翌日も快晴だった。


「キルア、いい加減起きないか」


散々汚したシーツを洗濯するべく、クラピカは未だ眠りの中のキルアを叩き起こした。
いつもと違う場所での目覚めに頭がついていかないのか、うっすらと瞼を開けた後も緩慢な動きで瞬きをするばかりで、起き上がる気配がない。
クラピカは呆れたように腰に手を当てる。


「起きたのか?起きてないのか?どっちなんだ?」

「…起きるよ」


寝起きの掠れ声でそう答えて上半身を起こす。
当然だろうが眠りに落ちた時と同じ全裸で、一度目覚めた時に空腹を覚えたにも関わらずなんやかんやでまた眠ってしまったのだということに気が付いた。
すると突然、猛烈な飢餓感がキルアを襲った。


「…死ぬほど腹減った」

「だろうな。朝食なら準備する。だから早く服を…」


きびきびと動きながらそう言って背を向け、そしてはたと動きを止め再びキルアに向き直り、
困惑したような表情で瞳を瞬かせた。


「そうだ、キルア、着替えがないのか」


昨日脱ぎ捨てた衣服は下着まで全て洗濯機のある洗面脱衣所までクラピカが持っていったという。
まだ洗濯前だとはいうし、一日洗わないくらいなら気にしないと言いたいところだったが、
潔癖そうな彼女の手前、そう言うのも気が引け、どうしたものかと悩んでいたら、


「ああ、そういえば一着だけあったな」


そう言い、何か思い出したように、ベッドの前にあるクロゼットを開けた。
レールにかかったハンガーから、やけに大きいサイズの見るからに男物であるシャツを外し、キルアにつきつけた。


「これは先日まで来ていたレオリオが置いて行ったものだが、キルア着られるか?」

「え?レオリオ?」


キルアは眼を見開いた。


「おっさん、来てたの?」

「ああ、私のことをゴンから聞いてすぐに来てな。その時忘れていったものだ。
 臨時の便があったから二泊ほどで帰っていったが、ほとんどキルアと入れ替わりだったな」

「泊まってったの?ここに?」


間髪入れずそう尋ねるキルアに、クラピカはきょとんとして眼を丸くしたが、
すぐに、キルアの言わんとしていることをその表情と声色から汲み取り、
少し困ったように眉を下げ、言った。


「…レオリオは、私が女だということにすら気づいていないよ」


キルアはかっと頬を紅潮させた。
みっともない嫉妬心が剥き出しになってしまったことを恥じ入る様に、視線を背けてクラピカの手からシャツを受け取った。


「…別に、俺はとやかく言える立場じゃねーし、いいんだけど」


そう卑屈とも言える言葉に、クラピカは何も返さない。
キルアは微かな苛立ちを覚えたが、それ以上は何も言えなかった。
これ以上、情けない態度を見せることはプライドが許さなかった。例え心に蟠りが残ったとしてもだ。

レオリオのシャツに腕を通すと、洗濯でも落ち切らなかったオーデコロンの香りが微かにして、
懐かしさの中に、心が漣だつような切なさを纏わせる。

そして、大体予想はしていたが、かなりのオーバーサイズだった。


「でっか…何この彼シャツ感。萌える?」


困ったような顔で余った袖を揺らして見せると、クラピカは声を上げて笑った。
その笑顔にキルアは視線と心を奪われる。声に出して笑うクラピカの姿は長年友人を続けている者でもなかなか拝むことができない貴重なものだ。
心の中に立った波が凪いでいくのを感じる。
少し辛いが、少し幸せだと感じる、この不安定な関係。


