外界を濡らす雨の所為で、部屋の中まで湿っぽく、曇り空のように灰色がかっていた。


その滑らかな白い頬にまで落ちる、薄暗い陰。
いやな色だな。キルアはそう思いながら、その頬を指の裏で撫でた。
うん、と唸り、寝返りを打つクラピカ。キルアは自然と笑みの浮かんでくるのを感じた。

キルアがくすりとした、その微妙な空気の揺らぎを感じたのだろうか。
クラピカは眉を顰め、少し首を捩ると、ふと、瞼をゆらりと上げた。

青い目と、赤みがかったブラウンの目が交錯する。
クラピカは、森の中で密猟者と出遭った獣のような目をした後、
がばと起き上がり、サイドボードの時計を見た。


「十一時…」

「午前の、だよ」


キルアはクラピカにかける自身の声が驚くほど優しいのに気付き、はっとして口を噤んだ。
女のご機嫌をとろうとするなんて、らしくない。

クラピカは床に投げ捨てられたローブを拾い、肩にかけて浴室へと向かった。
ドアを開ける音に続き、浴槽の栓を抜く音、シャワーの音が響いた。
キルアは短時間の出来事だったので、瞬きも忘れてしまっていたが、
やれやれと溜息をつくと、自身もバスローブを拾い上げ、それを纏うと脱衣所へ向かった。
磨硝子のドアを、遠慮がちにノックする。


「クラピカ?」


シャワーの音で気付いていないのか、返事がない。
キルアは少しむっとして、声を荒げた。


「おい、クラピカ!」


数瞬間を置いて、コックを捻る音と共に、シャワーが止んだ。


「…なんだ?」


抑揚の無い声で、クラピカは返事をした。
キルアはその声に胸が痛んだ。何故かは知らない、いや、知りたくなかった。


「…何をそんなに慌ててるんだよ?」


くぐもった水音が聞こえてきた。髪を洗っているらしい。
その妙な冷静さも、気に食わない。


「…チェックアウトの時間を過ぎているだろう」

「金は俺持ちなんだから、気にするなよ」

「それよりゴンだ。丸一日放っておいてしまったんだ。可哀想だろう。
 だいいち、変に勘繰られたりしたらどうするんだ」

「どうするって、そんなの」


キルアは言葉を詰まらせた。この人、何言ってるんだ。
勘繰るも何も、自分達の間に何かあったのは事実なのだ。

レオリオのことを好きだったのは、あんなにあっさり認めたのに。
俺とのことを勘繰られるのは、そんなに不都合だっていうのか。


「おまえも早く支度をしろ。もうすぐ戻ると、ゴンに伝えてくれ」


クラピカがそう事務的に言った後、再びシャワーの音がした。
キルアは唇を噛み締め、忌々しげに磨硝子のドアを睨みつけた。


「…さっきからゴン、ゴン、って。他の男のことばかり!」


そう怒鳴り、ドア脇の壁を殴ると、脱衣所を出た。
確か、どこかへ置いたはずの携帯を探す。見つけた。低いクロゼットの上。
引っ手繰る様にそれを手にすると、着信履歴を見た。

あの後も何度かゴンから着信があったようだ。
メールも三件来ていた。昨日、ゴンから一件、レオリオから一件。数時間前に、ゴンから一件。
レオリオの名前が表示されているのを見て、キルアの心臓が不穏に高鳴った。

震える指で、まずゴンのメールを開く。
大丈夫か、できるなら連絡をくれ、というような内容。
次に、レオリオからのメール。

やはり、安否を気遣う文章があり、その後に、クラピカのことを気にかける内容の文が続いていた。
おそらく、自分らがゴンと別れた後、彼らはお互いに気付き、合流したのだろう。
クラピカの容態のことも、ゴンから聞いたに違いない。

キルアは重く溜息をつき、今日のゴンからのメールを開いた。
昨日と似通った内容ではあったが、文体が早急な連絡を要求する、やや切迫したようなものになっていた。

確かに、丸一日連絡をしなければ、それだけ心配するのも当然といえるが。
レオリオと、このゴンからのメールに、なにかキルアは似たようなものを感じ取った。
何と言うか、それとなく、事態の詳細の説明を促すかのような。


