朝が来た。



シンディーはあの後泣き疲れて眠ってしまい、まだ起きる気配はない。
妙に大人びていても、まだ子供だ。そう簡単に目覚めたりしないだろう。
そろそろサンドラが帰ってくる時間だ。

朝食の支度はできている。
いつもどおり、食べずにベッドに倒れこむだろう。
朝食というよりは昼食というべきだろうか。

サンドラの家で借りている部屋のベッドの端に腰掛け、
この街にやってきた時とおなじバッグに荷物を詰め込む作業を終えると、ふう、と息をついた。
隣の部屋のシンディーが起きてくる気配はない。
いつもこの時間はまだ寝ているとはいえ、流石に今日は隣室の様子が気にかかった。

ふと、思い出して、ブーツの中のナイフを取り出した。
昨日オレンジを剥いたままだった。洗わないと錆びてしまう。
気配を断って、そっと部屋を出る。隣の部屋のドアを見た。
起こさないで、と書かれた札が下がっている。テリーは小さく笑むと、キッチンに向かった。
蛇口を捻って水を出すと、音を立てないようにナイフを洗った。
柑橘系の爽やかな香りが鼻をつく。
なんてことはない嗅ぎ慣れたその匂いが、今日は胸を締め付けた。




「ただいまぁ。帰ったわよ」




突然、玄関のドアが開き、テリーは跳ね上がった。
そんなテリーには目もくれず、サンドラはソファに一直線に向かい、ばたりと倒れこんだ。
テリーは怒ったように眉を顰め、大袈裟に溜息をついた。



「シンディーが寝てるんだ。静かにできないのか」

「まーったく、あんたは飽きもせず毎日おんなじことばっかり言って…
 ちょっとは気の利いたこと言えないの?」

「気が利かないのはどっちだ」

「朝食は?」

「目の前のテーブルの上にあるだろ」

「後でもらうわ」

「はいはい」



彼女が帰宅して、家中に酒の匂いが充満した。
どうやら相当飲んで帰ってきたらしい。
テリーはサンドラの様子を横目にうかがいながら、ナイフを拭いてブーツの鞘に収めた。
踵を返してサンドラの前に立ち、腰に手を当てた。



「せめてベッドで寝たらどうだ」



目を閉じているサンドラに向かって非難がましく言う。
サンドラは寝言を言うように、眉間に皺を寄せて手をひらひらと振った。



「起き上がれないわ。あんたが連れて行ってよ」



テリーは呆れたように口を開けて数度瞬いたが、
やがて諦めたようにため息をつくと、肩を竦め、



「シンディーの先が思いやられる」



そう言い、サンドラの身体を抱きかかえた。

さすがに、シンディーより重い。
男にしては身長の低いテリーと女にしては身長の高いサンドラは、体格差もさほどなかった。
しかし、テリーはちょっと苦しげに呻いただけで、ひょいとサンドラを抱き抱えてみせた。
ふう、と息をつくと、彼女の部屋に向かって歩き始める。



「…あんた、こうやって私を抱いてくれるの、はじめてね」



寝ぼけたような、どろんとした声でサンドラは言った。
テリーは少し眉を上げて、そうかもな、と言った。


サンドラを抱えたまま、なんとかドアノブを回す。
少し隙間ができたところにつま先を滑り込ませ、ひょいと蹴ると、
足早にベッドに近づき、やや乱暴とも言える仕草でサンドラをそこへ下ろした。
サンドラは驚いたように、短く悲鳴を上げた。