「…まぁ、袖を捲れば着れないこともないかな」


試しに袖を捲ってみながらキルアは言った。
クラピカは目尻に浮かんだ涙を拭きながら、


「とりあえずシャワーを浴びてこい。洗面所の隣にある」


そう言って小脇に抱えていたオフホワイトのバスタオルをキルアに渡した。
それを受け取りながら、ついでにベッドがらシーツを剥いでやる。


「洗濯するんだろ?昨日誰かさんがめっちゃ濡らしたから」


そう揶揄するように言うと、枕で後頭部をどつかれた。


「暴力反対…」


肩を竦めて頭をさすりながら、ぼそっとそう呟く。


「いいから早くシャワーを浴びろ」


冷たい声でそう言い放ち、クラピカは羽毛の掛け布団を抱えて部屋を出て行った。

正直、空腹すぎてシャワーより先に朝食を貰いたかったが、
家人の機嫌をあまり損ねるのもよろしくないので、大人しく彼女の指示に従い洗面所に向かった。

入って目の前に洗面台があり、右手にドアを隔てて手洗い所、左手に真鍮の脚のバスタブとシャワーがあった。
バスタブの横に窓があり、開けてみると、ちょうどウッドデッキの横にあたるらしく、ススキ畑が見渡せた。

ススキ畑の奏でる音と洗濯機のまわる音、クラピカが洗濯ものをぱんと広げる音が耳に届き、
キルアは目を細めて、シャワーのコックを捻った。

くじら島に来て二日目の朝のはじまりだった。









貴方花束










朝食を済ませ、片付いた後のダイニングテーブルの上にキルアは腰かけ、ペンダントライトを見上げていた。

レオリオのシャツはなんとか着られたものの、スラックスは流石に大きすぎて履けるものではなかった。
ご丁寧に一式の着替えを忘れていったレオリオのボクサーパンツだけは多少ゆるいものの腰のゴムのおかげで履けなくはなかったので、
洗濯したジーンズが乾くまではそれで凌ぐことにした。


「天気が良いから洗濯物も早く乾きそうだな…何をしているんだ?」


食器を洗い終えて戻ってきたクラピカが、下着一枚でテーブルに腰かけてライトに睨みをきかせているキルアを、
何か忌々しいものでも見るかのように目を細めて見、そう尋ねた。
やむを得ないとはいその姿で部屋をうろつかれることや行儀の悪さを咎めたいのであろう彼女に振り返ることなく、
キルアはライトの電球に手を伸ばした。


「んー…さっき間違えて電気つけちゃったんだけどさ、なんかチカチカしてたから接触わりーんかなと思ったけど、
 多分もう寿命だな。買い換えたほうがいいよ」


そう言いながら電球を外し、今日買ってくるか、と独り言のように言っている。
口径とワット数を確認していると、まだクラピカからの視線を感じるので、さすがに気になり視線を返した。


「…なに?」

「ん…いや…」


クラピカは、ふと浮かんだ自身の考えに可笑しくなってしまったように、口許を抑え、


「なんだか…やっていることが夫みたいだなと思って」


そう言って笑った。


しかし、言われたキルアのほうはたまったものではなかった。
白い肌は赤面するとすぐにばれてしまう。大きなつり目を見開いて、クラピカを凝視した。
あからさまに照れているのが分かってしまい、見ているほうであるクラピカもつられて赤面してしまう。


「あ、いや世間一般で言う夫婦関係の夫の役割のイメージがというか、
 その……深い意味はなかったんだが。すまない」


いたたまれなくなり、クラピカは軽く頭を下げて踵を返した。


「服が乾いたら、町に買い物に出かけよう。
 キルアの着替えと、食材と…あと電球か」


そう言って足早にウッドデッキへと消えてしまった。
キルアは電球を持っていないほうの手で顔を覆い、唸ってしまった。


―――なんだこれ。めっちゃいいじゃん…









--------------------------------------------------------------------------









結局洗濯物は昼ごろにはほぼ乾き、レオリオのシャツの出番はなくなった。

町に向かう道すがら、とりとめもない会話をした。
以前キルアがくじら島に訪れた時の話だったり、思い出話が主だった。

不必要な会話はしないイメージがあったクラピカだったが、
キルアが想像していたより会話のキャッチボールは続いた。

そういえばクルタ族は元々公用語は使わず、クルタ族独自の言語があったと聞いたことがある。
時折言い回しが堅苦しかったり変わっていたりするのは小難しい文献を読んで公用語を身に着けたせいかもしれない。
堅苦しいのはあくまで公用語に訳してから発しているからで、
本来のクラピカはもう少しくだけた人間なのかもしれない。

