「そろそろ、行くとするかな」


クラピカの言葉はあまりにも唐突すぎ、脈絡がなさすぎて、
キルアとゴンの二人は面食らい、キルアは、かしゃんとスプーンを器の中に落とし、
ゴンはスパゲッティを途中まで銜えて固まった。

反してクラピカは、まるでそれがあらかじめ書かれた台本の台詞だったかのように、
平然として、紅茶を飲んでいた。最近のクラピカは紅茶ばかり飲んでいる。


「行く、って?」


さきに口を開いて尋ねたのは、キルアだった。
その表情には、人形的なほどに変化がなかったが、それはキルアが努めて“そういよう”としているからだった。
ゴンも何かを言いたそうにしているが、麺が喉に詰まっているのか、どんどんと胸を叩いていた。


「そろそろこの国を出ようという意味さ。
 無論、私一人の話だ。二人はまだゆっくりしていくといい」

「出てって、どうするの?あてはあるの?」


水を喉に流し込んで、ようやく息をついたゴンが、そう聞いた。
クラピカは薄く微笑み、首を横に振った。


「あてがあるわけではないが、いつまでもゆっくりしているわけにはいかないさ。
 もう十分すぎるほど休暇はとったし、そろそろ何かしら仕事を探さなければ」

「そっか…俺もそろそろ考えないといけないかな」


ゴンは玩具をとりあげられた子供のようにしゅんとしてみせたが、


「二人はまだ遊びたい盛りなんだから、仕事に固執せずに自由にやればいいさ。
 十七、八の男子というのは、本来まだハイスクールで勉強中なのだから」


そんなゴンを、クラピカは母親が息子に言うような口調で、慰めた。
よく言うぜ、キルアは内心肩を竦めて呆れていた。
そういうアンタが十七、八だった頃は、仕事に復讐に仲間の緋の目の奪還に、って、
ハイスクール生だったら到底歩まないような茨の道を歩んでいたくせに。


「まあ、とにかく近日中には飛行船のチケットを取るよ。
 それまでに行き先や、ある程度仕事の目星をつけておかないとな。
 レオリオにも最後くらい挨拶に行かねばならないし」

「レオリオに?」


キルアの切れ長の目尻が、ぴくりと動いた。ゴンも同様だった。


「あんた、レオリオに会いに行くの?」


キルアの声は、そこまで意外なのだろうか、と苦笑してしまいたくなるほどに、驚嘆に満ちていた。
クラピカは困ったように笑う。


「それが礼儀というものだろう?私は別に、彼のことを嫌いになったわけではない。
 寧ろ以前と変わらず、友人として、慕っているのだから」


以前と変わらず、友人として?
キルアはその言葉に違和感を覚えたが、あえて何も言わずにいた。
クラピカは続けた。


「同じ国内にいて、向こうからも誘いの言葉をかけられていながら、
 それを延々無下にし続けるのも気が引けるよ。
 あいさつも無しに帰ればなおの事、気まずくなってしまうのは目に見えているしな」


そう言って、また紅茶に口をつけた。

キルアはクラピカの穏やかな表情を見た後に、視線を落とし、考えた。

もしかしたら、完全に気持ちに整理がつくまで、待っていたのかもしれない。
出国の前の挨拶に伺えるようになるまで、そのときを待っていたのかもしれない。
今ならもう、レオリオの顔や、その妻を目の当たりにしても、気が動顛しないという自信があるのだろう。

キルアはテーブルの下で、そっと、左手を握り締めた。
もう何日、何週間前になるだろうか。この手で、クラピカの手を引いた。
なぜ、あの手を離さなかったのか。その理由を追求するのは憚られたが、
しかし確かに、離したいと思わなかったから、離さなかったのだ。

まるで傷心につけ入る真似をしているようで、己のあざとさをいやらしく思った。
クラピカを好いているというのではなかった、少なくとも、レオリオの婚儀以前までは。

しかし、あの日、あの喫茶店で悲しい女の歌を聴いたときから、
クラピカを異性と思うようになり、異性として接するようになったのは事実だった。
異性の前でだけ感じる羞恥や見栄というものを知った。

一度そうなると、今まで殆ど同性のようなものと思ってきたクラピカの女性としての部分が、
急にクローズアップされてしまうので、困ったものだった。
そしてそれが、よりクラピカを意識させる火種となるのだった。
柔らかい掌だとか、細い爪先だとか、白く肌理の細かい肌だとか、だ。

