全身が鈍い痛みに苛まれ、酷く気だるかった。
一瞬、意識を失っていたらしく、眠気のような靄が視界を曖昧なものにしている。
時折響き渡る刃と刃の交わる音が、テリーの意識を途切れ途切れに呼び覚まそうとする。
その音は長き時を経てテリーの五体に馴染ませた本能を揺り動かす。
殺らなきゃ殺られる。
しかし身体は一向に言うことをきかない。
真空の細かい刃がこちらまで飛んできて、テリーの頬をかすめた。
若い男女の悲鳴がその空気のナイフの合間を貫く。
―――みんな、持ちこたえろ!
よく通る、少年の声が遠くから聞こえた。
その声が、主であるテリーでさえ従えることのできなかった身体に、じわりと熱を滾らせた。
徐々に、視力が回復していく。
テリーは自分が大理石の床に伏せっていることを、そのとき思い出した。
九十度回転した世界では、声の主―――確か、レックと名乗っていた。
その少年と、少年の仲間たち、そして赤銅色の肌をした主、デュランがいた。
レックという少年の剣がぎらりと閃いた。
その輝きにテリーは、はっとして半身を起こした。
聞かずとも分かった。
あの神秘的な輝き、伝説の、世界最強の剣に違いない。
その剣は一分の歪みもなく、魔王の胸元を狙っていた。
一瞬の出来事だった。
気がつくとテリーは床に転がっていた雷鳴の剣を拾い上げ、
レックのもとへ走り出していた。
誰かが、あるいはその場にいる全員が、レックの名を叫んだ。
あるいは、テリーの名も。
しかし、レックの背に剣を突き立てた直後に意識を失ったテリーの耳には届いてはいなかった。
依存症
戦いは激闘を極めたが、結果倒れたのは魔王のほうで、
封印は解かれ、クラウド城は本来の主であるゼニス王の手中に戻った。
できればすぐにでもペガサスを迎えに行きたい一行であったが、
そう上手く事は運ばない。
相当の深手を負った二人がいた。
二人の十分な休養が先決だった。
他ならぬ一行のリーダー、レックと、
この度一行の一員となった剣士、もといミレーユの弟、テリーであった。
「大事に至らなくて良かったです」
回復呪文の詠唱を終えて、チャモロはほっと息をついた。
レックは、一度は生死の境を彷徨った人間とは思えぬほど明朗な笑顔で、
ほとんど傷口のふさがった胸元に包帯をきつく巻いていく。
「ああ。チャモロのスクルトが効いたよ。ありがとうな」
そう言い、ベッドの脇の椅子に腰かけている幼い僧侶の頭をぽんと撫でた。
チャモロはそれとなくその手を振り払いながら(子供扱いされることが嫌らしい)、
不服そうに眉を顰めた。
「本当に、一命をとりとめたからよかったものの…
私はあのひと…テリーさんが、少し恐ろしいような気持ちです。
少しの躊躇いもなくレックさんを…」
「そう言うなよ、ミレーユの弟なんだからさ」
言いながらレックは、よっこらせ、とベッドから足を外へ投げ出す。
そんなレックをチャモロは慌てて止めようとしたが、
「あいつだって色々あってさ、弱ってるところを魔物に付け込まれたんだろ。
デュランに操られていたんだよ、きっと。
これから大魔王を倒す旅を共にする仲間なんだ。仲良くやってくれよ」
「それは…まぁ」
チャモロはまだ納得していないようだったが、
レックはさっさと立ち上がって、部屋を後にしてしまった。
向かう先は勿論、別室で休養しているテリーのもとだった。
部屋の前で足を止めると、中から控えめな話し声が聞こえてきた。
何を話しているかまでは分からないが、その声の主がミレーユとテリーであるのは確かだった。
レックは二度、遠慮がちにノックをした。
二人の会話はスイッチが切れたかのように、ぷつりと終わった。
ミレーユがなにかを囁くように言うと、テリーの強い、しかしどこか気弱な声が姉を咎めた。
何を話しているのか気になったが、おそらくテリーが誰にも会いたくないとかで駄々をこねているのだろうとレックは思った。
少しの間をおいて、歩み寄ってくる静かな音があり、ドアが開いた。
レックの姿を見ると、ミレーユは、まるで彼を待っていたとでも言いたげにほほ笑んだ。
「レック。テリーの様子を見に来てくれたの?」
「あ、うん、でもテリーの具合があまり悪いなら…」
先程テリーが声を荒げるのを聞いていたレックは気後れしてそう言ったが、