長年友人であるはずなのに、そんなことにすら気付かなかった。
自分で思っていた以上に、彼女について何も知らないのだと感じた。


町に着くとまず昼食にした。
キルアの好きなもので良いというので、遠慮なく自分好みの店にしようと思ったが、
ついクラピカの手前、洒落た雰囲気のテラス席があるリストランテを選んでしまう。

地中海料理の店だった。わりと好きではあったので結果オーライだったが、
デザートのティラミスが配膳された直後にカナブンがとまってぎょっとした。
クラピカは顔を背けて笑いをこらえながら、私のをやるから気を落とすな、と言った。
キルアは少しむっとして、


「笑い堪えてんなよ…爆笑されたほうがまだマシ」


そう言いながら、クラピカのティラミスを遠慮なく受け取った。


「そ、そうか?では遠慮なく…くっ、ふふっ」


クラピカは、爆笑とまではいかないまでも、声に出して笑った。
キルアも彼女の笑い声につられて、思わずふっと笑みを零してしまう。



―――やばい。これはやばいな…



昼食の後は電球を購入し、次に二人で着替えを選んだ。
こんなのはどうだ、と、デカデカとKUJIRA ISLANDとプリントされた観光客向けのティシャツを指さされ、
それだけは嫌だ、彼シャツのほうがマシだと言うとクラピカは腹を抱えて笑った。
よほどレオリオのワイシャツの件がクラピカにはツボだったらしい。

くじら島には大きな衣料品店はなく、
たまたま車で出張販売に来ていた全国展開メーカーのごくシンプルなものを購入した。
早く乾くように、ボトムスはクラピカのものと似たようなリネン素材のものにした。

その後はクラピカの提案で、食材の買い出しに行く前にラグーン沿いのボードウォークを散歩した。
波はほとんどなかったが、ウミネコの鳴き声と塩味を感じる風が海を感じさせる。


「めっちゃキレーじゃん」


エメラルドグリーンの珊瑚礁が煌めく海面を眺めながら、キルアが言った。


「泳ぎてーなー」


のびをしながら潮風を吸い込む彼の後ろ姿に、


「海が好きなのか」


と、数歩下がって歩くクラピカが尋ねた。
そうだな、とキルアは答える。


「知ってると思うけど、俺んちってすげー山奥で、とおーくにある地平線の海くらいしか見られなかったからさ。
 海ってやっぱなんかテンション上がるんだよな」

「なるほど、そういうものかな」


顎下で切り揃えられた靡く髪を押さえながら、今度はクラピカが答える。


「私の故郷も森の奥深くにあった。海というものはおよそ文献でしか見知りえなかったが…
 綺麗だとは思うが、あまり泳ぎたいとは思わないかな」

「ええー、なんで?」

「というか、泳いだことがないので、泳げるかどうかも分からない」


少し気恥ずかしさを滲ませて笑うクラピカに、キルアは足を止めて振り返った。


「じゃあ明日泳いでみる?」


そう尋ね、さっきの服屋水着も売ってたよな?と続ける。
クラピカはキルアの提案に顔を引き攣らせ、手のひらを横に振った。


「いや、いい。私は遠慮しておく」

「なんで?水着持ってないなら買ってやるよ」

「いや、買ってもらうくらいなら自分で買う」

「別に遠慮するこたねーけど、泳ぎくらいハンターたるもの嗜む程度にはできたほうがいいと思うけど」

「それが必要になればその時にちゃんと訓練する。
 とにかく、泳ぐのは遠慮しておく。水着など着たことがないし」

「いや着れるでしょ水着くらい」

「断る!そんなに泳ぎたいなら一人で泳げば良いではないか」

「一人で泳いだって楽しくねーし。クラピカの水着姿だって見たいし」

「私の水着姿など、見たって目の保養などにはならん」

「いや、なるよ!なるなる!俺どっちかってーと貧乳のほうが好きだから」

「………」

「…すみません…」


日差しは暑いくらいだというのに、クラピカの纏う空気が急に氷点下になったものだから、
キルアは白い肌を更に青くして声のトーンを落とした。
どうやら地雷を踏んでしまったらしかった。

