大臣に渡された山積みの書類に目を通しながら、
レイドック王子のレナートは鼻歌まじりにペンを動かしていた。
王家の実権を握っているのは父であるレイドック王なのだから、
国務はまだ自分には早いなどと無責任なことを考える。
大きな椅子に掛け、羊皮紙に連ねられた小さな文字を追うのは退屈で億劫だった。
腰が石のように硬くなっている。
何とかこの惰性を打ち砕くような事件は起こらないものか、
不謹慎と知りつつもそう願わずにはいられなかった。


船を出して、サンマリーノにでも出かけようか。
久しぶりに海を眼前に、酒に料理に、馬鹿騒ぎがしたい。
帰りにはミレーユもいるマーズの館に寄って…
そうすると最低でも七日間は城を出る計算になるが、
楽しい空想に耽るだけでも、レナートの心はやわらいだ。



―――そろそろ、誰かが突然訪れるようなサプライズがあってもいいのに。



無意識のうちに、鼻と唇の間に羽ペンを挟んで、頬杖をついていた。
大臣に見つかったらまた怒られるな、などとぼんやり思いながら、
ふと、外が騒がしくなるのを耳にした。


馬蹄が鳴らす、規則正しく小気味良い音と、何人かの男のやりとり。
そのうちのいくつかの声が、こちらの地方とイントネーションがやや違っているのを聞き取った。
クリアベールか。否、慇懃にすぎるほどかしこまった口調からすると、フォーン城からの使いか。

立ち上がり、青みがかった窓ガラスの外を見やる。
小さいが、なんとかうかがえる外来者の鎧の紋章が、
レナートの予想が当たっていたことを示していた。









stay...










テリーはレイドックに来ていた。

自分がクリアベールに滞在していたことを、どういうわけか嗅ぎ付けたこの城の兵士たちに、
殿下が、早急にレイドックまで来るように、とのことでした、とかなんとか言われ、
有無を言わさずに上等の馬を与えられ、三日三晩をかけてようやくたどり着いたところだった。

突然のことに胸騒ぎがしたし、驚きもしたが、
フォーンで拝借した本を持って徒歩で移動を繰り返すのは正直億劫であったし、
前々からレイドックの王宮に設えられた書庫で調べ物をさせてもらいたいと思っていたので、
テリーにとっては願ったりかなったりというところであった。




「テリー!」




王宮内に入ると、広い中庭の奥から両手を振っている人影が見て取れた。
近くまで行って確認するまでもなく、それはレイドック王子、レナートの姿であった。



「レナート!」



テリーも彼の名を呼ぶと、馬を降り、傍にいた兵士に手綱を預け、走った。
レナートもマントの裾を棚引かせながら、走り寄ってくる。



「テリー!」

「レナ!」



二人はお互いが目の前まで迫ると、こつんと拳をぶつけ合った。
レナートは踵を返し、テリーと並んで彼の肩に腕を回した。
歩きながら、二人は話し始める。



「久しぶりだな!元気そうだ。ちょっと背が伸びたんじゃないか?」

「まさか。お前は顔つきが大人びてきた。王子の貫禄が出てきたな」

「いーや、変わらない。何一つ変わらない。
 行動を制限されるようになって、ストレスが顔に出てるだけさ」

「いいのか、王子が中庭まで勝手に出てきて」

「大丈夫、君のおかげで国務をさぼる口実ができた」

「お役に立てて光栄です、殿下」



からかうような口調で言ったテリーに、レナートは瞳を悪戯っぽっきらめかせ、
あいているほうの手で彼の腹を擽った。
テリーは叫んで腰を引き、笑いながらレナートの尻を叩いた。



「ところで、一体どうしたんだ?何か用があったんだろ」



打って変わって、落ち着いた声でテリーは尋ねた。横目に、隣のレナートを見上げる。
レナートは片方の腕だけで肩をすくめてみせ、眉を上げて笑った。



「テリーこそ、俺に言わなくちゃならないことがあるはずさ」



テリーは目を瞬かせ、呆れたように笑った。



「俺に隠し事があるとでも?」

「そうさ!例えば尻にほくろがあるとか」



テリーは笑顔のまま唇を噛み、高貴な身分の男を睨みつけながら、
その尻に今度は強烈なパンチを食らわせた。
たまらず、レナートはテリーの肩にまわしていた腕を外し、両手で尻をさすった。