ミレーユはただ儚げに笑むばかりだった。
「いいえ、身体を動かすのはまだ辛いようだけれど、元気だけはあるのよ。
ありがとうレック、是非あの子と話をしてあげて」
そう言い、レックと入れ違いにミレーユは部屋を出ようとする。
ミレーユ、とレックは思わず彼女を呼び止めたが、
彼女は顔の前で細い指を軽く横に振った。
「私がいたら話しづらいこともあると思うの」
「でも」
「いいから」
ミレーユは半ばレックを振り払うように、部屋を後にした。
パタン、とドアの閉まる音の後には、なんとも言いようのない沈黙が部屋に降りる。
レックははじめて、テリーのいるベッドのほうへと目をやった。
彼は半身を起こして俯いていた。
重い真剣を振りまわすにしては小柄で華奢な背中をしている。
レックはなんとなく彼が痛ましくなった。
静かに歩み寄り、ベッドの端に腰をかけると、
視界の端でテリーの肩がびくりと強張るのが見えた。
「…具合はどう?俺たちも必死で手加減ができなかったもんだから」
「よく平気で俺の隣にいられるな」
レックの言葉を遮るように、テリーの震える声がかぶさった。
「俺はあんたを殺そうとした男だぜ」
レックは困ったようにテリーを振り返った。
垂れた頭は震えていて、まるで何かを恐れているのは彼自身のような気がした。
「それは…だって、君はデュランに操られていたんだろう」
「違うね、俺の意志だ」
テリーの声はやはり震えていたが、そこには明確に言い切る力強さがあった。
「俺は本気で、あんたを殺そうとした。
俺が殺したいって思ったからだ。デュランの意志じゃない」
あのとき、テリーの雷鳴の剣がレックの身体を貫いたとき、
ラミアスの剣もまた、魔王の心臓に突き立てられていた。
一瞬のずれが生じていたら、今死んでいるのはレックかもしれなかった。
テリーの濁った菫色の瞳と、レックの澄んだ闇色の瞳がかち合う。
レック。なにもかもを持っている男。
恵まれた家柄、最強の剣、仲間たち。
どれもテリーが心の奥底で欲したものだった。
家が裕福であれば姉がガンディーノ王に献上されることはなかっただろう。
レックほどの家柄があれば、そもそもそんなことに姉が巻き込まれることすらなかった。
ずっと探し求めていた世界最強の剣はレックの手におさまり、
彼には常に助けてくれる仲間たちがいた。
そして、その中にはあの、姉の姿。
姉という居場所を失ったテリーにとって、デュランは久方ぶりに手に入れた居場所であった。
たとえ、恐怖に支配されていただけだったのだとしても。
しかし、それを、この男は。
レックがデュランめがけてラミアスの剣を振りかざしたあの時、
彼ははるか過去にも一度自分が死にかけていたのを思い出した。
ギンドロ組のあの男。姉を城へ連れ去ろうとするのを止めようと、
あの男の身体のどこかにナイフを突き立てたところまでは覚えている。
デュランを殺そうとするレックを止めようと、レックの背に剣を突き立てたのと同じように。
テリーの欲する何もかもを持っていて、何もかもを奪い去ろうとした男。
ふ、と、テリーは口の片端と目元だけを歪めて笑った。
「レックといったな。感謝しているよ。あんたのおかげで姉さんと再会することができた。
けれど、初めに言っておくがな、俺はあんたが嫌いだ」
燃えるような紫の瞳と、困惑に揺れる黒の瞳がしばらく交叉し、
やがて諦めたように、黒の方の視線が床へと外される。
「…どうやら、そのようだね。俺を殺そうとするぐらいだし」
レックはまるで人事のようにそう言い、後頭部を掻いた。
「俺だって、人の気持ちまで操作できない。
俺を嫌いだっていう君にいきなり、じゃあこれから好きになってくれとは言えない。
これから少なくとも大魔王を倒すまでは、ずっと一緒に過ごすんだから、そりゃ仲良くやってはいきたいけど」
そう言い、レックはすくっと立ち上がる。
ベッドのスプリングが、ぎしっと跳ね上がるのと一緒に、テリーの銀糸の前髪が揺れる。
しかし、その瞳だけは、揺るぎなくレックをとらえていた。
「…なぜ、あのとき殺さなかった」
去ろうとするレックを、そうテリーが呼び止める。
「言っただろう。いずれあんたたちを殺すことになるって。
仲間だからって、ミレーユの弟だからって、安心してたら寝首を刈られるかもしれないぜ」