これが恋愛感情なのか。キルアにはまだ判断しかねた。
しかし確かに、そろそろ行く、とクラピカが口にしたとき、胸がざわつき、
なんとか心変わりしてくれないものか、と思ったのだ。


なんで、そんなこと考えるんだ?別にどうってことねーだろ、今まで殆ど離れて過ごしてきたんだし。
今まで傍に居なくても特に問題なかったんだし。どうせまたすぐ会えるだろ。
けど、俺たちの言う、すぐ、っていつだ。
レオリオとの再会だって、五年ぶりだったのに。

キルアは、自分の中の腑に落ちない感情を説得しようと試みたにも関わらず、
結局また思考の罠にはまってしまっていることに気付き、
握り締めていた左手の力を解放し、足をつねった。


―――もう一度、この手で。


クラピカと手を繋いでみたいと思った。
あの日のクラピカは、あれをどう思っていたのだろう。
特に何も言わなかったことを思うと、やはり何も感じていなかったのだろうか。
一体あのとき、どんな表情をしていたのだろうか。

もう一度、握って確かめてみたい。


もしクラピカも自分と同じ気持ちなら、手を握ったそのときに、
この国を出ようという考えそのものが変わるかもしれない。


―――その“同じ気持ち”って、どういう気持ちだよ。


そういう考えが脳裏を過ぎったとき、じわり、と胸が熱くなったように感じた。
次の瞬間にクラピカを見たときには、既に彼女が違う色で、自身の瞳に映っているのがわかった。



―――まさか、俺は。









あの日、傘をささなかった理由(わけ)










しかし、手を繋ぐにもどうすれば自然と二人きりになれるか分からなかった。
そうやって考えあぐねればあぐねるほど、クラピカについて考える時間が増えてしまい、
そうすると余計に彼女を意識してしまうのだった。


そして、今日もまたいつものように、昼食のためにホテルを出て、
以前から目をつけていたカフェへと三人で足を運ぶことになった。

今日は雨は降っていなかったが、昨日の夜まで降っていた雨が作った水溜りを、
やはりゴンが先立って歩き、踏みつけていくのだった。
キルアとクラピカは、水しぶきがかからぬよう、後方でそんなゴンを見ながら、苦笑していた。


「あいつ、あれをやるためにクロックス買ったんだぜ」

「くじら島では雨は珍しいものだったのだろうか?」

「さあ…」


キルアは気のない返事をしながら、タイミングを窺っていた。
もしかして、今がチャンスなんじゃないか。

あの日のように、自然にはいかなかった。
なにしろ、意識しはじめてからでは緊張してしまう。
第一、あの日以降、白々しいほどお互いの間には、何もなかったのだ。

キルアは、少し指先を伸ばしてみた。
すると、意図してそこにあったかのように、クラピカの掌に一瞬触れた。
ほとんど反射的に、その手を握った。

びくり、と彼女の身体が強張るのが、その手を伝ってきた。


「キルア!」


咄嗟に、クラピカは咎めるようにその名を言った。
キルアは、自身の掌の中で彼女のそれが震えているのを感じ、心強くなった。
少し腰を屈めて、彼女の耳に口をつけるようにして、言う。


「気づきゃしねえよ」


キルアの言葉に、クラピカは、はっと顔を強張らせ、俯いた。

気づかれたらまずい、と。何故そう感じたのだろう。
しかし、五年前ならいざ知らず、今はゴンもキルアも男女の機微を理解する年齢なのだし、
その年齢に達した今、異性間で手を繋ぐ行為というのが単純な友愛の情でなされるものではないと、
ゴンは分かっているはずだし、そしてキルアも―――


キルアも。

クラピカの頬に、赤みがさした。
悟られぬよう、横を向いてそれを隠す。

あの日以来、何もなかったから、あれは何の意味もないものだったのだと思えるようになったのに。


悪い冗談としか思えなかった。
自分が、彼を意識しているだなんて。


そのとき、そんなクラピカを支配する思考さえも凌駕するものが、彼女の視界に入った。


突然、ぴたりと歩みを止めてしまったクラピカにつられ、かくんとキルアも止まる。
不審に思い、繋いだ手の先の、彼女の顔を見た。


「おい、クラ―――」


その、黒いコンタクトレンズの裏側が、俄かに揺らぎだすのをキルアは見た。
はっと、息を呑む。しかしクラピカの表情は、憎い仇を眼前にしたものではなかった。
かといって、恐ろしい過去に思いを馳せているのとも違う。
激甚の動揺と悲しみとが、彼女のまわりを取り巻いていた。
キルアは眉を顰め、彼女の視線の先を、おそるおそると見た。