「ああ…また俺の尻に蒙古斑をつくる気か」

「お前の発想はケツの青いガキ以下だ」



テリーはそう軽い口調でそしると、視線を感じ、顔を上げた。
回廊の中心にある階段の手前で、メイドらしい暗めの髪色の女が、
くすくすと笑いながらこちらを見ていた。
目が合うと、テリーは手をあげて挨拶した。
隣で、まだ痛がっている男に視線を戻すと、



「あそこのブルネットのメイドがお前を見て笑ってるぞ」



そう愉快そうに言って顔をあげると、
テリーはまた目のあったそのメイドに、今度は笑いかけながら手を振った。



「魅力的だ」

「君のパンチも相当イカしてるよ」



レナートは目尻に滲んだ涙を拭いながら言った。

ひとしきり唸り、やっと痛みがおさまってきた頃に、レナートは再び口を開いた。



「やれやれ、君といるといつまでたっても本題に入れない」

「俺のせいにするなよ」



笑いながら歩き、先ほどのメイドとすれ違いざまに、
レナートは寝室にコーヒーとターキーのサンドイッチを持ってくるようにいいつけた。
メイドはかしこまって承ったが、口の端がゆがみそうになるので、
レナートの顔を直視できないようだった。









「ターキーなんてサンドイッチにするもんじゃないだろ」

「いいじゃないか、好きなんだよ」

「贅沢者め」



テリーは揶揄するように言いながら、サンドイッチを口に運んだ。
相変わらずなんでも不味そうに食べる男だが、
決して思っていることがそのまま表情に出る男でないことを、レナートは知っていた。



「そういう君は何のサンドイッチが好きなのさ」

「レバーペースト」

「おお、通だね」



パンが喉に詰まったようで、レナートは眉を顰めながら、カップの液体を喉に流し込んだ。



「あれはくせがある」

「生クリームを入れるとくせがなくなる」

「しつこそうだ」

「そこがいい」



そう短く言うと、コーヒーを飲んだ。顔をしかめる。



「やっぱり、合わない。コーヒーよりワインがいい」



ワイン、と聞くと、レナートの目がきらりと光った。



「昼間っから酔っ払うつもりか」



言葉は咎めるものなのに、そこにはありありと期待の高揚が浮き出ていた。
テリーはカップをソーサーに置くと、
あえて大層な仕草で両手をテーブルに置き、眉間に皺を寄せた。



「すまない、冗談がすぎた。ワインよりコニャックだ」

「そうこなくっちゃ!」



高らかにそう言うと、レナートは手を叩いた。反応が返ってこないと、今度は机上のベルを鳴らした。
あらわれたメイドは先ほどと同じブルネットの女だった。
レナートがワインとコニャックを頼むと、メイドは、一緒に鎮痛剤はよろしいんですか、と尋ねた。
レナートは自分の尻を叩いてみせて、あざになったら痛みが引いた、と言った。
テリーはさすがに吹き出した。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




ほどよく酒もまわってきた頃だった。
調子にのったレナートが、テリーの飲んでいるコニャックを欲しがった。
テリーは、強国の王子がアルコールでぶっ倒れたら、飲ませた俺は一躍国家のお尋ね者だ、
と言って渋ったが、一口だけなら、と言ってショットグラスを渡した。

案の定、レナートは舐めるようにコニャックを口にした直後、
渋い顔をしてグラスの中の黒い液体を睨みつけた。



「ひどい。これはきついな」

「だからやめとけっていうのに…けど、さすが王室御用達、最高級品だ」



兄のように年上じみた声で言い、テリーは返されたグラスを受け取った。
最高級品の味が分からなかったことが悔しいのか、
レナートはワインで口直しをしても苦い顔をしている。