キルアはゴンのメモリーを液晶に映し、通話ボタンを押そうとした。
分かってる。さっさと帰ると伝えればいいんだろ。
唇を噛み締めた。眉根を寄せ、ともすればこみ上げてきそうになるものを、懸命に堪える。
みっともない。女に執着するなんて。


浴室のドアの開く音が聞こえた。
キルアははっとして、振り返った。


「どうしたキルア、一緒に入らないのか」


どきんとした。そう形容するのは女々しくて憚られたが、
しかしそれが最も妥当な表現なのだから、仕方あるまい。
キルアは携帯電話を握り締めた。ボタンを押そうと構えていた指を外すと、それを元の位置に戻した。


「…入るよ。今行く」


さっきの怒声は、やっぱり聞こえていたんだ。
だから取り繕うように、そんなことを言ったんだろ、どうせ。


けど、今はまだ。
それだけで、構わない。









あの日、傘をささなかった理由(わけ)










ホテルを出ると、クラピカは空を見上げて眉間に皺を寄せた。


「小雨だが、距離を考えると、結構濡れるな…傘を」

「雨宿りしながら行こうぜ」


クラピカの言葉を跳ね返すように、キルアは言った。
呆れたようにキルアを見上げるクラピカと、その視線に少したじろぎつつも、
不敵な笑みを浮かべるキルア。

クラピカは、ほうと息をつくと、踵を返した。


「やはり、傘を」

「あ、おい、待てよ。このすぐ近くに寄りたい場所があって」


そう言い、慌ててクラピカの手首を掴んだ。
その手と、キルアの顔とを交互に見て、不思議そうに口を開きかけるクラピカ。


「服を見たいんだ。付き合って欲しいんだけど…」


キルアはいちかばちかのつもりで、そう言った。
ゴンのいるホテルまで、できるだけゆっくり向かう為の即興の口上だった。



過去の、とはいってもそれほど昔のことではない、記憶に新しい出来事のことだ。
たった一度だけ、二人の女性と一日違いで関係を持ったことがある。
慣れないことはするものではない。あっさりとその事実は二人に露見し、激しく問い詰められた。

どちらの女性とも、ほんの一時の情に任せての出来事だったので、
最終的には、それぞれから強烈な平手打ちを喰らって事態は収拾したのだが、
一連の出来事を垣間見ていたゴンに、どうしてそんなことをしたんだと、酷く咎められた。
そのとき、自身の口をついて出た言葉を覚えている。


「だって、たった一晩寝たきりなんだぜ?」


そう言った直後、今度はゴンの強烈なパンチが左頬を襲った。
その後は恒例の激論大会で、一体どうやって仲直りしたのかも思い出せない。
しかし、そのとき、思ったはずだった。
“たった一晩寝ただけで、恋人面されちゃたまらない”、と。


クラピカは、あのときの自分と同じ事を考えているのだろうか。
そして、あの時の女たちは、今の自分と同じ心境だったのだろうか。



クラピカはさも可笑しそうに眉を上げて、言った。


「そんなのは、ゴンと見ればいいだろう」


そして、さり気なくキルアの手を振りほどいた。
先立って歩くクラピカの後を、キルアは慌ててついて行く。


「そうじゃなくて、女の意見が聞きたいんだよ」


キルアは咄嗟にそう言った。


「何を着ていたって、私はいつも似会っていると思っていたよ」


お世辞なのか、そうではないのか。
素直に喜ぶべきか、適当なあしらい方だと怒ればいいのか。
キルアは惑いながら、仕方なくクラピカの隣に並び、歩いた。


結局、途中コンビニに寄らせられ、傘を買った。
自分の分も買おうとしたクラピカを制した。傘を購入したのは、キルアにできる、最大の譲歩だった。

一つの傘に、窮屈そうに入る。
大の男と、長身で小柄とは言い難い女。
やっぱり私の分も、と店内に戻ろうとするクラピカの腕を、キルアは引いた。
戸惑う瞳でキルアを見上げても、彼はきっと眼前を見据えるばかりであった。