分かればよろしい、とでも言いたげにクラピカは息をつくと踵を返した。


「…そろそろ夕飯の買い出しに行こう。マーケットが閉まる前に」


少々機嫌を損ねてしまったらしい。
どうしたものかと頭をかきながら、キルアはクラピカに駆け寄った。


「なー、ごめんって」


軽いテンションで謝罪しながら、がしっと肩に腕をまわした。
その勢いでクラピカの身体は揺れたが、心には響いてなさそうだった。


「別にかまわん。事実だしな」

「そーじゃなくってさ、クラピカの身体綺麗じゃん。水着だって似合うって」


大体、水着どころか裸を見せ合っている仲なのだから今更恥じらうこともないだろうと思うが、
それとこれとはまた別なのだろうか。


「…綺麗なんかじゃないよ、私の身体は」


軽く笑いながらそう言うクラピカの言葉は急にトーンが変わって、自嘲気味だった。
彼女の言う美醜は、おそらく表面を飾る肌の滑らかさやパーツの美しさなどではないことだと、キルアは察した。

自分を自分で傷つけ血を流すような生き方をしてきた女だ。
おそらくその言葉を吐きながら過去に犯した罪や自傷行為を反芻しているのであろう。


クラピカの肩にまわした手で、とんとんと赤子をあやすように叩いた。


「……なんで?綺麗だよ」

「綺麗じゃない」


クラピカのブロンドが風に靡いて輝いた。


「…綺麗じゃないんだ」


そう言いながら地平線まで続く青い海を眺める。
この海を越えた世界で生きてきた今までを考える。
復讐のため、仲間の眼を奪還するため、綺麗ごとではすまされない事を犯してきたことは想像に容易い。
そして、キルアもまた。


「…あんた、さ。昔にも言ってたよね、そんなような事。
 キルアは綺麗だ、私と似ているようで全く違う、って」


キルアは十年以上思考を捕え続けてきた疑問の一つを投げかけた。


「あれって、どういう意味だったの?」


海水が岩にぶつかる水音と、切なげなウミネコの鳴き声が音楽を奏でるように重なり合う。
それにじっと耳を澄ませていられるくらいに、沈黙が続いた。

キルアが思っていた通りに、それは返答の鈍らせる質問だったらしい。
絶対に答えを貰えない禁断の領域ですらあるのかもしれない。
その証拠に、隣を見やればクラピカは表情を悟られぬようにか、俯いてブロンドに顔を隠すばかりで、
口を開くような気配は微塵も感じられなかった。
それなのに、キルアには彼女が泣いているように見えた。

はぁっ、と諦めたように息をつき、キルアは短く


「ごめん」


と謝った。

クラピカの肩を掴む手に力をこめ、立ち止まらせる。
その謝罪は己の質問に対してか、それともこれから自分がしようとしている行為に対してか。
俯いたままのクラピカの頬を掴むようにして上を向かせ、顔を近づけた。


「あっ…」


うつろな表情に突然焦燥と困惑を浮かべ、クラピカは再び顔を背け、キルアの胸を押し返した。

あまりにもあからさまにキスを避けられ、さすがに傷ついたような顔を見せる。


「なんだよ、そんなにイヤかよ」

「そんな、こんな公衆の面前でするようなことではないだろう」

「公衆なんてウミネコとフナムシくらいしかいねーっつーの」


苦しい言い訳ご苦労さん、とズボンのポケットに手を入れてすたすたと足早に歩いていく。
が、すぐにぴたりと足を止めた。


「なあ、俺たちって…」


振り返らずに、そう声を振り絞る。
繋げようと思った言葉は上手く舌に乗ってこなかった。
まだ、こんなことを聞く段階にはない気がしていた。


―――俺たちって、どういう関係?