「よくこんなの、平気で飲めるな」

「普段はあまり飲まないがな。今日はなんとなく」

「なんとなく?どうして?」



レナートの瞳がきらりと、隙なく光った。
これまで、それとなく話題をすり替えてきたテリーから、
彼の本心を引き出すチャンスかもしれなかった。

酔ってはいても、一国の王子。酒は飲んでも飲まれない。


テリーはグラスの中身を一気に飲み干すと、
一瞬、辛そうに眉を顰めたが、すぐに妖しげな笑みを浮かべ、ボトルからおかわりを注いだ。
その手元が危うく揺れたのを見て、レナートは慌てて彼の手首を掴み、
注ぐよと短く言った。テリーも短く礼を言うと、ボトルを預けた。



「そうだ、おまえに頼みたいことがあったんだ」



芳醇な香りを放つ液体を見つめながら、テリーはそれとなく口を開いた。



「…なんだい?俺にできることなら」

「なんてことはない。ちょっと宮殿内の書庫を借りたいだけさ」



質問は流されたものの、今日の本来の目的の核心に迫った彼の言葉に、
レナートは身を乗り出した。



「…何か調べものかい?」

「ああ、ちょっとな」

「一体何を?」

「大したことじゃない」

「教えてくれたっていいだろ」

「なに、本当にちょっとした調べ物なんだ」

「教えてくれないなら、貸さない」



レナートはそう言うと、下唇を突き出して、ぷいとそっぽを向いた。
そんな王子の仕草を見て、テリーは笑い、テーブルにもたれ掛かって酒を飲んだ。
再び空になったグラスを、チェスの駒を持つようにし、とんと音をたてて置いた。



「…聞いたって面白くないぞ」

「隠し事はもっと面白くない」

「やれやれ、駄々をこねて、とんだお子様だな」



呆れて、というよりは、これ以上言い逃れができそうにないことに対する、焦りのような溜息をつく。
黙り込み、思案するように、手中のショットグラスをテーブルの上でぐるぐると回した。

沈黙が続くと、やがて諦めたように、テリーは口を開いた。



「…魔道書を見たい」

「…魔道書?君が?」



嘘は言っていないが、肝心のことは隠している。
レナートはそのことに気付いていたが、今はテリーが話すにまかせることにした。



「ああ。まあ俺も自分の力量に見合うだけの剣は手に入れた。
 こうして剣術を極めると、魔法にも興味が湧いてな。
 今までは必要最低限の低級魔法しか覚えてこなかったが、
 より強力な魔法を覚えることで、俺はもっと強くなれる。
 俺の目的は昔と変わらない。力が欲しい」

「…それ以上強くなって、どうする?今更」



打って変わって、深刻さを帯びた声に、テリーは面を上げた。
そこには、怒りとも悲しみともつかない、複雑な表情を浮かべた親友の顔がある。



「身に着けた力で、今度は一体何を守りたいんだ?それとも、いまだに自分が許せないのか」

「別におまえが考えてるほど大そうな理由なんかありゃしない」

「ミレーユのことは君のせいじゃない。もう子供じゃないんだから、わかるだろ?
 それでも自分を責める君の気持ちは分かるけど、君はもう十分強い。
 それ以上強くなりたいと望むのは傲慢だ。人知の力を超えて何になりたい?」

「だから、そん…ただの、俺の自己満足だ。分からないか?」



テリーはなだめすかすように、曖昧に笑いながら言った。
レナートは腕を組み、体を椅子の背凭れに預けた。



「…ただの自己満足のために、国家機密の重要書物も保管されている書庫の鍵を、
 開けるわけにはいかない」



テリーは表情を固まらせた。

ゆっくりと、震える眼孔を下へ動かし、胸に詰まったものを吐き出すように、大きく息をつくと、
手を額に当て、俯いた。



「そんな言い方をするなんて…どうせとっくに気付いてるんだろ」

「…バーバラのことと関係があるのか」



自白の気配を見せたテリーに、レナートの厳しい表情が微かにほぐれた。
テリーは自暴自棄の如く、粗野な口調になる。



「クリアベールにここの兵士が来た時から変だと思ってた。
 フォーン王の告げ口だろ?どうして俺の周囲を嗅ぎ回る?ほっといてくれないか」

「質問に答えろ、バーバラなのか?」

「邪魔をしないでくれ。おまえに迷惑をかけるつもりはない」

「テリー、君が今触れようとしている魔術は邪悪そのものだ!」

「俺が何をしようが、おまえには関係ないだろ!」



そう吐き捨てたテリーに、レナートの肩が硬直した。

テリーは目を見開き、大きく二、三度身体を上下させる。



「…俺は俺のやりたいようにやるだけだ、
 力欲しさにデュランの手に堕ちたときのように、簡単なことだ、そう、簡単な…
 邪悪に手を染めることは何も怖くない、あの頃から…同じところにまた堕ちるだけだ」