クラピカは俯いた。何か酷く道を歩み外してしまったような気がする。
私は、こんなつもりでは。


では、どんなつもりだったのだろう。
キルアも一時の気の迷いだろうと、何を根拠に断言できただろうか。
しかし、今更もう後戻りもできない。


「…キルア」


クラピカは躊躇いがちに、言った。


「何?」

「…明日には、レオリオの家に挨拶に行こうと思っている」

「…明日?」


キルアが立ち止まってしまったので、クラピカは傘より前に歩み出てしまい、前髪が雨に濡れた。
腑に落ちないような表情をしているキルアの手を、クラピカは曖昧に微笑んで、握った。
キルアは引かれるままに、ゆるりと歩き出す。
それと同時に、彼は口を開いた。


「急じゃないか?もう仕事の目星がついたのかよ?」

「まあ…なんというか、それを済ませないことには、動き出せる気がしないのでな」

「どういうことだよ、それ」


呆けたようなキルアの声が、俄かに怒りの色に染まる。


「結局まだ何も、忘れられてないのかよ?」

「キルア」


弁解しようとして口を開きかけ、クラピカはかぶりを振った。
一体何を弁解しようというのだ。全て事実である。

一夜を共に過ごして、途端に態度の変わったキルア。今まで通り接しようと努めている自分。
“もう少し”してみても、何も分からなかった。
実際まだ何も忘れられそうにはなく、事態は何も好転してはいなかった。
やはりまだ、キルアを男と認識するには早すぎる。


だとしたら何故、こんなことを。
その場の空気や情に流されただけで、こんなことをする自分だったか。
友人を、好きな男を忘れる為に利用しようだなんて、考えていなかった。
否―――しかし。否。
自分はそんな、聖人君子のような人間なのだろうか。
レオリオの前で。キルアの前で。
一人の人間、女でしかなかったような気がする。

クルタ族として、いや、個としての誇りは。
怒りや悲しみの前には、プライドなどやはり無意味なのだろうか。


「黙るなよ」


縋るような声で、キルアが言った。


「ごめん、変なこと言って」


そしてそう、謝罪する。
クラピカは首を振った。


「…いや」


謝るべきは私のほうだ。妙なことを言っているのも私。
正常な思考の男女であれば、一夜を共にした後のおまえの態度は至極自然なもの。
おかしいのは私のほうだ。“たった一夜、共にしただけで”などと愚考してしまうのは。
その一夜がおまえにとって、どれだけ重要なものだったのか。
私には量れないでいる。


しかし、たった一夜では。
私がレオリオを想い続けてきた時には、到底追いつけないのだ。


「…おまえが、忘れさせてくれるんじゃなかったのか」


そう言い、キルアの手を握る力を強めた。
こめかみを、彼の肩先に預ける。その初心さが愛しくなるくらい、キルアは緊張に肩を強張らせた。
そして、彼の纏う空気が変わるのを、クラピカは感じた。


「そう…だったな。うん」


先程よりも幾分丸みを帯びた声が返ってきた。

―――嘘などではない。慰めのつもりでもない。
忘れたかった、早くに。人のものになった男のことなど。




結局、服屋にも寄らず、ゴンの待つホテルへと戻った。
部屋のインターホンを押すと、まるでそこで待ち構えていたかのように、すぐさまドアが開け放たれた。
面食らうキルアとクラピカの二人に、ゴンは一瞬、咎めるように眉根を寄せて両目を見開いたが、
それを引っ込めるとすぐに柔和な笑みを作り、二人を招きいれた。