その一言が出てこない。
あるいは、その言葉を言わせまいとするかのように、クラピカが口を開いた。


「キルア―――すまなかった」


如何ようにも捉えることのできる、その謝罪の言葉は、この珊瑚礁を揺らめかせる波のようにキルアの心を漣だたせる。


「その…私は、お前と…」


その先を聞きたいような、聞きたくないような。どちらかというと後者だった。
クラピカが身体を赦すのは好意からの行動ではない。
彼女の言動からもそれは汲み取れる。
彼女は決してキルアを縛り付けようとしない。


「その…お前とキスをすると、だな…
 どうしても……変な気分になってしまう…ので」


そう言うクラピカの声は海の泡と消え入りそうなほど小さく、かろうじて聞き取れる程度のものだった。
キルアはそっと肩越しにクラピカの顔を盗み見たが、逆光でよく見えない。
表情を悟られぬためか、気恥ずかしさに耐えられなくてか、背けられていることだけは確認できた。

苛立ちのような、怒りのような、欲情のような、
綯い交ぜになってわけがわからない感情に、キルアの顔が熱くなった。


―――何なんだよ、計算で言ってんのか?


上手く濁した回答だと最早関心する。
変な気分になってしまうイコール欲情してしまうだとすると、
それは好意を抱いているからこそだとも受け取れるし、そういう感情とは切り離された割り切った欲望だとも取れる。
いずれにしても、こう言われて悪い気のする男はいるまい。
実際、好意を切り離したとしても彼女との情事はキルアにとって抗いがたいほどの魅力的なものであった。


―――こいつ、俺のことただの竿としか思ってねーんじゃねーか?


などと下品かつ卑屈な考えも脳裏をよぎったが、そこは飲み込み、
はあっとこれ見よがしにため息をつき、


「…明日一緒に泳いでくれたら許してやんよ」


ついと前を向き直って、そう言った。

再び歩き始めたキルアの後をついて行くように、クラピカも再び歩き始めた。


「…先ほどの店に戻ってみるか」


そう言うクラピカの声はどこか安堵しているように聞こえた。
あれほど、泳ぐことを、水着姿になることを嫌がっていたにも関わらずだ。
まるで、その程度のことで機嫌を直してくれるなら、と言わんばかりに要望を呑む彼女に、
そんなに俺に許されたいか、と頬が緩みかけてしまう。
きっと、簡単な男だと思われているのだろう。
その自虐的な心が、なんとか頬の筋肉の緊張を保たせていた。


「あそこ、すげーシンプルなつまんねービキニしかなかったじゃん。
 ミトさんあたり貸してくんないかなー」

「そんな邪な理由で女性から水着を借りようとするな!
 だが、ゴンの叔母殿には近々挨拶に伺わねばなるまい」

「そーだな、俺も日帰りのつもりだったから予定に入れてなかったけど、
 急遽長居することになったから顔くらい出さないとな」

「では明日は海で泳ぐとして、明後日お邪魔させていただこうか」

「明日海の前か後じゃダメなの?」

「正直予定を詰め込んでしまうと…今は身体が…」


二人で明日や明後日の予定を立てながら港に戻り、黒のセパレートタイプのシンプルな水着を購入し、
マーケットで夕食の材料を買い込み、帰路についた。

クラピカが買ってきたものを整理している間にキルアが電球を付け替え、
今日の夕餉を担当することになったキルアが支度を進める間にクラピカがシャワーを浴び、
クラピカが食器を洗っている間にキルアがシャワーを浴び、
ウッドデッキで夜風を感じながらクラピカは白ワインを、キルアはピルスナーを開けた。