そう、一気にまくしたてたテリーの声が、部屋に沈黙を呼んだ。

レナートは絶句していた。あまりのことに、咄嗟に返す一言の言葉すら出てこなかった。

テリーは俯いたまま動かなかった。今、レナートの表情を伺い見ることは憚られた。
どんな罵声や謗りを受けても仕方のないことを言った。
だからと言って今更弁解などできなかった。弁解するとしても、
適当な言葉など、何ひとつとして浮かんでこなかったろう。



「関係ない…?簡単に言ってくれるな…」



レナートの声は、悲哀に満ちた憎しみに染まっていた。
王子の威厳すらある、力強く、逞しい声であるのに、
そこには己の惨めさを嘆く、貧しく無力な男に等しい憐れさがあった。



「一緒に旅をしてきて、バーバラが消えたときには、共に悲しみを分かち合って…
 旅が終わってからも、こうして二人で酒を酌み交わすことの出来る…」



そこまで言い、言葉を詰まらせた。
感情が昂ぶりすぎたのか、立ち上がり、背後の窓際へと、よろよろと歩み寄っていった。
テリーは動かない。



「君がフォーンへ、イリカ王妃を鏡の中へ閉じ込めたミラルゴの呪術について尋ねにきたと…
 王の使いから知らされて…君の考えていることなど、すぐに分かった。
 だから止めようとした。友が再び同じところへ堕ちようとしていると知って、
 見過ごせるわけがないだろう。
 そんなことをしたら、君はきっと俺達の目の前から消えてしまう。バーバラのように…
 君の事を思って止めようとしたんだ…それの一体何が悪い…」



力ないレナートの声が、次第に嗚咽を含み始めたのを聞き取り、
テリーは慌て、戸惑ったように顔を上げ、
謝罪と親愛の念を込めて、レナートの名を呼び、立ち上がった。

友とはいえ、ずっと、身分の違いを二人の間の唯一の隔たりと感じてきた。
それが打ち砕かれた瞬間だったかもしれない。テリーがレナートに歩み寄ると、
テリーが広げた両腕に応えるように、レナートもテリーの背に腕を回した。



「すまない、本当に…傷つけるつもりはなかったんだ。
 一国の王子がこんな愚かな男の為に涙を流すなんて…」



父親が子供にするように、テリーはレナートの頭を優しく叩き、背をさすった。
そうすることで、レナートの嗚咽は余計に酷いものになった。
テリーの肩に瞼を押し付けて、レナートは泣き続けた。




もしかしたら、こうして会うことももう無いかもしれない―――




その不安が、レナートの心を落ち着かなくさせた。







―――俺の為に泣いてくれた。親愛なる友、レナート。できることなら共にありたい。


けれどもう、俺の“計画”は…バーバラは、俺の心の全てを飲み込んでしまっている。




今更、引き返すことはできない―――














結論から話す必要がある。

テリーは呪いの鏡に、その身を永い時とともに預けることとなった。
他ならぬ親友、レナートの協力のもとに。



そして、過程を言おう。
テリーは、はるか昔に愛した恋人の生まれ変わりを鏡の中で待ち続けたイリカ王妃のように、
その鏡の中でバーバラの生まれ変わりを待ち続ける道を探し続けていたのだ。
それが呪われた魔術の一つであると知りながら、
それでも再び出会う可能性にかけるには、これしかなかったのだ。
勿論、百年より早く再びめぐり合う可能性もある。
しかし、永遠に近い時がかかることがないとも言えなかった。

それでも、愛する女性に再び出会いたいというテリーの気持ちは、
誰の思いをもってしても、止めることなどできなかった。
レナートにはそれが分かっていたのだ。
なぜなら、彼は彼の親友だったからである。





しかし、そうと分かっていても、その呪術が決行される際、
レナートは彼の友に、こう言わずにはいられなかった。







Stay...と。









fin.
20080917




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