そこにあったのは、レオリオと、彼の妻だった。


いつの間にか、空に暗雲が重く垂れ込め、今にも泣き出しそうな色を湛えていた。
レオリオは、空を見上げると、眼鏡にかかった水滴を拭い、手にしていた傘を広げた。
赤い傘の色が、二人の姿を朱色に染め上げていた。二人はなにか談笑していた。

キルアはレオリオの隣の、彼の妻を見た。
長い髪。長身のレオリオの隣にいると尚更際立つ、小さな背。
真紅の傘に不似合いな、淡い水色のワンピースが揺れていた。

一目に、愛らしい女性だと思った。
しかし、どうしてだろう、レオリオとは似合いの夫婦には見えなかった。
以前その隣によくいた女性とは、似ても似つかぬ容姿だからだろうか。

もしかしたら、今、あそこに立つのはクラピカだったのかもしれない。


クラピカはキルアの手を振りほどくと、逆方向へ走り出した。
キルアははっとして振り返り、それに気付かず無邪気に前を歩いているゴンと、
クラピカの去っていったほうを左見右見し、舌打ちをして、クラピカのほうへと走り出した。

ついに、暗雲はその不安を両腕に抱えきれなくなったらしい。
突然、それは激しい雨となって、街をおそった。
ゴンは、あっと叫んで、空を見上げ、言った。


「わー、降ってきちゃった!やっぱり傘持ってくればよかったねー」


そう言い、振り返ろうとしたときに、ゴンの携帯が鳴った。
液晶にはキルアの名前が出ていた。ゴンは不審に思い、通話ボタンを押した。
それと同時に顔を上げ、後ろにいるはずの二人を振り返った。


『あ、ゴン?わりぃ、先行っててくんね?なんかクラピカ、気分悪いらしいからさ』


二人はいなかった。
電話はすぐに切られ、ゴンは途方に暮れたように立ち尽くしていると、
背後から聞き知った声に名を呼ばれた。


「おいゴン、ゴンじゃねえか。こんな雨の中でなにボーっと突っ立ってんだ」


声の主を振り返り、ゴンは俄かに笑顔になる。


「レオリオ!と、えーと」


先日、彼の妻となりえた女性。
ゴンはなんとなく複雑な気持ちになったが、それを表に出さぬよう努め、笑顔で挨拶を交わした。


「で、何してんだこんなとこで?二人は?」

「あ、うん、ええと」


困ったように、誰も居ない場所へ視線をさ迷わすゴンにレオリオは首を傾げたが、
すぐに笑顔を見せ、提案をした。


「なあゴン、暇なら一緒にメシ食わねぇか?俺らもこれから外食に行くところだったんだけどよ」

「ああ、うん、俺もこれから行くところだったんだけど」

「じゃあ決まりだな!この近くに美味い郷土料理の店があるんだよ」


レオリオの押しの強さに負け、ゴンは二人について行くことにした。

二人が消えた場所をゴンは幾度か振り返ったが、キルアはああ言っていたことだし、
二人には後でまた連絡すればいいと思い直し、夫妻の後をついていった。




クラピカに追いついても、キルアはかけるべき言葉が浮かばなかった。
雨に濡れてシャツから素肌のいろが浮き上がっており、それを直視するのも憚られ、
まいったな、と濡れて額にはりつく前髪をかきあげ、そっぽを向くしかできなかった。

かといってほうっておくわけにもいかず、雨の中ふらつく足取りで歩くクラピカの後を、
他に何をするでもなく、ついていった。

すれ違う人々が、そんな自分たちに、
不躾な視線を投げかけてくるのを肌に感じながら、キルアは身震いをした。
雨がやけに冷たく感じた。


「…どこまでついてくるつもりだ」


突き放すでもなく、ただただ脱力した声で、クラピカはそう尋ねた。
キルアは肩を竦めた。じゃあ、あんたはどこまで行くつもりなんだ。


「…さあ。あんたが変な気を起こさないっていう確信が持てる場所まで、かな」

「馬鹿なことを…」


クラピカは乾いた笑いを漏らしながら、ふらりと建造物の隙間に入っていった。
キルアもその後に続く。人目につかぬ場所へ行くのなら好都合だった。


「あんなことくらいで、死にはせん」

「あんなことくらい?」


キルアは鼻に皺を寄せた。
嫉妬なんてしてるのか、俺は。


「死にそうな顔してるけどな、実際」


クラピカは壁に凭れかかり、じっと、キルアを見つめた。
蒼いつり目と黒い猫目が、宙でかち合った。
降り頻る雨の所為で分かりづらかったが、クラピカは泣いていた。
隠そうともせずに。それとも、雨が隠してくれていると思っているのだろうか。