そう威嚇するように言うテリーに、レックは、うーんと唸って、また後頭部を掻く。
「本当に俺をこれから殺そうとする奴の台詞かなー、それ。
俺だって次は、そう簡単にやられるつもりはないし…」
そう言い、じっとテリーの鋭い目を見つめる。
テリーは怯みこそしなかったが、その表情に困惑のいろをうかべた。
「…なんだよ?」
「いや…なぜ君を殺さなかったのか、考えてる。
同じ人間だから、って殊勝なこと言えばいいのかもしれないけど…
勇者なんて言われたって俺だって人間だからさ。
君が大魔王なんかよりずっと悪い奴だったら、悪いけど殺してたかもしれないよ」
つまり、とレックは間をおいて、
「俺は別に、君のこと嫌いじゃないからさ」
そう言い、踵を返した。
「まぁ、さすがに殺されかけたし、面と向かってキライなんて言ってくるし、
好きにはなれないけどね、俺だって」
レックは、我ながら棘のある物言いだな、と思った。
背後でテリーの気配が揺らぐのを、なんとなく感じた。
彼も面と向かって(背を向けてはいるが)、好きにはなれない、などと言われたのは初めてなのだろう。
自分はずけずけと嫌いなどと言ってくるくせに、自分は嫌われたくないと。
身勝手な奴だな。そう思うわりには、そんな彼に少し同情している自分もいるのを、レックは感じていた。
「でもちょっと、興味あるよ。俺のどんなとこが嫌いなのかとか、今度じっくり聞いてみたいね。
大体予想つくんだけどさ。君はミレーユから少し齧り聞いただけでも壮絶な幼少時代を送っているし、
俺が相当恵まれているように見えるんだろうなぁ」
同情している割には、辛辣な言葉がぽんぽんと出てくる。
「それだけの理由で、殺そうとなんてするものか」
ついに、それまでだんまりを決め込んでいたテリーが、語気荒く反論した。
ドアノブに手をかけていたレックは、はた、と歩みを止めた。
テリーが彼を殺そうとした理由を話すまで、レックは待つつもりだった。
「…デュラン」
しばしの沈黙の後、テリーはぽつりとそうつぶやいた。
「あんたたちにとっては邪悪な魔王でも、あの瞬間の俺にとっては、唯一の居場所だった」
今度は長く、重たい沈黙が二人にのしかかった。
今の短いテリーの言葉からでも、察することができた。
デュランとテリー。恐らく単なる主従関係だけの間柄ではなかったのだろう。
だったら一体、何だったというのだろう。
居場所というくらいだから、家族のようなものだったのだろうか。
ミレーユがテリーにとってそうであったように。
しかし、デュランとテリーが家族…俄かには想像し難い。
「…それは、悪いことをした」
そう謝罪したのは、レックにとって最大の譲歩であった。
過ぎたことを今更どうこう責めるつもりはないし、
テリーとデュランがどれだけの関係だったのかまでは知らないが、
何にしたって自分たちはデュランを野放しにしておくわけにはいかなかった。
一体俺にどうしろっていうんだ。
レックは思わず舌打ちをしそうになる。
「君が俺のことを好き、とまではいかなくても、せめて嫌いでなければね。
俺だって、じゃあ今度は俺たちが君の居場所になってやる!くらい言えると思うんだけど。
どうもそんな言葉、君はほしくないみたいだし」
レックは自分の声が冷たくなっていくのを止めることができなかった。
そして今度こそノブに手をかけ、ドアと壁に隙間を作った。
「うじうじするのは自由だけど、仲間にだけは迷惑かけないでくれよ。
皆仲良くやってるんだ。俺のことは嫌いでいようが無視しようが構わないけど、
みんなにはよくしてやってくれよ」
そう言い、バタン、と強めにドアを閉めた。
レックの消えたドアを、テリーは呆けたように見つめていた。
まるで聖人君子です、地上のすべてのものを愛します、なんて顔をしている勇者様なものだから、
まさかあんなきつい言葉を吐くだなんて、想像だにしていなかった。
「…ふん」
テリーは拗ねたように鼻を鳴らし、ベッドの上で丸くなった。
しかし、そんな幼い子供のような表情でいられたのはほんの一瞬で、
すぐに、ふと何か手の届かぬものに思いを馳せるように、眉根を寄せた。
「デュラン…」
to be continued.
20100830
ブラウザバック