目覚めると昨日の朝とは違い腕の中にクラピカはいなかった。
一抹の不安にかられ、キルアは素早く上体を起こし、あたりを見回した。
寝室入り口のドアは僅かに開いており、そちらから気配を感じて安堵の吐息を漏らす。
両脚をベッドから下ろし、床に散乱していた衣類を緩慢な動きで拾い上げると、身に着けた。
寝室を出ると、クラピカはまたコスモスの剪定をしていた。
「おはよう」
キルアは彼女のその様子をドアの横に凭れたまま見つめていたが、
気配を感じたクラピカが、振り返らずそんな彼にそう声をかけた。
「…はよ」
まだ少し眠気を纏った掠れ声でそう応え、寝癖がついているであろう後頭部を撫でつけながら、
キルアはキッチンに立つクラピカの隣まで歩み寄った。
「…マメだね。またそんなことしてんの」
「そんなこと、とはなんだ。植物が長生きするためには大事な作業だ」
とはいえ切り花の寿命はたかが知れている。気休めに近い延命措置ではあるが。
クラピカはそう付け加えながら、視線は手元から外さなかった。
「……花が好きならまた買ってきてやるよ」
あくび交じりにそう言うキルアの横顔を、クラピカは一旦手を止めて見た。
視線に気が付いて、寝惚け眼をそちらに向けると目が合った。
クラピカはふっと微笑んだだけで何も言わず、剪定作業に戻った。
貴方に花束を
漁師たちの世間話の通り、空には暗雲立ち込めて今にも泣きだしそうな水分を抱え込んでいた。
数日前に海に飛び込んだことが嘘のような肌寒さに、
身軽な出で立ちのキルアは何か上着が欲しいと、早めの時間に街へ出た。
ついでにワインも買いたいというクラピカを、あんまり飲むと身体に毒だぞとキルアが咎めた。
クラピカは意外そうな顔をしてキルアを見たのち、そういうお前こそ甘いものばかり食べでいると今はよくてもそのうち太るぞ、と目を細めて反論した。
キルアはぎくりとして、次兄の体系を思い出しながらも、俺は鍛えてるから大丈夫だと返した。
とりとめのないやり取りに、ああ、いつも通りだとキルアは内心胸を撫で下ろした。
昨晩のクラピカの告白は少なからずキルアに衝撃を与えた。
彼女の抱えているものは想像していた以上に重いものだった。
知ってはいたはずだが、彼女を支えたいと思うと同時に、支え切れるのかと不安に感じるほどには。
いつもと、そして昔と変わらぬ様子の彼女が本当に何も感じずに普段通りなのか、
何かしら無理をしてその状態を保っているのか、キルアには推し量ることができない。
好きだと言ってくれた彼女の言葉の真意も定かではない。
本当に同じ気持ちだからそう言ってくれたのか、憐みを含んだその場限りの言葉だったのかも。
袋に入りきらなかったピルスナーの瓶を片手で弄びながら二人で過ごす家に戻る道すがら、キルアはそんなことを考え続けて、
時折彼女の言葉が耳に入らず、とんちんかんな回答をしたりしていた。
訝しんで眉を顰める彼女に、曖昧な言い訳すらできない。明日は船が来る―――
俺はその船に乗るべきなのか?乗らなくちゃならないのか?