来年のハンター試験の試験官の依頼が入った、とか、今年のルーキーが、だとか、
そんなとりとめもない話題が続き、アルコールが回ってくると次第に、
あの頃ゴンがああで辛かった、念の師匠がだらしなくて、などという愚痴が混ざってくる。
しかしそれもそう長くは続かず、沈黙が下りると、どちらからともなく口づけた。
勿論、それは公衆の面前でできるようなキスではなく、酔いが痺れを巡らせるように舌先は快楽ばかり捉えていく。


―――もういい、なんでも。


ただこの淫らで怠惰で甘美な日常が永遠に続いてほしい。
彼女と情事に耽っている間はそんな快楽に興じる以外のことは考えられなかった。

しかし、二人果てた後に冷えていく彼女の身体を、今宵もまた温めようと己の体温を与えているその間、
急速に理性を取り戻していくと、ふと、感じるのだ。


本当にこれで良いのか、と。









--------------------------------------------------------------------------









三日目。
天気はまたも快晴で予定通りビーチに出かけることになった。


やはりクラピカはキルアより早く起きていて、キルアがプレゼントしたコスモスとカスミソウの剪定をしていた。
水を張った桶の中で茎を一センチほどななめに切落としり、ジャグには少しだけ茎の断面が浸かるように少量の水を張り、余分な葉を手で削いで取り除く。
そうしたほうが茎が腐らず長持ちするのだと。

そうした細やかな作業を彼女がキッチンで行っているとき、
洗濯物を干しているとき、時折、疲労を滲ませて額を押さえる仕草をするとき。

キルアは彼女を抱きしめたくなる。
きっと恋人同士なら躊躇いなくできるのだろう。
しかし、今の自分たちの関係では、それは情交の合間にしか許されぬ行為なのかもしれなかった。

それならば。


「…?どうした、キルア」


背後から腰に手を回して抱き着いてきたキルアに、
まるで突然すり寄ってきた野良猫にかけるような優しい声で、クラピカは尋ねた。


「別に…」


甘えるような仕草とは裏腹に、キルアの声は拗ねたような色を持っていた。
肩に乗せられた顎をちらと見やると、予想に反してキルアは何もしてこない。
てっきり、そのままキスされて、またベッドに雪崩れ込む流れなのだと思ったが。


「…したいのか?」


クラピカは率直に尋ねた。
キルアは益々クラピカの肩に顔を埋めるばかり。


「…別に。する時しかこうしちゃ駄目なわけ?」


益々拗ねた口ぶりになってそう言うキルアに、クラピカは一瞬の戸惑いを見せる。
剪定鋏を一旦、キッチンの作業台の上に置いた。


「…駄目ではないよ。キルアは意外と甘えたなんだな」


空いた手で、二、三度キルアの銀髪を撫でてやった。
そしてまたすぐに剪定鋏を手に取り、花の手入れを手早く終わらせる。


「―――できた。ほら、支度をしないか。海に泳ぎに行くのだろう?」

「…はーい」


叱られた子どものように、だらんと腕をたらしてクラピカの腰を開放する。
踵を返したキルアの背後を見て、クラピカは年上じみた苦笑を漏らす。
が、その笑みはすぐにもの寂しい微笑にかわり、やがて、その微笑みも消えた。









--------------------------------------------------------------------------









人の多いビーチよりも、昨日の綺麗な珊瑚礁があるボードウォーク沿いのほうが生き物も多そうだし潜りがいがありそうだ。
とういうキルアの提案により、ボードウォークのある海辺へと向かった。

水着は中に着こんでいくことにした。
泳ぎ終わったらボードウォークで日向ぼっこして乾かし、また上から服を着て帰宅し、
シャワーは家で浴びれば良いだろう、というところに落ち着いた。


「そもそもここは遊泳禁止ではないのか?」

「そんな時のためのハンターライセンスです」

「誤ったライセンスの使い方だな…」


クラピカは呆れたため息をついたが、ここは特に遊泳禁止との看板も出ていない。
人通りもほぼ無いし、泳いでいたとして咎めるような人間はこの島にはいないような気がした。


