は以前に比べて、かなり痩せ細っていた。
それでも見るに耐えないというほどではない。何故だろう。
元々、細身というのではなくても、決して体格が良かったわけでもなかった気がする。

ゴンはそこまで考えて、感じていたクラピカの“異変”が、更に弱々しく己の肌を撫でるのを感じた。


―――やっぱり、クラピカは、念が。


「…何か食うもん買ってきてやるよ。
 ずっと食べてなかったんだから、やっぱり最初は消化の良いもんがいいよ。好き嫌いとかないよな?」


風に揺れる髪を押さえながら、キルアが言った。クラピカは振り返り、微笑んで頷いた。


「ああ、ないよ。すまないな」

「俺はクラピカを看てるね」

「ああ。お前は何か食うか?」

「うん、適当に。ありがとうキルア」

「じゃあ行ってくるよ」


キルアは踵を返た。
クラピカが目覚めて、ゴンの張り詰めていた気も少し緩んだらしかった。
気が立っているときのゴンは時折あまりに辛辣なので、キルアでさえも気を揉む事がある。

キルアはクラピカの目覚めとゴンの変化に安堵し、病室を後にした。


「…私は一体、どのくらい眠っていたのだろうか」


海を眺めながら、クラピカは言った。
ゴンはその声を聞きながら、懐かしさに浸っていたかったが、そうもいかなかった。


「最低でも一週間。レオリオが隣国の病院からクラピカのことで連絡を受けたのが一週間前だから。
 …クラピカがレオリオと最後に電話したのは、クラピカがその病院に搬送された日の一週間前らしいけど、
 それから何日後に倒れたかとか、覚えてる?」


クラピカは振り返った。
驚きと、自分自身にあきれ返った様子が、その表情から見て取れた。


「おそらく、四日後。ということは、私は十日間も眠っていたということか」


そう言い、再び窓の外へ目をやった。


「良く死ななかったよ。ゴンとキルアはいつからここへ?」

「昨日。レオリオから電話をもらって慌てて来たんだ。
 だからまだ、詳しいことは知らないんだけど」

「そうか。忙しいところすまなかった」

「ううん、そんなのは全然」


ゴンは首を横に振った。
ベッドを回り込み、クラピカの横に並んで、海を見た。
そして、極力気付かれぬよう、横目にクラピカを見る。
しかし、この至近距離で感づかれぬわけもなく、クラピカはふと笑んでゴンを見た。


「どうした。不思議そうな顔をしているな」

「え、ああ、うん、ごめん、つい」


ゴンはしどろもどろになって俯いた。
尋ねたいことは山ほどあったが、おいそれと質問するのははばかられた。
しかし、クラピカはそんなゴンの内に蔵した疑問をあっさりと見抜き、こともなげに語り始めた。


「…ゴンも察しているとおり、今の私は念能力を使えない。
 旅団の動きを封じるための能力だったが、逆にやつらの頭によってそれを封じられてしまった…滑稽な話だ」


クラピカはのびをした。全身に日とを風を受け、植物のように彼女は徐々に生気を取り戻していく。
しかし、ふと寂しげな面持ちになり、俯いてしまう。


「…皮肉なものでな。能力が奪われたと同時に、私の怨念も、つきものが落ちるかのように消えてしまったのだよ。
 あれだけ苦労して修行を積み、得た能力が奪われてしまったので、茫然自失としているのかもしれないが。
 …当分、考えられそうに無い。同胞のことも、復讐のことも。怒りの風化が最も恐ろしかったはずなのに、
 不思議と恐怖はない。まして、悦びもない。しかし、確かに肩は軽くなったような気がする。
 しかし、些か軽すぎて、私の身体に中空が穿ったような気分なのだ。頭の中まで、空っぽだ」

「…今まで、復讐にとらわれすぎて、突き走りすぎたから、周りが見えていなかったんだよ」


ゴンはクラピカの白い頬を見つめながら、ほろ苦く微笑んで、言った。


「それが急に、自分を取り巻く景色がふと色を持って見えるようになったから、クラピカは戸惑ってるんだ」

「…戸惑い…そうかもしれんな」


過去の自分を振り返っているのか、クラピカはおかしそうにくつくつと笑った。

暫く、二人で海を眺め続けた。
穏やかで美しいその景色は、二人の瞳孔を飽きさせることなくとらえる。
ウミヅルが鳴いていた。おそらくこの好天気は長く続くだろう、ということだった。


「…それにしても、誰がこの服に着替えさせてくれたのだろう」


クラピカは、気付きたくないことに気付いてしまったように、
不意に暗い声色になって、そう呟いた。
ゴンは首をかしげ、思案した。


「…隣国の病院に搬送された時にそこの看護婦さんがしてくれたか、
 そうでなければ、おそらく……レオリオ」

「ああ、やっぱり」


クラピカはがくりと項垂れた。
青白かった彼女の頬に、ほのかに赤みがさした。


「別に見られたからって、どうっていうことはない身体ではあるが」

「そ、そんなわけないじゃん!」


ゴンは真っ赤になって、反論した。
彼があまりに大声で怒鳴ったものだから、クラピカは驚き、目を丸くした。
ゴンは、はたと我に返り、恥ずかしそうに俯いてしまう。

クラピカが、レオリオに裸に近い姿を見られてしまったかもしれないことを恥じながら、
しかしその態度には一切の嫌悪感も見られなかったことが気になり、ついむきになってしまった。