クラピカは不自然といえるくらいにそのことに触れない。
このまま彼女が触れずにいたら、俺はしれっとこのままくじら島に残ってしまうかもしれない。
彼女の真意も量れないまま―――
その時、キルアのスマートフォンがメッセージを受信する音が鳴り響いた。
ここ数日はずっと静かだったそれに、キルアは心ここにあらずの状態だった為もあり、過敏に反応してしまう。
普段であれば、近くにいる人間に液晶が見えぬよう画面を立ち上げるが、この時はそこまで気が回らなかった。
クラピカが覗き見るとは思わないが、意図せずして目に入ってしまうことはあるだろう。
不運なことに、まさにこの時が、そのタイミングだった。
液晶には途中までメッセージが表示されていた。
昔の携帯電話と違い便利な反面、こういう時に煩わしい思いをさせられる。
くじら島に来る前に別れた女からのものだった。
特に深く考えず連絡先も削除していなかった為、女の名前もご丁寧に表示されている。
メッセージの冒頭の、二番目でもいいから傍にいたい、諦められない人がいてもいいから、好きでいさせてほしい。
というような文面も。
「…私の所為で別れたという女性からか?」
そう言ったクラピカの声色は、怒っているふうでも、まして寂しげでもなかった。
やや、触れても良いのかという迷いは感じられるものの、
異性とのやり取りをしているキルアを咎める色は一切感じられない。
キルアは、見たくない、と思いながらも、
隣を歩くクラピカの顔を見ずにはいられなかった。
クラピカは優しく微笑んでこちらを見ていた。
その微笑みの意味も分からず、キルアは足を止め、その瞳に見入った。
クラピカも彼に合わせて足を止める。
「……そういう人を、大切にしたほうが良い。
自分が傷つく覚悟で一緒にいたいと言ってくれる人というのは、思っている以上に貴重なんだ。
…お前は優しい。お前は人のためなら自分が傷つこうとしてしまうきらいがある。
だからせめて生涯の伴侶は、お前を傷つけない、お前のために傷つくことのできる人が傍にいてくれたら、と思う」
そう言って、ふっと笑い、いよいよ降り出しそうだから早く帰ろう、と空を仰いで再び歩き始めた。
キルアはピルスナーの瓶を握りしめて、クラピカの背中を見た。
―――誰かのために傷つくのが苦痛なんじゃない。
だが言葉にしても伝わらないのは苦痛だった。
昨日の話はなんだったのか?
俺たちが話したのは一体誰と誰の話だったんだ?
気が付くとピルスナーを横の雑木林に向かって投げつけていた。
瓶は木の幹にぶつかり、けたたましい音を立てて割れた。
前を歩いていたクラピカが、はっとした様子で振り返った。
「……俺、言ったよな?そんな幸せいらねーって……」
酒は木の幹を濡らし、場にそぐわぬしゅわしゅわと弾ける音を立てて伝い流れた。
「言ったよな?お前のことがすげえ好きなんだって」
暗雲の隙間からゴロゴロと不吉な音が鳴り響いた。
抱え込んだ様々なものがいまにも零れ出しそうな様子だった。
「傷つくのが怖いんじゃねーんだよ…!」
抱えきれなくなったものを解放した空から、雨が一気に降り注いだ。
それは、ほんの数秒の沈黙の間に二人とその間をあっという間に冷たく濡らした。
勢いよく降り注ぐそれは地面と葉を楽器のように鳴らし、沈黙を破る騒音となる。
「……キルア、帰ろう。風邪をひくから……」
雨音の合間を縫ってクラピカの気づかわしげな声が届いた。
キルアは首を横に振った。目に入る雨を拭うため目元を手の甲で擦った。
涙を誤魔化してくれる雨を、少しだけありがたいと思った。
「……帰れない」
声が震えるのも、雨の冷たさの所為とも雨の轟音のせいとも誤魔化せる。誤魔化せていると思った。
「一人になりたい」
数秒の間を置いて、クラピカは、そうか、と言った。
先ほども見せなかった寂しさが、その声に滲んでいるのにキルアは気付いた。
それが、ただの寂しさではなかったと気付くべきだったとキルアは回顧することになる。
「……なるべく早く帰って来い。待っているから……」
そう言ってクラピカは再び帰路についた。
どこもかしこも水たまりだらけになり、その上を歩く足音が遠く離れてなくなるまでキルアは立ち尽くし、
やがて姿も気配もその道の先に消えてしまうと、その場にしゃがみ込んだ。
あまりの雨音に考えもまとまらなかった。
ほんの僅かに感じたレオリオの気配にすら嫉妬した自分と違い、
クラピカは前の女からの連絡に動揺するそぶりすら見せず、寧ろ復縁を勧めるほどだった。