「俺おっ先ー」


ぽいぽいと服を脱ぎ捨て、ビーチサンダルを脱ぎ、キルアはさっさと先に海へ飛び込んでしまう。
クラピカは呆気にとられ、どぼんと水音が立った透明な海水が泡で濁ったさまを凝視した。

ほんの数秒のうちにキルアは上がってきて、海水から顔をだし、


「つめてー!」


と叫んだ。
普段はふわふわとパーマがかかったような銀の頭髪が今は肌に張り付いており、
まるで別人のように見えた。
額に張り付いた前髪をかき上げ、


「オメーまだ脱いですらねーのかよ?早く来いって」

「そ…うは言っても、私は泳いだこともなければ、水着になったことも…」


そう言いながら、もたもたと水着の上に羽織った衣類を脱ぐ。

水着はビキニではなくセパレートタイプの、アメリカンスリーブのシンプルなデザインだった。
ビキニを着せたいキルアと、ビキニは絶対に着たくないクラピカの意見の間をとった妥協案での選択肢だった。

選んだ当初は不服だったが、これはこれで、悪くない。
クラピカのスレンダーで手足の長い、かつ程よく筋肉のついたしなやかな身体にはよく似合っていた。
というか、ビキニやワンピースよりこちらのほうが似合っているかもしれない。


「何をじろじろ見ている?」


キルアの視線に気づいたクラピカが、ビーチサンダルを脱ぎながら軽蔑の眼差しで見下ろしてくる。


「いや、良い眺めだなぁと」


と言った直後に顔面に白いビーチサンダルの片方がスパーンとクリーンヒットした。
ビーチサンダルは悶絶するキルアの傍らでぷかぷかと揺蕩っている。


「…オメー、水も滴る良い男を顔面ブレイクすんなよ…」

「ブレイクまではいっていないだろう」

「そーいう問題かよ…」


キルアは顔をさすりながら再び視線を上げると、クラピカはボードウォークの傍らに腰かけていて、まだ入ってくる様子はない。
というよりは、どうやって入るか思案しているようだった。


「何やってんだよ?早く入れよ」

「いや…キルア、お前は、どうやって浮いているんだ?」

「どう…って」


キルアは水面より下の自身の足を見てみた。
多少、水を蹴るようにしてはいるが、ほとんど感覚的なものだ。


「…なんとなく?」

「な、なんとなく、だと…」


クラピカは顔を引き攣らせる。


「…そんな、不確かなもので…」

「怖い?」


キルアはニッと笑った。
クラピカはムッと口を結ぶ。


「…怖いわけではないが、正直、その水の透き通った青さを見ていると…吸い込まれそうで…」

「要は怖いんだろ?」

「だから、怖いわけではない」


意地を張るクラピカに、キルアはくすりと笑った。
結構じゃないか。昔は、死すら恐れぬような無鉄砲な性格だった。
子どもが暗闇を怖がったり、女が虫を怖がったり、男が歯医者を怖がったりするのと同じように、
何かを怖いと思えるようになったのなら。


「大丈夫だよ。俺が支えててやっから。
 てか、オメーのことだからどうせすぐ泳げるようになるだろ」

「まあ、そうだろうが…」


クラピカはしぶしぶといった仕草で海水に足先をつけた。
そしてすぐに、眉を顰める。


「つめたい…」

「入ればすぐ慣れるよ」

「そうなのだろうが…」


いい加減焦れて、いっそその足を引いてやろうかとも思ったが、
クラピカの体調のことを考えるとさすがに心臓に悪いのではないかと気が引け、
少しずつ海水に入ってくるクラピカをじっと待った。
クラピカはずっと、水の冷たさに眉間に力をこめていた。

ようやく鎖骨まで海水に浸かると、不思議そうな面持ちで水面に視線を落とし、
やがてボードウォークの端を掴んでいた手もゆっくりと離した。


「…本当だ。なんとなく泳げそうだ」

「だろー?」

「では失礼する」

「えっ」


言うや否や、クラピカは水面から姿を消した。
潜っていってしまったのだ。


「マジかよ…」


キルアは途方に暮れたように呆れて呟く。

つい先ほどまであれほど海に入るのを恐れていたのに、泳げると分かったとたんにこれだ。
ゴンと同じで、好奇心に勝てないタイプか。
キルアは意外に思ったが、慌ててクラピカの後を追い潜った。
深く潜ったところで何かあっては大変だ。