「もうちょっと優しくしてくれたっていいじゃない」



化粧を落とした顔を両手で拭っているサンドラを見ながら、



「失礼、想像以上に重かったもんでね」



テリーが素っ気無く言った。



サンドラは顔を拭う手を止めると、ふいと両腕を投げ出し、
疲れに潤んだ目でテリーを見つめた。



「失望した?」

「…何に」

「想像以上に重かったことに、よ」



テリーは軽く眉を上げると、肩を竦め、別に、と言った。
踵を返す。サンドラの声が呼び止める。



「今日の仕事は?」

「…朝から楽屋の掃除」

「昼からじゃ駄目なの?」

「毎朝しろと言ったのはあんただろ」

「…昼まで一緒に寝ない?」



テリーはふたたびサンドラに向き直った。

暫し、サンドラを見つめた。
否、見下すような目で見たというほうが正しいかもしれなかった。



「…街で変な噂がたつ」

「もうたってるわ」



テリーは眉根を寄せた。何だ、と言わんばかりに。
そんなテリーをサンドラはさも愉快そうに笑って見、伸びをしながら言った。



「テリーはサンドラの燕だ、ってね」



大きな眼孔で宙を睨んだ後、熱い怒りを孕んだ息を吐き、テリー靴を鳴らしてベッドへ近寄り、
腰を折ってサンドラに顔を近づけ、言った。



「悪いが、俺はあんたの大好きな金も地位も名誉もない、つまらない男だ。
 そんな男と噂になっていることを少しは恥じろ。せめてトップダンサーとしての誇りを持て。
 その誇りでシンディーを育てろ。ただのふしだらな女になりさがってどうする」

「私はふしだらな女よ、テリー。買いかぶらないで。私は立派な母親なんかじゃない。
 夫以外の男を愛することだってできるのよ。寂しい時だってあるわ。
 誰かに一緒に寝て欲しいときだってあるのよ。あなたがつまらない男だというなら、
 私ってただのつまらない、ふしだらな女よ。
 ステージを下りればトップダンサーでもなんでもない、ただの女なのよ」



テリーは、心底疲れたというような色を含ませた声色で言う。



「いいか、そんなことをシンディーの前では絶対に言うなよ。
 彼女を失望させるな。俺があんたに失望することがあるとすれば、
 それはあんたがシンディーを失望させた、そのときだ」



再び踵を返し、今度こそ部屋を出ようとする。



「待って、行かないで、テリー」



泣くような声がテリーに縋りつく。



「寂しいのよ。一緒にいて」



テリーはドアに向かってため息をついた。



「…仕事がある」

「待って、じゃあ」



ドアノブに手をかけたテリーを、もう一度呼び止める声。


このまま、振り切ることもできた。そうすることは簡単だった、かもしれない。




もし、今日が最後の出会いだという決心をしていなかったなら、だ。




テリーは、ゆっくりと振り返った。
これが最後だ、最後だと、自身に言い聞かせながら。


サンドラは泣いていなかった。ただ、泣き出しそうな顔ではあったが。
涙の一線を越えないのは、女としてのプライドがそうさせているのか。
曲がりなりにも、彼女はロンガデセオ一の女なのだ。




「…おやすみの、キスを」




震える声で、彼女が言った。




テリーはサンドラを見つめた。
こんなにまじまじと見つめるのは初めてのことかもしれない。
なるほど、こうして見ると、彼女は確かに目を見張るほど美しかった。
とても、十二歳の娘がいるようには見えないだろう。


比べるようなことではないだろうが、テリーの心を凌駕するあの赤毛の少女と同じくらいに、
あるいはそれ以上に、サンドラは美しかった。



あの少女に出会っていなければ、あるいは―――



しかし、そんな考えはいとも容易く打ち砕かれる。




髪の色が違う、目の色が違う、口が違う、
鼻も違う、背丈も違う、声も違う―――




テリーの求める美しさは、そこにはなかった。
だからといって、サンドラがあの少女とうり二つの容姿をしていたところで、
愛せたかどうかは分からない。
テリーは少女の過酷な運命のほうを愛していたのかもしれないし、
声を愛したのかもしれないし、言葉を愛したのかもしれなかった。

だからといって、サンドラが少女と同じ声で少女と同じ言葉を、
少女と同じ運命の上でとなえたとしても、
そんなサンドラを愛したかどうかも、わからなかった。


しかしテリーは、あの少女がたとえ赤毛でなくブロンドだったとしても、
きっと愛しただろうという確信があった。
あのような運命のうえに存在しなかったとしても愛しただろうと思った。
あの胸を締め付ける声が違っていたとしても、
背丈が違っていたとしても、言葉を違えたとしても、
きっと、あの少女を愛しただろう。

そして、夢の世界で少女の姿が変わり果てていたとして、
それでも少女を見つける自信があった。





テリーにとって、あの少女がバーバラであることに意味があり、
バーバラがあの器をもった少女であることは重要ではなかったのだ。
それはすなわち、バーバラ以外では意味がないということだった。





――― 子供みたいなことを言うな、と言って跳ねつける事もできた。


しかし、テリーはこれから先、
誰に愛を捧げられても応えることのできない己の罪深さと傲慢さを呪った。
そして、一瞬でも、誰とも比べることの出来ない、
唯一の存在である二人を比べてしまったことを心の中で懺悔し、
その懺悔のキスを、サンドラの額に落とした。