成程、昔馴染みの友人から思いを寄せられて無下にすることもできず、好きだなんて宣ったというわけか。
ちょっとからかってやろうと一度肌を合わせたら本気になられてしまって困っていたというわけか。
船が出る日まで入り浸られて妊娠してりゃ責任取るとまで言われてほとほと対応に困り果てていたところに女からの連絡、
あいつからしたら正に渡りに船だったというわけか。
雨で張り付く衣服の気持ち悪さも、冷たさに奪われる体温も、全てがキルアを苛立たせネガティブな思考に拍車をかけた。
帰れない、帰るもんか、絶対帰らない、元々あそこは俺の帰る家じゃない。
一人になって初めて俺を失ったことを後悔して苦しめばいい、お前が俺を傷つけたように。
そう心に誓った通り、キルアはその日は帰らず、港に宿を取りそこで一晩を過ごした。
眠れもせずに、窓の外の港のわずかな灯りを何とはなしに眺めて夜が明けるのを待った。
探しに来ないクラピカを、メールや電話の一本も寄こさないクラピカを薄情だと思った。
そしてきっと、メールを寄こした前の女も、あのエジソンランプが灯る宿を後にしてからずっと、こんな思いを抱いていたのかもしれないと思った。
こんなことは女々しいな、と思った。
じゃあ連絡がきたら尻尾を振ってまたあの家に戻るのか、と自問自答した。
そして、きっと戻ってしまうんだろうなと思った。
理由なんてシンプルなものだ。ずっと好きだったのだから。すごく好きになってしまったのだから。
七日目の朝。
昨日の大雨が嘘のように空は再び晴れ渡っていた。
結局クラピカからの連絡もないまま、彼女に連絡できないまま、キルアはくじら島を後にすることになった。
「………さよなら」
甲板で、そう誰にも聞こえない程度の声でつぶやいた。
くじら島ではなく、彼女に向かって。
その三か月後、クラピカは死んだ。
あのさよならは、本当のさよならになってしまった。
クラピカの死はキルアの心だけでなく、彼女の周囲の様々なものを滅茶苦茶にかき乱した。
彼女が懇意にしていた花屋が、いつものように花と種を届けに来た際、いつもならすぐに出てくるはずが返事がなく、
不審に思い家の中まで様子を見に入ったところ、ベッドで冷たくなっている彼女を発見したとのことだった。
彼女と関わった人間は皆そうであったが、ゴンとレオリオの取り乱し方は尋常ではなかった。
キルアは彼女の葬儀に出られなかった。
そんな二人を見て、苦しさと罪悪感がとてもくじら島へ向かおうという気にさせてくれなかった。
何故あの時帰らなかったのだろう?待っていると言ってくれたのに、きっと待ってくれているはずだったのに。
偽証を嫌う彼女が嘘をつくはずなんてなかったのに、一人疑心暗鬼になって被害者にでもなったつもりで、
彼女の気持ちを裏切ってしまったのは自分のほうだったのだ。
毎晩あんなに身体を冷たくする彼女を一人おいて逃げ出してしまった―――
二度と同じ人で埋めることのできない喪失感はキルアを弱くさせた。
せめてあのままくじら島に残り、毎晩彼女の身体を暖めてやっていたら生きながらえたのかもしれない。
その罪悪感と喪失感に耐えきれず、キルアは結局クラピカの言った通りに別れた女とよりを戻した。
いつまでもクラピカを引きずるキルアを時折悲し気に眉根を寄せながらも見つめ続け、
キルアは気付けば彼女を愛するようになり、彼女を妻として迎え入れた。
大切に、愛さなければならない。愛し続けたいと思う。
傷つけた自分を赦し、傷つきながらも待ち続けてくれた女はクラピカの言う通り大切にするべき存在だと思う。
現に、キルアはクラピカを失った事実を、妻なくして乗り越えることはできなかっただろう。
「ずっと好きだったんだぜー…」
何気なく口ずさんだ歌の古さに思わず笑ってしまう。
娘に、何その曲?と怪訝な表情をされたのを思い出した。
「選曲に年が出るわな」
やれやれ、と言いながら道を行く足取りがやや重いのは年齢の所為ではあるまい。
現役のハンターで念能力者である自分にとっては苦になるような道では全くない。
まして昔よりは舗装され歩きやすくなっているのだ。
もう誰もいないはずのあの家に向かうのが、こんなにも足取りを重くさせるだなんて。
「……随分遅くなっちまったからな」
帰りが遅くなってしまった時も、ただいまを言わなかったときも。
きっとこちらの気持ちを慮って責めずに、何も聞かずにいてくれたのだ。
そんな彼女の気持ちを無下にするような真似をしてしまった。
今更帰る資格なんてない。
―――今なら分かる。あの日何故何も聞かずにいてくれたのか。