「一体どうしたんだ、ゴン」


クラピカは困った子供をあやすような口調と表情でゴンを見た。
ゴンは尚更赤くなり、もごもごと口を動かす。
そのとき、部屋の扉がノックされ、長身の男が姿をあらわした。


「おいクラピカ、風呂沸いたぞ」


クラピカははっと顔をあげ、そして頬を染めた。
仕事中はサングラスを眼鏡にかえているレオリオからは、
逆光で、クラピカとゴンの表情はうかがえなかった。


「なんだよクラピカ、もう立てるのか。タフだな」


レオリオは呆れたように、しかし確かに安堵の色を滲ませて、ほうと息をついた。
クラピカは慌てた様子で窓を閉めた。


「あ、ああ。それよりレオリオ、私の着替えはどこだ」

「ああ、それならベッドの下の籠ん中にあるよ」

「あ、ありがとう」


クラピカの妙な、しかしやけに素直な様子にレオリオは首を傾げたが、
すぐに気のいい笑顔をつくると、


「風呂は部屋を出て左に進んで、突き当りの右側がそうだからよ。
 何かあったらナースコールを押してくれ」

「…ナース?ここには看護士はいないのではないか?」


クラピカの動きが、ぴたりと止まった。


「ん?ああなんだ、もう聞いたのか」


彼女の異変には気付かず、レオリオは照れ臭そうに頭をかいた。


「まあ、そうなんだけどよ。診察料をタダにするかわり、よく手伝いに来てくれるダチのかあちゃんがいるんだ。
 さすがにこういう時とかに、俺が手伝うわけにもいかねえだろ」

「ふむ、そういうことか」


クラピカはあからさまに安堵の溜息をついてしまった自分自身に驚き、はっと口をつぐんだ。
ベッド下の籠を漁るためにしゃがんでいるおかげで、レオリオからはその表情は見えないはずだった。
しかし、ならばこの着替えもその友人の母親という人がしてくれたのだろうと思い直し、クラピカは羞恥も拭われるのを感じた。


「…?それじゃ、悪いが俺は仕事に戻るよ。何かあったら遠慮なしに呼んでくれよ」

「ああ、すまない。おまえには迷惑ばかりかける」

「…なんだよ、妙に素直だな。らしくもねえ」


レオリオは、調子が狂うと言いたげに、頭をバリバリと掻いたが、
すぐに気を取り直し、じゃ、と短く挨拶をすると、忙しげに廊下を歩いていった。

彼の足音が十分に遠ざかると、衣服を手に、クラピカも立ち上がる。


「さて…ゴン、おまえにも迷惑ばかりかけているな。キルアにもだが。
 私はこのとおり、もう大丈夫だ。おまえたちも忙しい身であろう。
 私のことには構わず、おまえたちの仕事に戻ってくれて構わないよ」


無論、ゴンは彼女のこの言葉に、少なからず傷ついた。
彼女からすれば、ゴンを気遣ったうえでの言葉なのだろう。
しかし、彼女へ密かに想いを寄せているゴンとしては、離れることを厭わない彼女の態度は些か酷なものであった。


「どうして?俺は今、特に仕事はないし、平気だよ。クラピカのことが心配だし、暫くはここにいるよ」


そう、早口で捲くし立てるゴンに、クラピカは一瞬きょとんと目を丸くさせたが、
ふと柔和な微笑みをつくり、そう、と儚げな声で言った。


「皆からこんなに心配されて、私は果報者だな」


そう言い、クラピカはゴンの頭を撫でようとして、はたと手を止めた。
もうゴンの頭が、容易く手を乗せられる位置に無いことに気付いたのだ。
時は否応なしに流れる。クルタ族のことも、旅団のことも、もはや過去のことと言うべきなのか。

クラピカは躊躇った後、ゴンの肩に手を置いた。


「…私は母親似だ。女は父に似たほうが幸せになるというが、どうやら私は例外らしい」


クラピカはそう言って、すれ違いざまに手を離した。
ゴンの身体がかすかに揺れる。
やがて、かちゃり、と控えめな音を立てて、クラピカはドアから部屋の外へと出た。

ゴンは、クラピカの触れた己の肩に手を当ててみた。
そこは日の光が当たって、温もっていた。
ふう、と息をついて、窓に背中を預ける。
硝子もまた熱を孕み、ゴンの背中を暖めた。

クラピカが目覚めたのに、素直に喜べない。
それは四年半前のヨークシンのときと変わらなかった。









to be continued.
20081102




ブラウザバック