しかし、やがて顔を背けた。


「…すまないな、情けない姿を見せてしまって」

「…別に情けないとは思わねーけどさ」


吐き出すようにキルアは言う。


「結局、まだ諦められてねーの?」


キルアの言葉に、クラピカは自嘲的に笑う。


「諦めざるを得ないだろう」

「そんだけ好きだったんなら、どうしてもっと、頑張らなかったんだよ」

「…頑張る?」


クラピカは再び顔を上げた。
澄んでいたはずの白目が、赤く濁っていた。


「…私にはその資格がなかったんだよ、キルア」


キルアは奥歯を噛み締めた後に、思わず舌を打った。
なんなんだよ、兄貴といいこの人といい、資格資格って。
それはそんなに大事なもんなのか。

キルアも、向かいの壁に背中を預けた。


「…なんだよ、その資格って」


そう尋ねると、クラピカの肌は更に陶器のごとき白さを伴い、硬直した。
瞼を伏せて、大きな目を隠した。睫毛を濡らしているのは、雨だろうか、涙だろうか。
形の良い唇が震えていた。躊躇いがちに、言葉を紡ぐ。


「…まだ、思い出したくない」


その声を震わすものは、未だ残る、彼の人への想いなのだろうか。
キルアは俄かに苛立ち、乱暴に彼女の頬を手でとらえた。

はっとして、クラピカが目を見開いた瞬間、黒のコンタクトレンズが片方、地面に落ちた。
赤茶色に染まった瞳孔。そこにはキルアの顔が映っていた。


その顔を引き寄せると、強引に口づけた。
クラピカが息を呑むのが、唇越しに伝わったが、抵抗の気配はない。

角度を変えて、口唇の間に隙間をつくる。
クラピカの唇が、躊躇いがちながら、そっと開かれた。
その僅かな間隔を押し広げるように、キルアは舌をそこへ捻じ込んだ。


「んっ」


クラピカの肩が跳ね上がり、手がキルアの腕に触れた。
キルアは空いているほうの手でクラピカの腰を引き寄せた。

今は思い出したくないことなら。
キルアは思った。
いっそ永遠に、忘れてしまえればいいのに。


キルアの舌はクラピカのそれを探り当てると、強く吸い上げた。
クラピカもそれに応えるように、舌先で彼の舌の裏を撫でた。
キルアの鼻から抜けるような声が漏れたとき、クラピカの腰が浮いた。

水音をたてて唇が離れた後に、舌が離れた。

至近距離で目が合い、照れ臭そうに視線を外したのは、キルアだった。


―――好きだ。


「少しは、忘れられたかな」

「…何を」


すぐ近くに響くキルアの声を聞き、クラピカはまだ熱の冷めやらぬ声で尋ねた。
キルアも熱い息を吐いた後に、言葉を繋げた。


「その、思い出したくないことをさ」


薄く笑んで言うキルアに、クラピカもつられて微笑む。


「まだ分からない」

「まだ、って言うと?」

「もう少し…してみないと」


クラピカが言い終わるやいなや、再び口づけようとしたキルアを、
クラピカは眼前に手をかざし、慌てて制する。
そして、取り繕うように、笑って言った。


「だが、これ以上はもう、ここでは」


クラピカの言葉の意味は、キルアも瞬時に理解した。

場所を変える。
そして、次はきっと、これだけでは終わらない。
そういうほうへ、クラピカが誘導しているのだ。

パームといい、女っていうものにはまったく恐れ入るが、
その誘いに乗らないてはなかった。腰のあたりが疼く。


キルアは、仕草で、もう片方のコンタクトも外したほうがいいと促した。
クラピカはもう一つのレンズを外して捨てると、気持ちを落ち着けて、緋色を引かせた。
それを確認すると、キルアは彼女の手を引いて、表通りへと出た。

ポケットの中で携帯電話が震えていたが、出る気にはならなかった。









to be continue.
20081022




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