あんたも俺を愛していなかった。恋すらしていなかったのかもな。
それでもいい。例え恋でも愛でもなかったとしても。
短い人生の今際に、最期の時を共に過ごす相手に俺を選んでくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
もう十分すぎるよ。
気が付けば結婚して、子どもが生まれて、普通に家庭を築いて、普通に幸せで。
きっとこんな幸せを、家業を継がない人生を、俺に歩ませたかったんじゃないかな。
「…なんてのは流石に自惚れかな」
あの家が近づいてくる。
否、自分が近づいているのだ。
その緊張を誤魔化す様に、キルアは独り言を続けた。
まるで、そこかしこに残る彼女の気配に語り掛けるかのように。
やがて平屋のログハウスにたどり着いた。
風が吹き抜け、さわさわと音を立てるのはこのコテージのような家の向こう側に広がるススキ畑であろう。
十数年前に訪れた時と変わらぬこの家の佇まいと、あの頃と似ていて、それでいて少し違う気持ちでここに訪れた自分と。
何もかもが懐かしく、苦しくて、切ない。
あの傷ついた日々が心と脳裏に蘇る。
―――ああ。
キルアは気が付いた。
―――俺は、あんたに腹を立てていたんじゃない。
あんたが俺にくれた言葉の一つ一つに込められた意味を理解できていなかった、
ただのクソガキだった自分に腹を立てていたんだ―――
そんな自分を赦したくて、気持ちに落とし前をつけたくてここに来た。
結局十年以上たっても自己中心的な考え方を変えられない子どものままなんだな、と自分自身に呆れたが、
でも。
キルアは階段をのぼり、ドアノブにそっと手をかけた。
あの時と同じでドアには鍵がかかっておらず、抵抗なく開け放たれた。
―――そんな俺もお前ならきっと、何も言わず咎めるでもなく、こう言って迎え入れてくれるんだろうな。
「おかえり」
一歩足を踏み入れると、そう懐かしい声が聞こえた気がした。
はっとして、キルアは家の中を見渡した。
シュークロークの上に、ドライフラワーになって吊り下げられたカスミソウ。
真鍮のフックにストライプのエプロンはかけられていなかった。
キッチンの吊り棚にはガラスのジャグがややほこりを被って置かれていた。
作業台の上の剪定鋏。
小さな木製のダイニングテーブルは年月を経てやや色合いが変わっていた。
ベッドルームのドアは開け放たれていていたが、その向こうに見えたはずのシーツはなく、
木製のベッドフレームだけが寂しげに置かれていた。
そして、ウッドデッキへ繋がるパイン材のドアにはめ込まれた小窓の向こう側に見える、金糸の髪―――…
キルアは分かっていた。
それはきっと、ススキ畑が太陽の光に照らされて黄金色に輝き、彼女の髪を思わせているだけなのだと。
そんな幻覚を、見せているだけなのだと。
およそ自然の中の美しいもの全てに似ていた彼女の気配を、その中に感じたい己の願望が見せている幻影なのだと。
だがもし、もしも。
念能力者だった彼女の残留思念があるのだとしたら。
「……ただいま」
キルアは、あの時言えなかったその言葉をそっと口にした。
足をもう一歩、踏み入れた。
床板がきしんで音をたてた。
さわさわという草のたてる自然の演奏の中でその音は静寂を際立たせる。
もう一歩、踏み出す。
それでも扉のガラスに透ける金の髪はかすんで消えたりしない。
ただ、風に合わせて煌めきながら靡いている。
―――分かっている。
彼女は確かに死んだのだ。
ただただ、あの時この家に戻らなかった後悔がこんなものを見せているだけなのだ。
だがもし、もしもだ。
彼女の死後の念がここに留まり、本当にずっと己を待ち続けていたのだとしたら。
早く解放してやらなければならない。
ようやく同胞の元へ旅立てた彼女を、いつまでもここに縛り付けていてはならないのだ。
「クラピカ、ごめん…」
キルアは小さな家の中で、ドアまで、その窓に透ける黄金の髪まで、あとほんの数歩の距離を、走った。
「ごめん、クラピカ、ごめん、ありがとう、ずっと―――」
バタンと開け放ったドアの向こうに広がる光景にキルアは息を呑み、立ち尽くした。
そこにはススキ畑ではなく、黄色とチョコレート色のコスモスが一面に広がっていた。
黄色のコスモス…野性的な美しさ、自然美、幼い恋心。
褐色のコスモス…恋の思い出、恋の終わり、移り変わらぬ気持ち。
fin.
20221205.
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