「Good night,サンドラ」




サンドラは、震える目でテリーを見、そしてそっと瞼を下ろした。
すっと、涙の一筋が頬を伝った。

全てを、悟ったようだった。




「…もう夜は明けたのよ、テリー」

「またすぐに夜が来る」




そしてその夜には、もういない。




テリーは今度は振り返らずに部屋を出ると、後ろ手にドアを閉めた。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




外に出ると、まだ朝だというのに蒸した空気がおそった。
眉を顰め、ポケットからシガーとマッチを取り出そうして、
ふと、指先に当たった冷たい感触にはっとした。
昨日の赤毛の女に借りたシガレットケースだ。

テリーは暫し思案した後に、一本シガレットを取り出し、
ケースはサンドラの家のポストに放り込んだ。
マッチで火をつけて吸い、ふう、と煙を吐き出す。今のテリーには軽すぎた。

サンドラ、彼女は忘れたのだろうか。
あのシガーの味を教えたのは、四年前の彼女自身だったことを。
否、忘れているはずがなかった。覚えていて、昨日あえてああいう指摘をしたのだ。
内心では喜んでいながら、その照れ隠しだったのだ。


しかし自分も、そういう確信的なものがなかったわけではない。
自分も彼女と同じで、寂しかったのだろう。

バーバラが夢の世界へ消えて、三年。
丸三年、何の手がかりも掴めずに、この世界を放浪し続けている。
仲間達にもあれ以来会っていない。姉には、夢占いのために一度だけ会ったが、
その時もあの水晶は夢の世界でのバーバラをうつすばかりで、その道を示しはしなかった。



―――寂しかった。



だから、何かにつけて、
給料から天引きだと言ってテリーを引きとめ続けた、サンドラの言いなりになっていた。
彼女の好意に甘えていたかったのも、赤毛のライザにまんざらでもない態度をとっていたのも、
この三年で足元から頭上まで降り積もった孤独を払い落としたかったからだ。
愛を知った今、テリーにとって孤独はあまりに重く、辛く肩にのしかかった。

この三年間、必ずまた会えるという確信もなく、
愛した少女を求めて旅をするのは、あまりにも心許なかった。
口に出したり、心の中で言葉にすることは、漠然とした不安の渦中へと、
更に陰惨たる絶望と悲劇を綯い交ぜにすることになりかねないので、
思いにすることすら憚れたが、
しかしテリーは、ふたたび彼女と会えるとは“思っていなかった”。

無謀な登攀であると引き止める身内や仲間たちを振り切ってまで、
二度と出会えるはずのない彼女を求めてこの旅を続けるのは、
旅を続けることで、“いつか会える”はずの彼女が存在していることを、
自分に言い聞かせようとしているのかもしれなかった。
あるいは、世界のそこかしこに散らばっている、
彼女がそこに“存在していた”という証を求めて―――




「…僕は君の別れた恋人
 だから何をしたって構わない
 たとえ君と別れて涙をした
 その次の日に他の女とキスをしたって
 それは君には…」




関係のない話。




そう、思えるようになるかもしれない。



四年前、サンドラの歌っていた歌を思い出して、この街に訪れた。
シンディーの言っていたとおり、皆、テリーを愛していた。
ならず者の集う街。
現実に存在しない女を追い求める救いのない男が訪れるに相応しい街だった。
身の上話を聞かせれば、女はみな美しく若い男に同情した。
誰でも慰めてくれた。サンドラのように。



だが、どこにいても、誰といても、思い知らされる。
未だに、関係のない話だとは思えない。思いたくなかった。
誰も彼女のかわりにはなれない。彼女が他の誰とも違うのと同じように。



テリーは、まだ鼠色をたたえている早朝の空に向かって、煙を吐き出した。





「トップダンサーが歌うような歌詞じゃないな」





そう呟くと、何に対してでもなく、笑った。
吸殻をむき出しの地面に放り投げ、ブーツの踵で念入りに踏みにじった。
何か許しがたい雑念を貶すかのように。








You're my
cake,chocolate and cream puff.









荷物を抱えなおすと、ポケットから帽子を取り出し、頭に被せながら、テリーは歩き出した。

そして、二度とこの街に訪れることはなかった。




fin.
20080916




ブラウザバック