先ほど潜った時はきちんと見ることができなかったが、ここは素晴らしかった。
名も知らぬ美しい小さな魚たちが泳ぎ、色とりどりの珊瑚礁にはイソギンチャクや、海老らしきものが岩陰から顔をのぞかせてこちらを伺っている。
ハンターの洞察力をもってすればそこかしこに生命の気配が散らばっていることがわかる。
その中心にクラピカがいた。


―――なんか、人魚みてー…


そんな感想を抱いた自分に恥ずかしくなる。
ロマンチストか、俺は。


不意に、前方を泳いでいたクラピカが身を翻し、上を指さした。
おそらく一旦水面に出ようという合図だ。
キルアはそれに従い、太陽の光さす方へと進んだ。


海の中も明るかったが、外はより明るかった。
そのことに海から出て初めて気づいたかのように、キルアはまぶしさに眉を顰める。
一足先に水面から顔を出していたクラピカは、キルアが顔の水を拭って視線が合うのを待ってから、にこりと微笑んだ。


「気持ちがいいな」


クラピカの髪が真上にきた太陽の光に反射して濡れ光っていた。
興奮しているのか、少し陽に焼けたのか、頬は少し赤らんでいた。

続く海の地平線と太陽と森の緑とウミネコの鳴き声に囲まれたクラピカは、
それら自然の美しさと比較しても引けをとらない美しさだった。
寧ろ、それらに愛されているが故に美しいとでもいうかのような。
まるで、いつかはそれら自然に還さなければならないような、例えるのであれば、妖精のような美しさ。

いっこうに顰めた眉をもとに戻さず、じっとクラピカを見つめるキルアに、
クラピカは不思議そうに首をかしげた。


「クラピカ」


キルアは手を差し伸べて、クラピカの頬に添えた。
クラピカの表情はやや緊張に強張った。
いつもの軽い調子ではない様子に、何故か逃げたいような気持ちになる。
逆光でキルアの表情が見えないのが幸いだった。
水面は強烈な光を反射していて、それが彼の視線を遮っているのも幸いのうちだった。


「すげー綺麗」


感じたことをそのまま言葉に乗せた。
ただそれは、キルアが一番伝えたい言葉ではなかった。
まだ伝えられる段階にはないと感じている。

クラピカは突然のこと戸惑い、ふいと視線を逸らした。


「な…にを、突然…」


誤魔化す様に軽く笑っていなしたが、頬に添えられた手に力を込められ、こちらを向けと促さられると、
逆らえずにそれに従ってしまう。
キルアの顔が驚くほど近くにあった。


「すげー綺麗…」


キルアの言葉はクラピカの緊張を甘やかに蕩かす。
昨日のように公衆の面前だと避けるつもりが、気が付く彼を受け入れてしまっていた。

ただ押し付けるだけの口づけは情事のそれと違う。

違うことに気が付いても、違うからこそ、拒めなかった。
唇からキルアが本当は何を言わんとしているかが伝わってくる。


唇を離して、駄目だ、と言おうと口を開いた瞬間、ほとんど事故のように舌が触れ合ってしまう。
それをきっかけに、口づけはより深くなる。
気が付けば自身の両手もキルアの頬をとらえていた。


そう遠くない場所から―――おそらくボードウォークの向こうから。
人の話し声が近づいてくる。


「ッ…キルア、駄目だ、人が」


先に理性を取り戻したクラピカが、はっとしてキルアの頬を開放して言った。
しかしキルアはクラピカを解放しようとはせず、そのまま二人の姿を隠すように水の中へと消えていく。


溺れるような感覚の中で、二人は唇を交わし続けた。









to be continued.
20221016.




ブラウザバック