「元気そうでよかった。全く、丸一日携帯が繋がらなきゃ、心配するよ」

「悪い」

「すまなかった」


二人はそれぞれそう謝罪すると、部屋の中へ入っていった。
キルアの持っていた濡れた傘をゴンが受け取る。


「雨に打たれた所為か、具合が余計に悪くなっちまって」


思い出したように言いながら、キルアはクロゼットをまさぐった。


「シャワーを浴びる」


クラピカはそう言って、二人の間を潜り抜け、さっさと脱衣所へ姿を消してしまう。
キルアはクラピカを呼び止めようとした。昼に浴びたばかりじゃないか、と。
しかし、慌てて口を噤んだ。ゴンの手前だ。

ばたん、と無機質なドアの閉まる音。
ゴンはキルアに歩み寄り、耳打ちするように、尋ねた。


「昨日、どうして急にいなくなったりしたのさ。クラピカはどういううふうに具合が悪かったの?
 そうと分かってれば俺もついて行ったのに。一人にするなんて、酷いじゃん」


キルアの背筋を、冷や汗が伝った。
クラピカが、昨日から今日にかけての出来事を隠しておきたいと考えている以上、
キルアもそれに従うほかなかった。
しかし、いつもなら咄嗟に出てくる演技の台本が、今日はなかなか出来上がらない。


「…ごめん。あいつが急に吐き気がするって走り出したからさ。
 俺も慌てちゃって、つい電話でああ言っちゃったんだ。悪かったよ」

「…昨日から今日まで、ずっとどこにいたの?」


キルアの言葉とは全く関係なしに、ゴンはそう尋ねた。
キルアは目を見張った。ゴンの声色に含まれている、確かな疑心の塊。


「…とりあえず、近くの適当なホテルをとってた。横になりたいって言うからさ。
 けど、雨の所為か俺もそのうち気分が悪くなって、結局今日までずっと寝込んでたんだよ」

「ふうん…」


ゴンは何か探るように、キルアの表情に見入っていた。
シャワーの音が、浴室から聞こえてきた。
ゴンはやがて瞼を伏せると、傘を靴棚の横に立てかけに行った。


「キルアが雨くらいでダウンするなんて、ひょっとしてあの雨は強酸だったのかな」


むすっとしたように、背を向けたままそう皮肉を言うゴン。
まずったな。キルアは舌打ちをしそうになる。やっぱりこの台本は、駄作だったか。
あのゴンを欺くこともできないなんて。


「あの後、レオリオとその奥さんにばったり会って、一緒に昼ご飯食べたんだ。
 レオリオ、二人がいないから残念がってたよ」


ゴンはそう言いながらベッドの端に腰掛けた。
やっぱりそうだったか、とキルアは思った。
だとすると、やはりあの場を離れて良かったと言えた。

しかし、ゴンでさえ、ここまで疑ってかかってくるとなると。
レオリオは、ゴン以上に今回のことを不審に思っているかもしれない。
昨日、彼から来ていたメールの内容を思い出す。

キルアは肩を竦めると、ゴンの隣に腰を下ろした。


「クラピカ、明日レオリオんとこ挨拶に行くって」


キルアの言葉に、ゴンは面食らって彼を見た。


「…急じゃない?仕事の目星はついたのかな?」

「さあ。そういうわけでもなさそうだけどな」


溜息混じりに言い、上体を倒した。
ベッドはキルアの重みを受けて、ゆるやかに形を歪ませた。

レオリオと彼の配偶者。
二人が談笑しているのを見ただけで、あれ程取り乱したのに。
昨日の今日で、彼らの住む家に行って、彼女が冷静でいられるとは、思えなかった。


「…寂しいけど、仕方ないね。クラピカは一度言い出すときかないし」


ゴンはそう言い、キルアに倣ってベッドに横たわった。


「また、四人ともバラバラだね…」


途方にくれたように、そう呟いた。
キルアはその言葉を黙って聞いていた。


忘れさせるったって。


キルアは思った。


さっさと行っちまうんじゃ、何もできねえじゃん。


このままでは次に再会した時にこそ、本当に、何もなかったことにされる。
キルアは何故かそう確信していた。


窓の外で、雨がいっそう酷くなっていった。









to be continue.
20081028




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